狐火

 その日はよ。朝からしとしと鬱陶しい雨が降っててよ。針の先を切ったみてえな細けぇ雨で、しっとりと草木も潤うような風情…ってこれは旦那が言ってたんだけどよ。おいらにはうざってぇだけなんだよな。なんか、地面に静かに染み込んで行く感じがあってよ。物寂しいっつーのかね? 「まさに慈雨だね」って旦那は手本を書く手を止めて、涼しげに外を見ていなさる。肌理が細かくってよ。白魚みてえだなっていつも思う手だけどよ。筆を持つとやっぱり様になるんだよなぁ。おさきさんみてえな細い手だと仮名用の細せえ筆が似合うし、五平さんのがっしり節くれだった温ったけえ手は大筆だって武骨って感じなんだけどよ。旦那の手は大筆がしっくり来るんでぃ。旦那は武骨って感じはしねーし、寧ろひんやりしていそうな手をしていなさるんだけどよ。細くて長え指が柔らかくふんわりと筆を持って、紙の上を走らせてるのを見た日にゃ、おいらは何か肝が震えるような気がしたね。良く寺子屋のお師匠様なんかはよ。さらさらさら…って遊び書きをするらしいんだけどよ。旦那はもっと何かを載せるような感じなんだよなぁ。だからって肩に力が入っているでもなし、ゆったりと微笑みを浮かべていなさるんでい。お寺の観音様みてぇによ。おいらはいつもほーんわりした気分になるんだよなぁ。ああ、そういや旦那が書き物をするときの姿は見事だよなぁ。端座とか正座とか言うじゃねーか? でもよ。座った姿は折り目正しいのによ。こう構えてるっつー感じじゃねぇんだよな。適当に力は抜けて無駄がねえのによ。たまにおいらをからかう時なんかは「傾城座り」っつったかな? こう、花魁みてえに少し身を引いて斜めに座るあれをやるんだけどよ。それでもだらしねえって感じはねーんだよなぁ。おいらもあんな見事な座り方をしてみてえと思うんだけどよ。真似出来ねーから始末に終えねーやな。
「桜吉」
 旦那は手習いのお手本を書く時、おいらの方を見たりはしねえんだよな。
「へい」
 不意に呼ばれたからよ。ちっと慌てて声が上ずっちまった。
「稽古が終わったら、おさきさんに月見の用意をするよう伝えておいておくれ。そうそう、特別な方のところへ伺うからね。お前も粗相のないようにするんだよ」
 そう言い終えるなり、旦那はまた花魁みてえに艶やかに笑ってよ。
「ほら、手本が出来た。稽古なさい」
 おいらの前に静かに置いて下すった。
「ありがとうございやす」
 旦那は本当にどんな字でも書けるんだよなぁ。唐土(もろこし)の王羲之、孫過庭、虞世南、それから毛色はちっと違うけどよ。顔眞卿だってお手のもの。蘇東坡だって王陽明だって思いのままでい。お江戸で流行の勘亭流も唐土の隷書も書けるよと片目を閉じられた日にゃ焦ったけどよ。おいら、旦那の字は好きなんだよなぁ。なんかよ。自由自在で、ゆったりしていなさるんでい。江戸っ子はせっかちだしおいらもそうだけどよ。旦那ののほほんとしていなさるのは、おいら好きなんだよなぁ。

 手習いの稽古は大体半時くらいでいつも終わりでよ。おいらは、おさきさんに旦那の伝言を伝えに行ったさ。でもよ。月見ってまだ早えよなぁ? そう思いはしたけどよ。伝え損ねちまったら申し訳ねえやな。おさきさんのところへ駆けてったんだけどよ。
「おさきさん!」
 頬被りをして、漬物を拵えていたおさきさんは、おいらの声にすぐこっちを向いたんだけどよ。
「旦那からかい?」
 言わねえうちに聞かれたのは参ったね。
「桜吉ちゃんは旦那のご用事は駆けてきなさるからねぇ」
 けらけらと笑われてよ。たまたま来てた五平さんまで笑い始めたもんだから、おいらは困っちまったさ。
「おう、桜吉ィ」
「へえ」
「お前は旦那に恩義がある身だからよ、そうでなきゃいけねえぜ」
 もっともらしく言いなさるけどよ。五平さんもおさきさんも、おかしそうに笑っていなさる。でもからかわれてばかりで旦那の御用も満足に伝えられねぇなんて、そんなこたあっちゃいけねーぜ。
「おさきさん、おいらを笑うのは構わねぇけどよ。旦那が、月見の用意をしておくれって…」
「あ…、ああ。判ったよ、桜吉ちゃん。お月見の用意だね」
 おさきさんの様子がちいとばかしおかしいような気はしたんだけどよ。でも旦那の声がおいらを呼んでいなさるのに気づいたからよ。おいらは慌てて駆け戻ったんだけどよ。

