Without

第二章水妖記



 オンディーヌと呼ばれるものが水の妖精だと教えてくれたのは春霞だった。人魚姫が海の水の妖精ならオンディーヌは陸の水の妖精だねと笑った顔を今でもはっきりと思い出せる。オンディーヌはね、と春霞がどことなく淋しげに呟いた。愛した人を殺すのよ、と。
 人魚姫が愛した人を殺せずに愛した自分を殺したのとは対極に、オンディーヌは愛した者を殺す。誓いを破った行為のために。「誓い」は北欧では「誓約(ゲッシュ)」。守らなければ恐ろしい呪いがあるとされる約束事だ。春霞が何故僕にこんな話をしたのかはよく判らなかった。けれど今は少し判る気がする。生と死の狭間に人間の本能が見え隠れするなら彼女はその究極の狭間で何を思っていたのだろう。今はもう知る由もない。


 夢に誰かが出てくるとき、不思議な気分にならないだろうか?でも意味のある夢なんて見たことがなかったから、多分それは単なる「雑夢」ってやつで、偶然出てきただけなのだろうと想う。例えば印象が強かったとかで。でも目覚めた後に僕は思い悩んでしまうのだ。

 ―――静かに雨が降っていた。こんな日の春霞は本当に嬉しそうに傘もささずに雨の中を走っては僕達を心配させたものだった。体も強くないのに何故雨の中を走り回るのかと聞いたら、零れそうな笑顔で好きだからと応えた。でも雨に濡れたら良くないのは判ってるからちゃんとウィンドブレーカーを着てるのと言う彼女の頬が、少し上気しているのが眩しかった。
 彼女が走っていく先に松野さんの姿が見えた。僕は手を伸ばして春霞をつかまえようとした。何故そうしようとしたのかは判らない。ただ、どこかに飛んでいってしまいそうな春霞を捕まえていなくちゃいけないと思ったのかも知れない。伸ばした手は、届かなかった。―――

 春霞は、朝が弱くて有名だった。低血圧というわけでもない。それでよく遅刻しては親友の大野さんに叱られるのだという。
 発信音が鳴り響いている。2回、3回。いったん受話器を置こうかなと思った瞬間、息せき切った声が聞こえた。
「はい、もしもしっ!」
「モーニングコール・サービスでございます」
 瞬間、はじけたような笑い声が電話口の向うに聞こえた。
「ありがと。…吃驚しちゃった」
「じゃ、仕事頑張れよ」
「うん、和佐くんもね。無理しないで頑張って。気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます…ってなんか妙な気分だな」
 もう一度、はじけるような笑い声が起って僕は幸せな気分に包まれながら受話器を置いた。

 春霞と僕は生まれ年が一緒ということも手伝って、自然に仲良くなった。毎晩のようにチャットで会っていたのだが、たとえていうならそれは毎日電話で話しているのと感覚的には変わらないものなのである。
 ある夜のチャットで何人かの人が居た時、「二人は付き合ってるの?」と聞かれたが、念頭にそんなことがなかった僕達は吃驚してしまい、慌てて否定した。でも彼女が僕との関係を否定する際に「距離が遠い」と言ったことが僕にはちょっと不服だった。その事が頭から離れず、「じゃ近所だったらどうなってるんだよ」といってやりたかった。近くても遠くても大丈夫だと僕は信じていたから。


 春霞はいつも松野さんが行ってしまう後ろ姿をずっと見つめていた。泣きそうな、切ない瞳で。僕はそれに気がつかないふりをしながら、彼女の車に乗り込んで、行き過ぎる車のヘッドライトを見つめていた。ふりかえって車に乗り込むと、エンジンをかける。振り切るように「よっしゃ!」とかけた声が、どこか切なかった。
「付き合おうか?」
「いいわよ。それでどうにかなる訳じゃないもの」
 車は滑り出した。春霞の目は潤んでいたけれど、涙は流れてはいなかった。
「じゃ、俺に付き合ってよ。春霞とドライブしたいな」
 春霞は僕を見つめ、それから視線を落して「少しだけ、ね」と呟くように言った。

