蓮華



 そろそろ五月雨も明けそうなその朝によ。おいらはうっかり寝すごしちまって、慌てて飛び起きたんだよな。店じゃおいらが一番下なんだから、早起きしていつも店先と庭先と、それから幾つかのお座敷を掃き清めることになってんだけどよ。急いで顔を洗って掃除掃除…って店先に駆け出して行ったら、やけに綺麗なんだよな。まるで、誰かが今しがた掃いたばかりみてえに。庭先も、それからお座敷も。おいらは首を捻りながらとりあえず部屋に戻ってみたんだけどよ。ふと気付いたら、見慣れねぇ箒がひとつ、部屋の片隅に立てかけてあったんだよな。おいら、箒なんざ買ったこたねぇし、途方に暮れたさ。でもこれはいい作りをしてる箒だよなぁ。筆みてえに箒の先が一本いっぽん揃ってるし、丁寧な職人さんが仕上げたような感じでよ。
「あのー」
 じーっと箒を見てたら、どこかの子供の声みてえな高い声がしてよ。でも見回してみても辺りには誰もいねえんだよな。
「すみません、出すぎた真似だとは思ったんですが」
 おいらはまた辺りをきょろきょろ見てたんだけどよ。そんな声の子供なんてこの佐倉屋にはいねえし、首を傾げてたらよ。箒がいきなり飛びあがって、柄の部分がおいらの方に斜めに傾いてきたんだよな。いや、床に箒の下についてるなら、斜めに傾いてきたっておいらも驚きゃしねーよ。でも、飛び上がるって、箒は自分で飛びあがったりしねーよな?
「わたし、棕櫚箒と申します。今日は珍しくあなたが掃いていらっしゃらないので、気になりまして、つい掃かせて頂いてしまいまして…」
 たっぷり間があいたのは、まあ仕方ねえとおいらも思うんだけどよ。
「……え? お前さん、箒の妖怪さんなのかい?」
「はい」
 おいらも吃驚はしたけどよ。この佐倉屋に来て、旦那が懇意にしていなさる河太郎さんの本性が河童だって知った時が、一番最初にぶったまげた時だったなあ。あんときゃ、肝が潰れるかと思ったね。旦那の傍に居ると、身近に時々こういうことがあるからよ。おいらも慣れたのかも知れねぇよな。
「そうだったのかい。おいら桜吉ってえんだ。今日は本当にありがとさん。おいら、うっかり寝過ごしちまってよ。すっげー助かったぜ。今度何かお礼をさせてくれよな」
 そう答えたら、棕櫚箒が何か赤くなってよ。良く判らねぇけど、それからぽん。って、まるで煙みてぇにかき消えちまったんだよな。でもきっと、こういう親切な妖怪は、呼べば答えてくれるたあ思うんだよな。
「おや、棕櫚箒かい」
 ふっと旦那がおいらのところに顔を出したのは、気まぐれだとは思うんだけどよ。この間はいつも絶妙だと思うんだよなぁ。

