漂う蛍

 河太郎さんは河の畔の洞窟に棲んでいなさる。子供好きな河太郎さんは、時折河で溺れかけた子供がいると、助けて岸辺にあげておいてやる。そうすると、その親は河太郎さんを拝んでよ。「河童の河太郎どん、ありがとござんす」と言うんでぃ。河太郎さんだってよ。お礼を言われたくてそんなことしてる訳じゃねーけどよ。やっぱりお礼を言われんのは嬉しいよなぁ。そんな河太郎さんと旦那は懇意の間柄でよ。一度聞いてみたらまだ河太郎さんが小せえ時、溺れていなさるのを旦那が助けたんだっていいなさる。「これこそ河童の川流れだね」って旦那は言ったけどよ。確かに旦那、泳ぎは上手ぇけどよ。河太郎さんが溺れるなんてあるのかねぇ?っておいらは半信半疑だったんだけどよ。河太郎さんにも聞いたらな。本当だっていうんだよなぁ。「河童も溺れるもんなんですかい?」って重ねて聞いたらよ。「実は性質の悪い水蛇妖怪に…」ときたね。妖怪同士の喧嘩を旦那が仲裁して、それで溺れかけてた河太郎さんを助けたっていうんだからおいら魂消たさ。旦那って本当に人間なのかねぇ?

 夏の昼間は暑いからよ。河太郎さんも洞窟でお昼寝していなさる。夜になるとよ。いい頃合に涼しくなるじゃねーか? だから旦那はおいらに提灯を持たせて下さる。蛍狩りの御供にってよ。へへ。河太郎さんは洞窟の傍でいつも待っていてくれるからよ。そこへ舟をつけて、河縁をゆっくり進むんでい。おいらまだ舟は漕げねーけどよ。いつか旦那に教えて貰って漕げるようになりてぇなぁ。そしておいらが漕ぐ舟で、旦那に蛍狩りを楽しんで貰いてぇんだ。
 おっと。話が逸れちまったな。蛍ってのはな。水の綺麗なとこじゃねーと棲めねーんだよ。だから河太郎さんの教えておくんなさるところには、いつも蛍がうじゃうじゃいるんだよなぁ。小さなあの光がよ。まるで空の星がよ、地上に落ちてきたみてえに見えるんだよなぁ。「他の人はこんなに蛍が居るところなんて知らないよ」って旦那はにやっとお笑いなすったけどよ。おいら、こんなに綺麗な蛍だったらよ。いつまで見てても厭きねえなって思うんだよなぁ。