 何時の間にか空は白々と明けていくところだった。春霞の車で宿まで送ってもらった僕は、車の中で泣きそうな顔をしながら―――泣かないときめていた彼女はそれでも決して僕の前で泣こうとはしなかった―――松野さんへの想いを途切れがちに話していた。
 心臓が痛くなるほど、心から人を愛せる人というのは、どれだけいるものだろうか?「目の前で喉を突いて死んだら忘れないでいてくれるかしら?って思ったりもしたの」明るく笑い飛ばそうとして、それは果たせなかった。彼女は自分が愛されないと知っていてもつい言わずにいられなかったという。それなら僕も一緒かも知れない。彼女の傷口につけ込んだと言われてもいいとさえ思った。
「春霞」
 泣き出しそうな顔が僕を見つめる。
「好きだよ」
 僕は春霞の肩に手をまわした。ひどく愛おしいという感情がこみあげてきて、もう片方の手を回して彼女を抱きしめる形になった。驚愕に目を見開いていた彼女は、殆ど泣きそうな声を絞り出すようにしていた。
「松野さんが、好き。今も…」
「判ってる」
 顔を伏せて、両手で顔を覆う。僕は胸の中に彼女の顔を埋めるようにして抱き、か細い体にまわした手に力をこめた。……。

 愛した人を殺すことが出来ない人魚姫は、愛した人の代りに自分を殺した。愛した者を殺さねばならなかったオンディーヌは、どういう思いで殺したのだろうか。願わくば、それはない方がいい。それでも殺さねばならないとしたら、やはりどちらかしかないのだろうか?これは僕の持つ「業」なのかも知れない。叶うなら全てのものを生かしたいと思うのは。しかしそれも若さゆえの傲慢さの現れなのだろうか?春霞が苦しみの中に立っているなら救いたい。僕の方を向いてなくても構わない。ただ、幸せでいてさえくれれば。彼女を幸せにするのは僕だ、とその時思った。


 僕が春霞に告白した夜から二週間が経っていた。どちらからともなくメールが頻繁になって、モーニングコールの回数も増えた。夜は夜でチャットや電話をしていたけれど遠距離ということは僕にとっては大した負担ではなかった。春霞は付き合っている時とそうでない場合を明確に分けて考えていて、きっちりとラインを引こうとした。基本的に僕は彼女のしたいようにさせたけれど、もっともだと思われることが多かったから僕が反対するようなことも特に無かった。僕はオフ会以外に二人で会う時間を作りたくて、その旨を申し出た。春霞はちょっと戸惑って…それから「いいよ」と応えた。そして、これから彼女と僕は月に一度二人だけで会うようになる。それまで「オフ猿」とまで呼ばれる程いろんなところに顔を出していたけれど、僕の変化に気がついたのは仁だけだった。ある夜のチャットにいると、仁が僕にだけしか見えないメッセージを送ってきた。
「和佐、春霞と会ってるのか?」
 一瞬、僕は春霞が仁に話したのかと思った。でもそうではないだろうと確信が持てたから誤魔化そうと返事を考えた。
「オフ会で逢ったきりやなあ。あれって何時だったけ」
「そうか」
 その時は、それだけだった。

 彼女と二人で会う時は基本的に割り勘だったし、交通費は各自負担していた。ただ彼女が僕の住んでいる町に来ることはなく、彼女が住んでいる町にいつも僕が行っていたから交通費は当然僕の方が遥かにかかっていた。それを配慮して、なるべく彼女は途中まで車で送り迎えしてくれていた。いつも彼女は笑顔でいてくれた。だから僕は暫く気がつかなかった。遠距離が、彼女にとって大きな心理的負担を与えているということに。