 その日おいらは旦那のお供をして、久しぶりに蓮田を見に行くことになってたんだよな。一面の草っ原みてえな田圃もすげえと思うけどよ。人寄せの時なんかの大皿にもなりそうなでっけえ葉っぱが、目に見える限りずーっとどこまでも続いてるのは、やっぱりいつ見てもすげえなぁって思うんだよなぁ。蓮の田圃ってやつは、深いから気をつけるんだよ。って旦那はおいらに注意して下すったんだけどよ。うっかり近づきすぎて足を滑らせて、危うく泥だらけになっちまうところだったんだよな。
「おっと! 大丈夫かい?」
「すみません、ありがとうございやす」
 すぐ隣に居た河太郎さんがおいらの腕を捕まえてくれたから、助かったんだけどよ。蓮の田圃は、作っていなさる人は腰まで泥に浸かって世話をしなさるんだよな。寒い最中が収穫の時だっていうんだから、そりゃあ大変だろうなっておいらは思ったね。いや、これも旦那に教えて貰ったんだけどよ。その旦那がわざわざ見に来たのは勿論そのでっかい葉っぱじゃなくて、この時分に咲く蓮の花でよ。白のも、ほんのり桜か桃かって色のもあって、そりゃあ綺麗なんだよな。夏の初めに咲く鉄線もいいけどよ。おいらは、どっちかと言われたら蓮の方が好きかも知れねえなぁ。そういえば、仏様が乗っかってるのって、蓮華って言うよな。
「旦那、そういえば仏様が乗っていなさる蓮華とかいうのは、もしかしてこれのことですかい?」
「そうだよ。ほら、花びらのところを良く見てご覧。この潔い円やかさとすっきりした線は、そのまま図柄として使えるほど整っているだろう。そして何よりね」
 そういって旦那は蓮の茎が出てるあたりをそっと指差したんだよな。
「この水は泥水だ。河川や湖沼などが近くて、稲作には適さない程の深い田圃にしか出来ないような土地が、蓮には向いている。蓮の葉の下には、小さな水草が沢山浮いていて、水鳥や昆虫などの格好の棲みかともなっているんだ。これほど深く、一見汚れきってしまったような泥の中から、あれほどに汚れのない花が咲くのだよ。これほど慈悲深く、仏そのものに近い花が、他にあると思うかい?」
 そうやってにっこり笑っていなさる。のはいいんだけどよ。日の光の中で見るのに、なんでまた旦那の顔ってば花魁顔負けに色っぽいのかねぇ。その辺の小町娘が袖噛んで憤死しちまいそうだぜ。
 そのとき、ふっと雲行きが怪しくなってきてよ。近くの軒先を拝借しようと思ったんだけどよ。こういう田圃のど真ん中だと、小屋らしいものも少ねえんだよな。五月雨どきだけどよ。今日は晴れてるからって傘を持って来なかったのは、まずかったよな。おいらだけならともかく、旦那が居るのによ。流石に蓮の葉っぱを傘代わりにするって訳にもいかねえやな。ようやく、ちょっと大きな木を見つけたんで、そこで雨宿りすることにしたんだけどよ。その木陰に入った途端、いきなりざざー。ってすげえのが降ってきなすった。しかもおまけにちょっと離れたあたりで、ごろごろごろ。って音が聞こえてきちまった。
「雷様が鳴っていなさるときは、大きい木から少し離れねえといけねえって聞きやしたが、旦那」
「ああ、そうだね。だが、木陰から遠ざかると今度は土砂降りに捕まってしまうからねぇ」
 何か、のんびりしていなさるんだけどよ。おいらちっと雷様のあの音は苦手なんだよなぁ。ほら、昔っからよ。「地震、雷、火事、親父」って言うじゃねーか。腹を抱えて臍を取られねーようにするか、それとも耳を塞いであの音を聞かないようにするかがおいらは思案のしどころだと思うんだよなぁ。しゃがみ込んじまえば腹のあたりは手を出しにくくなるよな。そうして耳を塞げば臍は取られねーかな? でもそうびくびくしてるのはおいらだけで、旦那も河太郎さんも平然としていなさる。江戸っ子として、おいらもしゃっきりしねえといけねえよな。まあ旦那も河太郎さんも単にのんびりしてるだけみてえな気がするけどよ。

 黒っぽかった雲が大分明るくなってきて、もう少しで上がりそうな空模様になった頃によ。ごろごろごろ。どだだだだーん。ってすっげえ音がすぐ近くでしてよ。耳がおかしくなっちまうかと思ったぜ。おいらは雨宿りしてた木に落ちたのかと思ったんだけどよ。そーっと目をあけたら、目の前に犬が転がってたんだよな。体つきが丸っこくてちっと狸みてえな感じもするけどよ。いや、犬だよな。まだあまりでかくねえ犬に見えたんだけどよ。どうも、動けねえみてえなんだよな。おいら、何かかわいそうになっちまってよ。慌てて飛び出して抱えてみたら、案の定目を回していやがる。怪我はしてねぇみてえだけど、もしかしたら、通りがかりにさっきのすっげえ雷様を聞いて、音に目を回しちまったのかも知れねえよな。そういや犬って鼻だの耳だのが利くっていうよな。
「旦那、こいつ大丈夫ですかい?」
 おいらが余程切羽詰った顔してたんだろうけどよ。もったいぶったような顔つきでうんうんって肯いてよ。
「まあとりあえずうちに連れて帰ろうか。桜吉、お前が持てるかい?」
 そりゃ勿論旦那にこんな犬っころなんか持たせる訳にはいかねえよな。
「へい! 勿論です」
 良く見たら、然程泥らしき泥もついてねえからよ。おいらはその犬っころをおんぶして店まで連れて帰ったんだけどよ。足を少ぅし引き摺るようにしてるくれえで、空の方を見てはくんくん鳴いていやがる。まるで空に忘れ物か何かでもあるみてえによ。もしかしたら飼主と死に別れたのかも知れねぇよな。
「ねえ、旦那。こいつを暫くこの店に置いて、様子を見ててもいいですかい」
「その子が行きたがるときには、行かせてあげなさい。それだけを守ればこの店に置いても構わないよ。ただ、お客様には絶対にご迷惑をおかけしないように」
 おいら、正直駄目だって言われるかと思ってたんだよな。煙管を持ったまま傾城座りして、そう答えなさる旦那は色っぽかったけどよ。おいらはもうそんなこと全然気にならなくてよ。
「ありがとうごぜえやす!」
 嬉しくなって、もう必死にお礼を言ってたんだよな。
「そうだ。旦那」
「うん、何だい?」
「不便だから、こいつに名前をつけてやっておくんなせえ」
 旦那は名前をつけるのが好きでよ。おいらの名前もそういえば旦那がつけてくれたんだよな。ちょっと綺麗すぎる字を使われちまうこともあるけどよ。でも、旦那なら、きっとこいつも気にいるようなのをつけて下さるに違えねえや。とおいらは思ったんだよな。でも旦那は頭をくるっと回してみて、にっこり笑ってよ。
「お前が面倒見てやるんだろう? それなら桜吉、お前がつけておやりよ」
「え、でも」
「きっとその子も、それを喜ぶだろうよ」
 おいら、思わずじーっと犬っころの顔を見てたんだけどよ。そのときふっとあの時の雷様が頭に浮かんだんだよな。
「……雷太」
 気がついたら、おいらはそう口に出してたみてえだ。
「らいた。いいねぇ。雷のときに会ったからかい」
「へい。変ですかい?」
「変なことはないさ。明るくて、元気の良さそうないい名前じゃないかい。ほら、雷太も喜んでいるよ」
 本当かな?っておいらは思ったんだけどよ。試しに「雷太」って呼んでみたら、おいらの顔をぺろぺろ舐めやがるんだよなぁ。もしかしてこいつもこの名前を気に入ったんなら、おいらも嬉しいけどよ。
「雷太、こら、よせやい」
 終いには、おいらの顔だけじゃ足りなくなったらしくってよ。庭先に倒されちまったぜ。くすぐってえけど、でもおいら、ずっとこの佐倉屋で一番下っ端だったからよ。弟が出来たみてえですげえ嬉しかったんだよな。

