紅葉豆腐



「旦那! お呼びですかい?」
 おいらがお仕えしてる佐倉屋の若旦那は、いつもきちんとした恰好をしていなさる。折り目正しいっていうのかねぇ。でもよ。ただ四角四面に小奇麗にしていなさる訳じゃねぇところが、すげえんだよな。形は綺麗なまんま、でもどこか小粋で江戸の男って感じがするんだよなぁ。
「桜吉、すまないね。呼びつけて」
 いや、花魁も真っ青になりそうなほど婀娜っぽい色気のある顔をしていなさるけどよ。
「ご用の向きは?」
 ちょっと五平さんの真似をしてよ。そう言ってみたら、旦那が不思議なものを見るような目つきをしなすった。いや、妖怪の連れが沢山いなさる旦那にこんな風に見られるのは何か妙な気分なんだけどよ。
「五平さんの真似が板についてきたねぇ」
 切れ長の目が少しばかり細くなっておいらのほうを見なさるもんだからよ。おいらは足の裏がもぞもぞした気分になっちまったんだけどよ。
「……一人前になるには、一人前の男の真似をたとえ猿真似でもやってみろって仰ったのは旦那じゃござんせんか」
 そう言ってみたらよ。いきなり突っ伏していなさる。文机は小さいからものがあんまり置けねえからよ。硯だの墨だのは硯箱に閉まっていなすったから……。
「いや、すまない。そういえば桜吉も今年で十三だったね……」
 笑いを堪えていなさるのが一目で判る顔でそんなことを言われてもと思うんだけどよ。でも、おいらが頑張ってることを微笑ましく見守っていて下さるってことなんだろうなぁ。
「それはそうと。その五平さんのところに遣いにいってくれないか。ここ暫く暑い日が続いているだろう? 五平さんは暑いのが苦手だったからね。かと言って私が出張っていけばいろいろと気を遣わせてしまう。ちょっと顔を見にいくくらいで構わないから」
 五平さんは体を壊したこともあって店を辞めたんだけどよ。旦那は子供の頃のお守役だった五平さんを大事にしていて、佐倉屋から遠くねえ長屋に住まわせて、何くれとなく面倒を見ていなさるんだよな。
「勿論でさ! でもおいらが毎日行くのも五平さんに気を遣わせちまいますね……」
「……そうだね」
 旦那は毎日だって見に行きてえのに違いねえんだけどよ。その辺はやっぱり、仕方ねえのかもしれねえよな。
「あのぅ」
 遠慮しいしい、可愛らしい声が旦那の陰から聞こえてきてよ。あれ、この控えめっぷりはなんか、憶えがあるんだよな。そう、確か。
「……棕櫚箒!」
 思わず声を張り上げちまってよ。旦那の前だってのに。
「あ、あ、あの。すみません、お邪魔をしてしまって」
 そう恐縮しながらあちこちをささっと掃いてまわるのはやっぱ箒の性ってやつなのかねぇ。何となくだけどよ。さっきより箒が赤くなっているような気がするんだよな。いや、まさか、なぁ?
「桜吉に用があったんじゃないのかい、棕櫚箒」
 その声で棕櫚箒はますます動転している気がするんだけどよ。あれ、旦那はやっぱり確信犯ってやつだよな?