 彼女が僕の腕の中で泣いた日から正確に2ヶ月後には、僕たちは付き合っているような状態になっていた。そう言うのは、彼女の意識の問題にあるからであって、僕としては付き合ってるという気分ではあったけれど、物事をきっちりさせないと気が済まない彼女は断固として僕と付き合ってると認めようとはしなかった。それでも毎日のようにメールを交換したし、電話もした。少しでも彼女に近づいていたかったし、彼女に淋しい想いをさせたくはなかった。出来ればこのまま傍にいられたらいいと思ってもいた。何事も真剣に考える性癖のある彼女は、僕のことも真剣に考えていてくれたのだろう。いつも済まなさそうにしていた。思えばこの時に僕は気が付くべきだったのだ。それでも僕はずっと幸せだと信じていた。今思うと非常に間が抜けた話だと自嘲するしかない。自分一人で幸せに酔っていて、彼女の気持ちの揺らぎに気がつきもしなかったのだから。


 二人だけで会うようになって、半年が過ぎた頃。春霞は距離を置きたいと言い出した。僕は当然反対した。逢えなくなる恐怖。それは僕の中の彼女への思いを風化させはしないけれど、春霞の心をしっかり手にする可能性を低くしてしまう気がした。彼女はそれでも実に根気よく僕を説得した。そして、今している約束全部を果たしたら、そうしようと決めた。
 最後のデートは、TDLだった。僕は近くのホテルをダブルで予約し、春霞は迷いながらも一緒に泊まることに同意した。


 人魚姫は、愛した人を殺せずに、自分を殺した。オンディーヌは、誓約を破った愛した者を殺した。自分を殺すか、相手を殺すかの瀬戸際に彼女達が思ったのは何だったのか。春霞から聞いたとき、僕は「誰も死なないお話にすればいいのに」と単純に思った。それは僕が単純であるせいもあったけど、僕はいつもハッピーエンドが好きだったからいっそ皆幸せになれる大団円の話にしちゃえばいいのにと単純なことを考えたりした。悲劇性のあるお話の方が人間の魂を揺さぶるものなのよ。そういったのは春霞だったけど、悲劇より喜劇の方が楽しいじゃないと僕がまぜっかえすと困ったように微笑んだ。僕は彼女のそういう表情が殊のほか好きだった。少女っぽい彼女が、ひどく美しく見える瞬間だったから。そして春霞はその微笑みのまま、ゆったりと言うのだ。喜劇は楽しい、でも魂に残るのは悲劇なの。楽しかった恋よりも辛かった恋の方が味わい深いものになるのは、よりその人を磨いてくれるからなの。楽しいばかりの人生なんて、辛いばかりの人生と同じくらいありえないけれど、辛さがあるから楽しいことの輝きが増すのよ。哀しいことがあるから嬉しいことがより嬉しく感じられるのよ。そういう春霞の言葉は、年下の女の子と思えないほど大人びていて、地面にしっかり根を下ろした大木のような印象さえあった。そして、春霞はゆっくりと二人の妖精について語った。どちらも女としての観点から言えば、理解出来る行動だと思うけれど、とことん愛したという印象があるのはオンディーヌの方だ。人魚はただ、流されるままに流されてそうなっただけにすぎないけれど、あれは男性の希望が形になったものじゃないかって気がする、と。美しく消えて儚く泡になってしまう人魚。それを求める男性はロマンティストで、女性に永遠に美しい、汚れのないものであって欲しいという願望があるのかも知れない。そして自分のために命も投げ出してくれるというのは願望以外の何ものでもありえない。僕は聞きながら「そういうものかな?」と呆けていた。今はそれが彼女自身の中にもあった願望だということが判る。男性の中に存在する願望とは少し違うそれは、男性から見た人魚姫と女性から見たそれの違いを浮き彫りにする。男性から見れば美しく消えた人魚姫も女性から見れば単なる復讐で消えたと解釈出来なくもないのだ。女はね。春霞がいつか言っていた。愛する人の心に残るためなら、何だってするの。光になれないなら、染みにでも傷にでもなりたいと思うの。そして男に復讐するのよ。手に入れなかったことを一生後悔させるように。失ったことを何度でも悔やむように。その瞬間を魂に刻み付けさせて。そういう時の春霞の顔は、凄まじさを感じさせる程美しかった。その美しさを、多分僕は一生忘れることはないだろう。この胸に残る痛みとともに、何度でも蘇ってくるだろう。彼女はそういう意味で僕に「復讐」したのだ。春霞自身がどういう思いであったにせよ。

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