 その日は、薄ぼんやりと曇った日だったんだよな。おいらは旦那に連れられてよ。おさきさんの用意してくれた風呂敷包みを背負ったのは、多分夕暮れにはまだ少し早ぇ頃合だったよな。途中の橋のたもとでよ。旦那が、おいらの居るのと反対方向の袖を引っ張られててよ。良く見たら、四つ五つくれえの小せえのがよ。旦那の袖を引っ張っていやがるんだよな。
「ああ、ごめんよ。今日はね。…そうだ、桜吉。風呂敷包みから、団子を一つ二つ出しておくれ」
 おいらから団子を受け取ると、旦那はその小せえのにくれてやってよ。頭を少し撫でていなさった。
「気をつけて、お帰り」
 旦那がにっこりと笑って軽く袖を振るとよ。おいらは吃驚しちまったさ。小せえのがいきなりふっ。って消えちまったんでい。
「だだだ、旦那。今のはいったい…」
「袖引小僧だよ。可愛いだろう。ああして遊んで貰いたがるんだよ」
 それって妖怪ってことですかい、っておいらは言いかけたんだけどよ。いや、河太郎さんと懇意にしていなさる旦那だからよ。そういうのも寄ってくるに違えねえよな。

 真崎稲荷の鳥居をくぐるとよ。そこにはちょっとつり目の、どこぞの商家の旦那風の人が待っていなさった。仕立てのいい着物をきちんと召していなさる。正直いや、おいらは着物のことは良く判らねーけどよ。色白で細面で少し…そう、狐みてえな顔をしていなさる。旦那と待ち合わせていなすったのはこの方なんだろーなぁっておいらはぼんやり見てたんだけどよ。挨拶しねえ訳にはいかねえよな。
「待たせたかな」
「いや」
 そちらは?とか聞いて下さるとありがたかったんだけどよ。「桜吉と申しやす」ってとりあえず言っておいた方がいいよな。おいらは少し頭を下げて、せいぜい丁寧に言ってみたさ。
「ああ、聞いてるよ。大きくおなりだね。私は狐兵衛という」
 にっこり笑うと、目は細い三日月みてえになっちまってよ。ああ、でも愛嬌のある顔していなさる御仁だよなぁ。なんつーのかね。そう、茶目っ気みてえなものを肚ん中に閉まっておいでなさるような。
「さあさ。宴の支度は出来ているよ」
 そう言って先に立って稲荷の社の方へ静かに歩いていきなすった。旦那は並んで歩き出してたからよ。おいらは慌てて追いかけたさ。
「旦那、先だって蛍十郎さんのところで宴会しなすったばかりじゃございやせんか」
 小姑みてえだって言われるけどよ。だって、大奥様が心配なさるからよ。いつも傍に置いて頂いているおいらが言わなくっちゃ、誰も旦那に言えねえよな。
「祭というものはね、大切なのだよ。集まって宴会をするだけじゃなくてね。きちんとその地をお守り下さる神様方にお礼を申し上げて、お祭りしなければいけないのだよ」
 そういうもんなんですかねぇ?っておいらは思ったけどよ。旦那は重々しく「うむ」と肯いてにっこり微笑んでいなさる。あ、こりゃきっと口実に違いねえや。

