奇籍の人 黄沙の精霊


後編


 深い闇の中に、遠い記憶が蘇る。遥かな過去、あるいは未来。この役目を与えられたときの光景が。
 鮮やかで深い朱色で塗られた太い柱が、数知れず立ち並ぶ。一抱えほどもありそうな柱がずらりと、そして延々と並ぶ様は、壮観という言葉を通り越して、驚き呆れる以外の表現が不可能だった。壁は白さの中にほのぼのとした温かさを垣間見せるような色合いで、そこには純白の白特有の冷たさはない。人肌か、象牙のような温かさを持つ、やわらかい白であった。穢れなき乙女の白い肌と紅の唇のような、凛とした色が、この堂宇の色であった。歩けば、こつこつ。と鋭い足音が辺りに響き渡りそうである。だが、今は物音ひとつなく、水を打ったように静まり返っている。その中央に、聳えるように長く続く巨大な階があった。比喩的表現でなく、天にまでも届きそうである。階の両端もまた、鮮やかで深い朱色の柱が縁取っている。その階には、どうやって作られたのかさえも定かではない、長く巨大な敷物が一面に敷き詰められている。やわらかさを失わないながらも煌き輝くような光沢は、上質の絹のように見えた。ふと、頭上に圧迫感がないことに気づけば、この堂宇には天井が存在するかどうかすら怪しいとさえ思える。いや、もしかしたらあるのだろう。永劫の時を費やしても到達出来ぬ程の高さに。
 緊張の面持ちのまま、その下に膝をついた白狼と黒鷲が、空から降ってくるような声を、目を伏せたままに聴いている。「世」の境目にあってさえ最も厭わしい身を――点鬼簿に載せられぬ身を、厭うことなく面白がるでもなく、ただそのままに温かく受け入れる声だった。深くやさしい声は、――今は覗き見ることは出来ぬが――その深い色をした瞳に、限りなく似つかわしいと思えた。それが闇の色、と称されることを二人は知っている。しかし、その闇は禁忌を封印した禍々しく厭わしいものではなく、寧ろその穏やかな安らぎの色で、包みこむような温かさこそを与えてくれるものだ。厳しいその表情が緩むことはなくとも。
「望みを」
「私は……、私が望む者を取り戻したいのです」
 澄んだ声色で、銀色の髪の主は、淡々と答えた。それはまるで彼が呼吸するのと同じくらい、普通に、当たり前のことのように。それを望むことがどういうことかを知らぬ訳ではないのに。
「……俺も、取り戻したい、です」
 不器用さが声にまで表れたような、と表現したくなる声だった。気負いのようなものが少し肩のあたりに入っている。階の上の人は、彼らを見ている目を、そっと細めた。懐かしい何かを見ているように。
「では、お前たちは、それを叶えるために、これから命じる仕事をせねばならぬ。いつそれが叶うかは誰も知ることは出来ぬ。無限の時をそれに費やすとしても、その叶えられるべき願いが、叶うとは限らぬ。お前たちの願いは、それほどに重い。だが、それでもそれを願うのであれば」
 階の上の人がそれより先を続けることは出来なかった。遮るように階下の二人が答えたからだ。しかし、それを非礼と咎める者はいない。……この世には。
「はい」
「どのような事でも」
 瞳の色は違うが、宿した決意の色は似ていた。望むことが罪そのものになるなら、彼らの願いはまさに罪といえた。だが、それを罪とするなら、既に彼らは罰を受けている。階の上の人は、その深い色をした目を軽く閉じて、そっと肯いた。
「行くが良い。お前たちの願いを、叶えるために」
 それは、階の上の人が許された、唯一の言祝ぎの言葉だった。手向けられる言葉に限りがあるとすれば、階の上の人は最小限で、最大限の効力を発揮する言葉を熟知していた。解き放たれた鳩のように、力強く二人が旅立てるように、と。

 風が止むのを待って、再び沙の中へと足を運ぶ。もう、そんなに遠くはない筈だった。目の前に広がる沙の海は埃を舞い上げていたけれど、どこか哀しい匂いが漂うような気がした。とそう思うのは、この先にある筈の光景が、目に浮かぶからかも知れない。
「この先だ」
 白狼が先に立って進む。やや小柄な黒鷲は少し遅れがちだったが、体力差よりも気候への慣れの有無が両者の状態を別けているようだった。深く息を吐いたのは、息が上がっていたからである。少しでも清浄な酸素を、と思ったのだが、沙塵飛び交う中で呼吸をするものにそれは無理な相談だった。
「……」
 額にかいた汗を袖口で拭う。袖についた沙埃が汗で額につくが、それを気にしている余裕はない。空気はからりとしてはいるが、それでも気温の高さはどうしようもない。夜となれば冷えるだろうが、それも適度な涼しさとは無縁だろう。しかも昼日中にそれを期待するのは間違いである。