 それからおいらは、毎日雷太と一緒だったんだよな。こいつは結構利口なやつで、旦那が書道や算術のお稽古をつけて下すってるときは、庭先に居てじっとおいらを待っててよ。いつもは旦那のお供で散歩してたけどよ。朝夕には雷太と散歩するようになったんだよなぁ。時折、やっぱり空の方を見上げて、くんくん鳴いていやがる。そういう時はおいらには随分遠くみえたんだけどよ。それでも一緒に居たからよ。おいらはずっと雷太と一緒なんだと思ってたんだよな。でもその日は、突然来たんだよな。
 それまで青空だったのに、いきなり真っ暗になっちまってよ。ごろごろごろ、どかーん。ってすげえ音が響いてきたんだよな。おいらは、店に居て、庭先で旦那と雷太に餌をやってたんだけどよ。雷太が空をふっと見上げて、おいらの方を向いてくーん、くーん、って二回ばかり鳴いたかと思ったら、突然ひょい。って跳んじまってよ。危ねえ!って思う間もなく、雷太はそのまま空に上って行っちまったんだ。
「雷太!!」
「行っちまったねぇ」
「だだだ。旦那、あいつ、跳んで…」
 旦那はどもってるおいらにそっと笑いかけて、頭を軽く撫ぜて下すってよ。
「あれは雷獣の子でね。多分まだ小さくて、うっかり雲から落ちたのだよ」
「とすると、今しがたの雷様が雷太を迎えに来た親御さんってことですかい」
「そうなるだろうねぇ……。おお、さっきの雷様で五月雨もすっかりあけたようだよ。これからは暑くなるだろうねぇ」
 旦那はそう言って、おいらの顔をそっとお座敷の方に向けて下すった。それでおいらは、思う存分泣いたんだけどよ。ひとしきり泣いて、落ち着きかけた頃合によ。目の隅にあの棕櫚箒が見えたんだよな。
「ああ、棕櫚箒の妖怪さん、この間のお礼をしてなくて、すまなかったなぁ」
「あ、いえいえ。そんな」
 棕櫚箒はまた少し赤くなってるみてえでよ。ぱたぱたとその辺を掃きながらいったりきたりしてたんだけどよ。
「これ、本当は雷太にやろうかと思っていたんだけどよ。良かったら、代わりに貰ってやってくんねぇか」
 差し出してみたらよ。いきつ戻りつしながら、でも最後には受け取ってくれてよ。
「ありがたく、頂戴します」
 また前の時みてえにどろん。って煙みてえに消えちまったんだよな。

 それから暫くして。この佐倉屋には、ちょっとした言い伝えが出来てよ。ここには絶対雷様が落ちねえって言われるようになったんでい。雷様を見かける度おいらはあの雷太を思いだすんだけどよ。もしかしたら、雷太のほうも、おいらのことを思い出してくれてんのかも知れねぇよな。ごろごろごろ、どっかーん。って音も、今は不思議と怖かねえんだよなあ。もしかしたら、またうっかりして雷太が落ちてるんじゃねーか。って思いはするけどよ。そうして庭先から空を見上げてると、棕櫚箒がふっと姿を現してることがあるんだよなぁ。手を振るといつもすぐに赤くなって消えちまうんだけどよ。そういや、棕櫚箒のてっぺんあたりについてる飾りが、あの時お礼にやった蓮の花に似てるんだよなぁ。雷太にはやりそこなったけど、棕櫚箒が気に入ってくれたんだったら、それも良かったかも知れねぇよな。
「桜吉ちゃん! 今日はおめざがあるよ。旦那の分と、桜吉ちゃんの分」
「へい! ありがとうごぜえやす!」
 白い雲がもこもこって鬱陶しいくらいの夏空が、妙に目に沁みんのは、多分おいらの気のせい、だと思うんだけどよ。もしかしたら雷太がおいらのあたりにだけ、ちょっと多めに雨でも降らせてんのかも知れねえよな?