Without

第三章春霞



 春霞 たなびく野辺の若菜にも
    なりみてしがな 人もつむやと 藤原興風
    (古今和歌集巻 第十九 雑躰 一○三一)


 春霞という言葉の出てくる和歌はいくつかあるけれど、春霞がとくに好んだのは興風の歌だった。シンデレラというよりは眠り姫みたいだなと思ったけれど、そういう願望があったのかも知れないと今は思う。女の子なんだなあと感じるのはそういう時で、時に文学少女めいた利発さがあった。大きくはないけれどくりくりしてよく動く瞳、明るくて律動的な歩調はいつも夏の草原を渡る風を思い出させた。春の霞というぼんやりした言葉よりも夏のイメージの方が強かったけれど、彼女自身はどう思っていたのか、自分のハンドル・ネームを気に入っている様子だった。


 キスの始まりはいつも彼女からだった。猫が主人に媚びるようにそっと上目遣いで僕を見ながら彼女お得意の「甘えのフルコース」がはじまる。ようやく彼女を口説くきっかけを目前にして勇んでしまうと、僕の浅はかな考えなんてお見通しよといわんばかりの彼女の瞳は、いつもの幼い、知性を包もうとして包みきれない少女のそれではなくなる。匂いたつ濃密な気を漂わせた女の瞳だった。貪るようにキスをすると、彼女はさりげなく体だけ拒みながら緩やかに僕を酔わせ、狂わせていく。そんな時僕はいつも初めてのキスを思い出す。違和感のない、甘やかで、可愛いキスだった。

 夕暮れの空はセルリアンブルーに灰色を混ぜたような透き通った色だった。地平線の辺りはくすんだ朱で、その境界線よりすこし上に一番星が見えた。色合いを見て、金星か木星だなと思った。昼間の雲は何時の間にか姿を消していて、頭上にいただく空は宇宙の色をしていた。
 彼女は僕の腕の中で途切れ途切れに歌を口ずさんでいた。それは彼女の願望なのかも知れず、また単に雰囲気を好んでいるだけかも知れなかった。
「金星が綺麗ね」
 微笑む彼女の顔はいつもと同じようにいとおしかったけれど、いつもより優しく慈愛に満ちていた。こんな時、僕は普段の彼女とのギャップに戸惑ってしまう。僕と二人の時だけしか見せない顔の一つ。可愛い彼女が「美しく」なる瞬間を。
 そっと彼女の顔を覗き込むと、静かに涙を流していた。何時の間にか、僕の瞳にも涙が溢れていた。
「ごめんなさい」
 何を謝るのだろう?僕を狂わせてしまうことを苦に思うのだろうか?それとも僕は単に彼女のボーイフレンドの一人に過ぎなくて、僕がどれだけ本気で愛しても、僕を愛せないと感じているのだろうか?どちらでも僕は一向に構わなかったのに。いつか僕に向き直って一緒に歩いて行けることを信じていたから。
 温かい涙を僕に気づかれぬようにそっと拭い、僕の胸に耳をあてたまま彼女はそっと窓の外を見つめていた。日は完全に沈み、少しずつ冷えこみはじめている。彼女の髪の香りが、冷えて湿り気を帯びた空気のために強くなっていた。僕はかすかな目眩を感じながら彼女の肩にまわした手にそっと力をこめた。
「何があっても愛してるよ」
 それしか言えなかった。


 一月に一度のデートは、普通のカップルからすれば少ないと言えるだろう。でも遠距離の割には頑張った方じゃないかなと思っていた。それでも春霞に淋しい想いをさせているだろうという自覚はあったから、可能な限り彼女と話し合う時間を作った。僕達はいろんな話をした。趣味の話、家族の話。お互いの夢の話もした。それでもお互いの将来の話だけ彼女は可能な限り避けようとした。それは僕との未来を夢見ていなかったからなのか、それとも未来がないと思っていたからなのか。どちらかだろうなとは思ったけれど、僕には何も出来なかった。彼女の心の中のことだったから。
 緑の濃くなる季節に、彼女が突然提案した。
「あなたのことを好きだけれど、友人としてなのか異性としてなのか、良く判らない。だから距離を置いて、気持ちを確認したいの」
 今離れたら、ずっとこのままかも知れないと思った。そんな風に考えなくてもいいんじゃないかなとさえ言ったけれど彼女の意志は堅かった。何度目かのデートの後、僕はその提案を飲まざるを得なかった。でも同時に条件も出した。一年以内に結論を出すこと、結論が出たら必ず会ってくれること。それは僕がうやむやの内に自然消滅してしまうのを嫌がったからだった。約束を実行に移すことが決まったのは、秋になる頃だった。最後のデートをした後、彼女は僕を駅に送ってくれた。訣別のキスと、おやすみのキスをして、僕は駅に向かった。振返りはしなかった。車の中で彼女が泣いてるかも知れないと思ったから。


 手紙を投函すると、返事が待ち遠しくなる。特にこのところの春霞の手紙は、更に長く、更に遅くなる傾向があった。彼女らしいきっちりとした文面は、いつも思いやりを感じさせたけれど、時々妙に切なくなったりもした。
 最後の返事が来たのは、駅で最後のキスをしてから、十ヶ月あまりした時のことだった。

―――今は申し上げるべき言葉も思い付きません。ただ、あなたの幸せを心からお祈りしています――――春霞
 涙が溢れて、止まらなかった。僕は泣きながら手紙の返事を書いて、また投函した。―――返事は来なかった。


 春霞の話を聞くのが怖くて、僕はインターネットから暫く遠ざかるようになった。以前よく会っていた友達も、連絡を取らなくなったので心配してメールをくれたりしたけれど、僕は気づかないフリを決め込んでいた。春霞、はもうどこにもいない。それを知ったのは、最後の手紙が届いてから数ヶ月後のことだった。
 蝉の声が妙にうるさい真夏日だった。

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