 荒涼とした沙漠の果て。沙に埋もれるように、それはあった。半ば倒壊した家屋が幾つか、ほんの少し地面から盛り上がっているように見える。いや、崩れ落ちて行った結果、そうなったのだろう。掘っ立て小屋さえももっとましなものであるに違いない。予想以上に凄まじく荒れ果てた様に、黒鷲は息を呑んだ。端切れが頼りなく柱にしがみつき、糸屑が散らばる。しかし、それは「恐らくそれであったもの」とつけるほうがより正しい。生活していた人達が居た、ということは判る。ただ、それは「遥か昔」だったろうという以外のことは判らなかった。既に流れた時間が長いものだったということは判る。朽ちかけた布がそれを語る。だが、どうやってそうなったかを語れる人は、ここには居ない。
「ここだ」
 小さな集落の跡地であっただろうところを、無言で歩いていた白狼が、足を止めて片膝をついた。集落の中心であった場所、恐らく元は井戸か、泉だったろう。人が生きるのに必要不可欠のものは、この沙漠では宝石よりも財宝よりも価値のある宝だ。そのあたりで、蒼灰色の目をそっと伏せ、地面にそっと手を置く。いや、ぎりぎりで触れてはいない。翳すというほうがより正しいかも知れない。
 ふわ、と辺りに銀色の風が舞った。それは銀髪の主を中心にして、徐々に勢いを増していき、やがて渦が轟くような音を立てて逆巻きはじめる。それは、超小型の嵐のようだった。掌の下の沙が轟々と音を立てて渦になる。擂鉢状の穴がその下にあるのが黒鷲にも見えた。
「来るぞ」
 言わずもがなの予告から殆ど間を置かず、白茶けたものが空中に突如出現した。猛々しい気を纏ったそれは、まるで岩蜥蜴のように、乾ききった岩石みたいな皮膚と、風に晒され続けた紅玉石みたいな紅の瞳を持っていた。炯々とした光は何者をも容赦せぬ攻撃性を漲らせて、二人を威嚇する唸り声をあげる。獰猛きわまる容姿と様子ではあるが、二人ともそれに臆した様子はない。
「来い」
 黒鷲の黒瞳がす、と細められた。噛みつかれそうなそれに対して、何故か懐かしいものを見る瞳で手を伸ばす。
「お前はもう、この世のものではない」
 その掌から凄まじい音を立てて溢れ出たのは、水だった。それは、まるで自らの意志を持ったもののように、岩蜥蜴に飛びかかる。その水を正面から浴びて、岩蜥蜴が身を震わせる。それは、まるで夏の水浴びを楽しむ子供のようにも見えた。次の瞬間、岩蜥蜴に触れた水の先から、その記憶が凄まじい勢いで黒鷲の中に流れ込んでくる。迸る水の記憶。遥かなる昔、ここが沙漠の中の碧洲(オアシス)であった頃の土地そのものの記憶であった。力を放出し終えた黒髪の主が漸くその目を開いて岩蜥蜴を見たとき、その姿は一変していた。水に馴染んだ青い鱗に澄んだ青い瞳は、紛れもなく碧洲の精霊だった。それはただ、力の源であった水を失い、水を守るべき人々を失って地上に彷徨うだけの、存在だった。
「お前の役目が終わって、既に久しい。この世に固執してはならぬ。それはこの世の理そのものを枉げてしまうのだ」
 言い聞かせる言葉が精霊に聞こえたかどうかは判らぬ。ただ、黒鷲の水を浴びたときのように、その青く澄んだ目を細めて身を震わせ、ぴょん。と跳ねて、そっと空気の中に溶けるように消えていった。それで全てだった。

「行くぞ」
 淡々とかけられた声に、ああ、と返事を返す。そこには最早精霊の居た痕跡一つ残っていない。感情移入してしまう黒髪の主には、こんなときは情緒も感動も持たない相棒の存在が少しだけ有難い。下手に慰められるよりもその方がいっそ気が楽だった。尤も、常に無口無愛想無表情で何を考えているか判らないこの白狼が誰かを慰めている姿など、不気味過ぎて考えたくもなかったが。
「一旦戻って反対側から沙漠へ入り直す」
「はぁっ?!」
 素っ頓狂な声をあげたのは黒髪の主だが、抗議を含んだ声にこれまた淡々と返す解説は、いっそ丁寧だった。
「距離的にはこちらから直行した方が早いが、沙漠に不慣れな者が同行することを考えると、たどり着くまでに負担が掛かりすぎる。ならば、一旦来た道を戻って、沙漠外周を迂回して行くほうが、一旦外周の町で休憩出来るし、恐らくその方が負担が少ない」
 同行者といえば、この場合黒鷲以外の何者でもありえない。勿論、沙漠に不慣れな黒鷲を一応は労わってくれているのは理解出来たが、それはある意味舐められているような感覚があって、素直に受け入れる気分にはなれなかった。
「別にこのまま直行しても…」
 言いかけたものの、口の中でもごもごと呟くだけに留まる。客観的な事実を考えれば、体格的に劣るだけでなく、沙漠地帯そのものへに慣れていない黒鷲がそのまま進めば、負担の上に負担をかけることは明白だったし、到着直後に先程のように術を使いこなせる状態で居られるかどうかは疑問の余地がある。今回はあまり力を使わずに済んだが、これから先も同程度で済むかどうかは判らない。体力は少しでも温存しておかねばならないし、迂回は若干時間がかかるにせよ、長い目で見れば、無理をして中途で倒れるよりはその方が良いということは、子供でも判ることだ。先が見えない長い旅をはじめて、それなりの月日は経過している。『願い』が叶う日がいつなのかは誰にも――おそらく、命じた人さえも――判らない。あと一回でその願いが叶うのなら、一度くらい無茶をしても良いのかも知れないが、先がどれほどなのか見当もつかぬ状態でそれを試みるのは愚か者か、余程自信があるものだろう。黒鷲は、少なくとも前者ではなかった。そして、妙な過信もしていなかった。
「判った」
 そう短く答えると、白狼は少し右の眉を持ち上げつつ振り返った。後ろに続いているのが、誰なのかを確認するかのように。そして、黒鷲の顔をちら。と見て、微笑み未満の表情で、それに応じた。
「ああ」
 先はまだまだ長い旅になりそうだった。

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