「あっ、ここは…」
 叫びかけた河太郎さんを、旦那がそっと指で止めていなさる。おいらは不思議に思ったけどよ。旦那がすることには間違いねぇからよ。静かにしていたさ。そしたら、蛍がそこかしこからふわーっ、ふわーっ。ってよ。現れたんだよなぁ。一匹、二匹…。最初はそう数えるばかりだったのによ。いつのまにかすげぇ数の蛍がおいらたちの周りにいてよ。昼間みてえな、とまではいかなかったけどよ。黄昏時くらいの明るさではあったぜ。音もなく、ふわふわといる蛍は、本当によ。漂ってるみてえだった。おいらはくるくる回る蛍をじっと見つめて浮かれてたさ。
「蛍殿。我らを主が元へ導かれたし」
 旦那がそう言うと、蛍はそっと右と左とに分かれてよ。行列を成しておいらたちをどこかへ導こうとしていやがる。「誘いに乗っちまっていいんですかい」とおいらが恐る恐る訊くとよ。旦那はにっこり笑っていなすった。あ、何か企んでいなさるに違いねぇや。
「蛍十郎さんがね。夏の宴にご招待下さったのだよ」
 蛍十郎さんって誰ですかい?って聞く間もねぇや。舟はもう漕がなくても勝手に進んでてよ。おいらは唖然としちまった。でもよ。旦那が絡んでいなさることったら、不思議じゃねぇ方が少ねえくれぇなんだよなぁ。おいらは大人しく黙ってることに決めたさ。奥の方は淵になっててよ。洞窟みてえだった。でもよ。天井が見えねぇくらいに高いんでえ。舟が自然に停まってよ。旦那はさっさと舟を降りちまった。提灯持ちのおいらが遅れを取る訳にはいかねーよな? 舟から飛び降りようとしたんでい。そしたらよ。旦那はそっと人差し指を立てて「静かに降りなさい」とお笑いになる。花魁顔負けの艶っぽい笑顔でよ。それで出来るだけ音を立てねーように降りたさ。河太郎さんもおいらに続いて静かに舟を降りた時だったけどよ。目の前に巨大な蛍が鎮座していやがった。おいらはこんなどでかい蛍を見たことがなかったからよ。驚いたね。でも旦那は平然としていなさる。
「久しいね、蛍の」
 艶やかな笑顔で見つめられたせいかね? 蛍は心持ち光が赤らんだみてえだったけどよ。笑ったかどうかまではおいらにゃ判らなかったね。でもよ。何か肯いたみてえだ。それに、何か旦那が嬉しそうにしていなさる。
「久しいの、人の」
 おいらは流石に耳を疑ったね。蛍のどでかいのが、喋っていなさる? 河太郎さんも驚いたような顔をしていなさるのに、旦那ときたらいつもにも増して涼しげなお顔だよ。参ったねぇ。
「宴席の用意は整っているからね。さあ、奥へおいで。勿論河太郎さんも、そっちの桜のも」
「桜のって…おいらのことですかい?!」
 うっかり声をあげて訊いちまったおいらを、誰も咎め立てはしなかったけどよ。旦那はやっぱり人差し指をそっと立ててお笑いになったさ。
 蛍のどでかい方は腹を揺すって笑っていなさる。
「蛍の一族はな、静かなところが好きじゃて。旦那は静かにと言って下さるのじゃよ。だがお前さんたちにはちいとばかし無理かも知れんのう。大きな声だけ出さんでくれればええよ」
 そういってどん。と腰を下ろした蛍のどでかい方は、そうじゃそうじゃ。と思い出したようによ。「わしは蛍十郎じゃ」と名乗って下すった。
「おいらは桜吉と申しやす。宜しくお願げぇしやす」
 せいぜい、丁寧にそう言って見るとよ。豪快に笑って下すった。ああ、豪傑ってこんな感じじゃねーのかな。どしん。って構えててよ。すっげぇ安心出来るっつーか、なんか一緒に居ると落ち着くんだよなぁ。でも蛍みてーなほわほわっとした虫が豪快っていうのも何か妙だけどよ。それから夜がすっかり更けるまで、蛍十郎さんの宴は続いてよ。旦那と河太郎さんはとっときの酒っつーのを頂いてよ。おいらはまだ子供だから、とっときの茶ってのを頂いたさ。それからよ。夢みてえな蛍の舞を幾つも見せて貰ってよ。まるで空にさあっと一筆書きしたみてえな雲。そう、あんな感じや、それが幾つも連なって飛ぶ様。それから跳ねるように飛んでたり。まるで手を携えてるみてえに二つ並んでこっちに行きあっちに行き。竜宮城に行った浦島さんだってこんなに綺麗な舞は見れたかどうかでさあねぇ?って旦那に言ってみたらよ。「あっちの舞はお前には早すぎるだろうよ」とにんまり笑っていなさる。おいらは「浦島さんだってあっちの方ばっかり見たとは限らねぇじゃねえですか?」って突っかかったらよ。旦那は「おや、お前も言うようになったねぇ」だとさ。おいら、まだまだ旦那には勝てそうもねぇや。ま、勝てるとも思ってねぇけどよ。
 すっかり潰れた河太郎さんを何とか舟に載せて、蛍十郎さんのところをお暇したときはもう空は白々と明け掛かっていてよ。蛍十郎さんにはすっかりお世話になりやして、ご迷惑をおかけしやした。って頭を下げたらよ。またおいで。いつか。と言いなすった。何か言い掛けたような風情がおいらは気になったんだけどよ。あまりしつこく訊くのも憚られてよ。「へえ、必ずお礼に」とだけ応えて舟を出したさ。旦那は河太郎さんと毎年来ていなさるということだったけどよ。今思うと、やっぱり訊いとくべきだったかも知れねぇなって思うんだよなぁ。