「あ、いえ桜吉さんにというか、その。五平さんのところにわたしを置いて貰えたら、その。身の回りのお世話まではこなせませんが、お掃除くらいなら……と」
 そう棕櫚箒が言うのを聞いてておいらはちっと迷ったんだけどよ。五平さんも旦那にお仕えしてたわけだし、妖怪とか九十九神とかも多分……。
「うーん、五平が起きているときは動いては駄目だよ?」
 あれ、五平さんは妖怪とかは平気でいなすった気がするんだけどよ。
「ああ、五平は妖怪とか九十九神は大丈夫だろうけれどね。手助けを嫌うからね」
 おいらの顔に出てたんだろうなぁ。旦那はそう言ってにっこりと笑っていなさる。参った、やっぱり旦那には敵わねえや。
「でもそれでももし五平が気づいたら、話相手になってやっておくれでないか。お前なら、きっと五平は喜んでくれると思うんだよ。本当はこちらから頼みたいところだったんだ」
 その途端、箒の後ろから後光が差したような気がしたんだけどよ。……おいらの気のせい、だよな。多分。
「でも今日は私のお遣いだから」
 そう言いなすって脇に置いた箱をそっと開いて見せてくれたんだけどよ。
「ゆっくり様子を見てきておくれ」
 中身は五平さんの好物の豆腐でよ。ああ、本当に旦那は五平さんのことを大事にしていなさるんだよなぁってしみじみ思ったんだよな。

 長屋までは歩いても大した距離じゃねえからよ。ちょっと遠回りしながらおいらは行く事にしたんだけどよ。御濠の傍を通りかかったときによ。何か、不思議なものを見つけたんだよなぁ。それは目一つの小坊主でよ。頭の上に大きめの笠を載せて、足元は下駄。それから両手を前に突き出しているんだよな。その手には色鮮やかな模様の深皿があって、その中には豆腐。しかも、ご丁寧に紅葉まで載せていやがる。でも、ただ歩いているだけで人を惑わしたり脅かしたりは……してねえみたいだよな? 旦那は妖怪だとか神様の眷属とかの連れがいなさるから、時々そういう「人じゃねぇ方々」との付き合い方も教えてくれるんだけどよ。害をなす妖怪にだけはちょっかいを出すもんじゃねえと、おいらも思うぜ。
「あ、豆腐小僧ですよ、桜吉さん」
 こそっと声が響いて、おいらは一瞬焦ったね。そういや、今日は棕櫚箒を抱えていたんだっけな。でも往来ででかい声で話してたら如何にも不審な男だよな。おいらはそっと声を低くしたんだけどよ。
「豆腐…小僧? まんまじゃねーかい?」
「はい、そういう妖怪なんです」
 あっけらかんって話すんだけどよ。そうか、九十九神っていっても妖怪のことも判るから、おいらに教えてくれてるんだな。少なくとも害をなす妖怪かどうかは判るってわけだ。ありがてえや。
「悪さをするようなやつじゃねえのかい?」
「はい! ただ、豆腐を持って歩いているだけの妖怪ですから」
 ……本当に毒にも薬にもならねぇ妖怪なんだなぁ。そうやってじっと見てたら、盛大に。
「痛い!」
 その豆腐小僧が転んだんだけどよ。豆腐にのっかってた紅葉が、飛んじまったんだよな。その瞬間、その豆腐小僧がわっと泣き出してよ。流石に可哀相になったんだよな。
「ほら、豆腐小僧。紅葉、もう落とすんじゃねーぞ」
 拾った紅葉を軽く手ぬぐいで拭いて渡してやると、涙をおさめて笑ったんだけどよ。妖怪の笑顔って、ちょっと人に語れるもんじゃねーんだなって思い知ったさ。

 長屋には賑やかなのが当たり前だけどよ。ここは旦那が選んだだけあって、穏やかで和やかな独特の雰囲気があるんだよな。
「桜吉ちゃん!」
 何度か旦那の遣いで来ているからよ。顔を憶えて貰ってるおばちゃんたちがいるんだよな。いつも元気で明るくて、きっと病気なんか、寄せ付けねーって感じがするんだよな。
「お暑うございます、お仙さん」
「桜吉ちゃんだって?! みんなぁ、桜吉ちゃんが来たよー」
 あっという間におばちゃんたちに囲まれちまったんだけどよ。なんでおばちゃんたち、おいらが行っただけでこんなに喜んでくれるのかねえ? 旦那みたいに色男でも金持ちでもないおいらにこんなにやさしいなんて、きっとこの長屋のおばちゃんたちくらいだよなぁ。