 いつのまにか空は真っ暗でよ。さっきの狐兵衛さんの目みてえな月がぽっかりと空に浮かんでたんだけどよ。夏の盛りはとうに過ぎて盆は終わってるし、かといって月見には早すぎらあな。そう思ったんだけどよ。狐兵衛さんはおいらを手招きして、酌童になっておくれでないかいとおいらに徳利猪口を寄越すんだよな。でも、おいらには旦那と狐兵衛さんしか見えねーんだよな。他に酌して回る方がこれから来なさるんですかい。って旦那に恐る恐る言ってみたんだけどよ。
「桜吉、一旦目を瞑ってから、目を凝らして良く見てご覧」
 おいらは旦那の言う通り、目を瞑ってよ。それから目を開けたらよ。いや、魂消たね。あっちこっちに狐が居なさる。でっかいのも、ちっこいのも。相撲を取ってるのも居れば、三味線鳴らして傾城座りしていなさるのも居て、もう出来上がってひっくり返ってる狐も居たんだけどよ。さっきまで全然そんな狐なんて…っておいらは思ったんだけどよ。旦那は「見ようとしていないから、見えないだけなのさ」って笑いなさる。酒が入っちまったからよ。色白の頬がほーんのり、淡い桜みてえな色に染まってよ。この、色っぺーことったら。江戸中の小町娘が袖噛んでひっくりけえりそうだぜ。
「もう、秋だねぇ」
 しみじみ言いなさる口元にゃ紅ひとつ落としていねえのによ。なんでこんなに鮮やかな色していなさるかねぇ?

 月があっという間に沈んじまうこの頃合に、なんで月見かなぁっておいらは思ったんだけどよ。どうも満月には狸が煩せえからって、事前にやっちまうんだとよ。でも狐狸って一括りにされてんのによ。そんなに仲が悪りぃのかねぇ? だって両方とも犬の…。
「まあお狐様お稲荷様というくらいで、狐は神様にされることが良くある益獣だけど、狸を祭る神社はあまりないからねぇ」
「へえ、そうなんですかい?」
「唐土には、頭が良く心根の良い狐が、困難を乗り越えて人と夫婦になって幸せになるという話もあるのさ。かの安倍晴明だって狐の子という伝承もあるのだよ」
 これで狸だとどうもお惚け者って感じがあるからねぇ。なんて旦那は言ってるけどよ。あ、ヤベえぞ。傾城座りになってきなすった。

 あっという間に三日月が消えちまってよ。明かりが提灯一個しかねえなぁって思ってたらよ。ぼーっとした火が何時の間にか灯ってるんだよな。でも妙なんだよな。火が浮いて見えんだよ。おいら、夢でも見てるのか、見間違いじゃねーかと思って慌てて何度も目を擦って見たけどよ。やっぱり浮いてんだよな。そう、旦那が立った時のお頭のある辺りくらいの高さだけどよ。でもほんのりと温けえ感じの色でよ。ああ、そうだ。銀杏の葉が色づいた、あの色に似てんだよな。
「これはね、亡きひとを偲ぶ火なのだよ」
 旦那はそういうと、懐かしそうな目を向けていなさる。御霊鎮めの火だね。そう言ってひっそりと笑いなすったんだけどよ。なんでだろうなぁ。笑っていなさるのに、矢鱈となんか、染みるよーな気がすんだよな。旦那はもしかしたら、弟さまのことを思い出しておいでなさるのかも知れねーなぁ。って思ったけどよ。それを言うのは憚られてよ。
「旦那、飲んで下せえ」
「お、珍しいこともあるもんだ」
 目を見開いて嬉しそうにまた笑って下すった。おいらは、なんだか目頭が熱くなっちまってよ。狐兵衛さんにお酌してきやす。って挨拶してよ。旦那の傍を離れたんだけどよ。この銀杏の色した火は、なんだか染みるよなぁ。

 帰りは、鳥居のところで狐兵衛さんに暇乞いをしてよ。おいらは旦那と二人で店に帰ったんだけどよ。提灯を持とうとしたら、狐兵衛さんが「これは置いていきなさい」ってにっこり笑うんだよなぁ。良く判らねえけど、旦那の方を見たら肯いていなさるからよ。その通りにしたさ。でもよ。火がねえと帰れねえよなぁ。って思ったらよ。
「そら、狐火だ」
 狐兵衛さんが右手をかざしなすった。そうするとよ。その手からほわーっと火が出てきてよ。ゆらゆら揺れながら、おいらの手元のあたりに来たんだよな。いや、旦那が関わることだからよ。少々のことじゃ驚きゃしねーけどよ。それがおいらが歩くのに合わせてゆっくり動くのには流石に…。
「店についたら、火は消える。気をつけて帰りなさい」
 狐に化かされたって、こういうのじゃねえよな?

Copyright © 篁頼征 All Rights Reserved.