 それから暫くして。旦那のお使いで河太郎さんのところへ胡瓜を届けに行ったんでい。河太郎さんはいつになくしんみりした様子でよ。おいらに「蛍十郎さんとこ、挨拶に行くかい」って訊くんだよな。おいらは勿論そのつもりだったけど。河太郎さんは「梅雨が明けたらもう行かにゃあならんよ」っていうんだよな。でも蛍って秋口くらいまでだよな?と思ったんだけどよ。蛍十郎さんは源氏の家柄だからそれより早く皆居なくなっちまうんだと。おいらが憶えてるのは、田圃とかにいる蛍だから、平家の家柄だっていうんだけどよ。おいらにはどっちがどっちか判らねえって言ったらよ。綺麗な川で、人があまり住んでないところにいるのが源氏なんだって河太郎さんは教えてくれたんだけどよ。落人っつったら平家じゃねーか? あ、それは関係ねーのかも知れねーけどよ。それで伝言を頼まれたんだよな。
「旦那に、今夜蛍十郎さんを見舞いに行きやせんかと伝えとくれ」

 夜になって。先だっての夜みてえに、また河太郎さんを乗せて舟を漕いだんだけどよ。なんか、様子が物寂しいんだよなぁ。そうだ、あんときみてえによ。光がねーんだよ。おいらは提灯を落とさねーようにしっかり持ち直したさ。だって、これがなきゃ帰れねーもんな。河太郎さんは昼間のしんみりした様子とはうって変わってにこっとしていなさる。旦那はいつもと同じでのほほんとしていなさるから、おいらには良く判んねーや。でもこの間みてえに蛍のお出迎えはなかったんだよな。二回目だからいいのかと思ったんだけどよ。旦那がそっと漕いで進んで行くとよ。まるで蟻みてえにみっしりといる蛍の向こうに、何かよ、ちいと憔悴したっつーのかね? 疲れたような感じの蛍十郎さんが居てよ。こっちに気付くと少し笑ったみてえだった。
 顔の表情なんざ判んねーよ。おいら、蛍じゃねーし虫でもねーし。でもよ。淋しそうなんだよなぁ。こう、胸のあたりがよ。きゅーっと締め付けられるような。
「皆、逝ってしもうたよ。今年もなぁ」
 蛍十郎さんに舟の上から旦那はそっと手を差し伸べてよ。
「また、会いましょうや。蛍の」
 そう言って嫣然っつーのかね。微笑みなすった。蛍十郎さんはよ。まるで有難い観音様を拝んでいるみてえによ。「ありがとう、ありがとう。人の」と繰り返えしててよ。そっと身を横たえなすった。そうしたらよ。それまで点いたり消えたりしてた蛍十郎さんの光がよ。すうーっと消えちまってよ。おいらは仰天したね。旦那はこの前みてえによ。そっと右手の人差し指を立てて、「おやすみになったんだよ」って言うんだよな。
 結局蛍十郎さんとは殆ど話せなかったんだけどよ。でも奇妙に安らいだ気分になれたんだよな。蛍十郎さんは皆を送って最後に眠りに就くんだって旦那に聞いたけどよ。一人で淋しく眠るのは厭だろうなぁ。ああ、だから旦那は毎年河太郎さんと一緒にここへ来なすってたんだな。普段はほんとのほほんとしていなさるけどよ。へへん。やっぱりおいらが見込んだ旦那でい。

Copyright © 篁頼征 All Rights Reserved.