「お暑うございます、お久さん、およしさん。いつも五平さんがお世話になってます」
 三人のおばちゃんに頭を下げると、その向こうに五平さんが見えたんだけどよ。何か、不思議なものを見るような目でいたのがちっと気になったんだよな。
「おう、桜吉。お前ぇ、いつもあんな風なのかい」
 五平さんがそう切り出したのは長屋に入ってすぐだったんだけどよ。
「あんな風、って何がですかい」
「おばちゃんたちに黄色い声で囲まれてたじゃねーか」
 あれが黄色い声っていうのかっておいらは思ったんだけどよ。
「へえ。挨拶するといつも桜吉ちゃん、桜吉ちゃんって可愛がって貰ってやす」
「……本人自覚なしかよ!」
 五平さんが言うことは良く判らなかったんだけどよ。お遣いで来たのに役目が果たせなくちゃ駄目だよな。
「それより、五平さん。若旦那からですよ。いいものが手に入ったからって、豆腐。それから、箒」
 五平さんは迷信深いお人柄ではねえけどよ。使い込んでる箒を旦那からだっていうのはちょっとまずいかも知れねぇけれどよ。でも、旦那からのものを気持ちよく受け取ってくれる人なんだよな。
「そいつはお遣いご苦労だったな。旦那にもいつも気に掛けて頂いていて申し訳ござんせんとお伝えしてくれ」
「へい」
 五平さんはそれから暫く棕櫚箒をじっと眺めていなすったんだけどよ。
「旦那に宜しくお伝えしてくれ」
 仕事に障りが出ないうちに、ってとっとと帰されちまったんだよな。まあそれでも、五平さんが元気そうに見えたのは良かったんだけどよ。
 それから数日ばかりして。酷く蒸し蒸しした暑い日、突然からんころん。って下駄の音が鳴り響いて、次の瞬間そいつはすんげえ音を立てて蹴躓いて転んで、しかも皿まで割っちまったんだけどよ。
「お前ぇ、……豆腐小僧?!」
 この間の豆腐小僧が佐倉屋の店先に来てたんだよな。目には涙が浮かんでるんだけどよ。転んだせいなのか、豆腐を落としたせいなのか、それとも派手に深皿を割ったせいなのかはおいらには判らなくてよ。
「どうしたんでい? 慌てていなさるようだが、それだと転んでも怪我をしても仕方ねえぜ? 落ち着いて」
 そう言いかけたところで豆腐小僧がいきなりおいらの腕をむんず。と掴んだんだよな。しかもそのまま走り出しやがった!
「お、おい」
 そのまま進むとおいら、後ろ向きに走ることになっちまうんで、何とか頑張って止めて、向きを変えさせたんだけどよ。慌てた豆腐小僧がおいらを連れて行こうとしたのは。
「五平さん!」
 御濠の傍で苦しそうにしていなさる五平さんのところだったんだよな。
「桜吉……?」
 顔色は真っ青で、脂汗がたらりたらり流れていなさる。ここからだと、松永先生のところが近いんだけどよ。五平さんがこの様子でそこまで連れていけるかどうかは難しいって正直思ったね。
「いま、松永先生を連れてきますからね。ここでちっと待ってて下さいよ」
 ようやく肯いてくれて、おいらはほっとしたんだよな。

「持病の発作だね」
 松永先生のところへ走りこんだら、先生は駕籠を拾ってくれてよ。そうか、駕籠に乗せてもらうって手があったよな。五平さんは松永先生のところへ運んでもらったんだけどよ。暫く休んでいりゃ治るってことだからほっとしたんだけどよ。豆腐小僧が知らせてくれてなかったら、まずい事になってたかも知れねえなって思うんだよな。松永先生のところに五平さんが行っている間、おいらは五平さんの長屋の掃除を棕櫚箒としてたんだけどよ。
「五平さん、わたしのことご存知だったんです」
 そう棕櫚箒が照れくさそうに言ったときにはそうかもなって思ったんだけどよ。
「そういえばご存知でした? 豆腐小僧に時々あげてたらしいですよ」
 おいらが首を捻ってたら、また子供みてえな明るい声が笑ってよ。
「五平さんが、紅葉豆腐を」
 おいらは、やっぱり五平さんは旦那を育てあげた人なんだなって、しみじみ実感したんだよな。