序・デルフォイの預言



 夕闇が迫り始めていた。
 元々の到着予定日は、明後日である。時間に余裕を持たせて行動するように、と言ったのは彼のすぐ上の兄レオニダスであるが、壮年と呼ばれる年齢になってさえ敬愛する兄の言葉を忠実に守る弟は、途中の道程を少しずつ詰めて予定より早く着いたのだった。野宿は慣れているが、神託を授かるのであればそれ相応に身なりを調えた方が良いに違いない。
 市全体が斜面の景観を呈しているここデルフォイは、ただの市街部だけでなくアポロンの聖域もまた斜面、それも市域の一番高い場所に広がっている。規模はかなり大きいと言えるだろう。デルフォイというヘラス(ギリシア)随一の神託所を後ろに控え、その所謂寺町ともいうべき集落では毎日のように市が開かれる。神託を授けられる日は月の第七日と決まっていて、冷水を浴びた犠牲が吉兆を示さなければまた来月に日を改めてということもありうるのだが、遠方から来た者であれば一旦戻るよりもここに滞在した方が時間と手間と金銭がかからない。道中では盗賊に遭う危険もある。神託の日ではなくても簡単な卜占のようなものは行われていたし、そこそこに人通りはあって賑わっていた。
 デルフォイまでは陸路と海路と、両方を使った折衷路とがある。陸伝いに行くなら、メガラを抜けてコリントス地峡を通り、テーバイをかすめてコリントス湾伝いに西へ、エリコナス山とパルナッソス山とを横目に見ながら行くコースが一般的だろうし、海路ならエウロタス川を下って一旦海に出、イオニア海を丁度ペロポネソス半島をぐるっと半周するように外海を回っていくのが面倒が少ない筈である。コリントス地峡の辺りから船に乗る折衷路を使う者もいるだろう。海路から来た場合はデルフォイに一番近いキラ港から山道を登って行くのが一般的だった。彼が今回使ったのは、質実剛健を旨とするラケダイモン(スパルタ)人らしく、陸路である。
 デルフォイの人ティモンとは旧知の仲である。懇意の間柄とは言わなくても神託使(テオプロポイ)としてデルフォイを訪れた身であれば、その土地でも指折りの名士には渡りを付けて置くのが良い。そう思って旅篭で旅装を解くと、ティモンの家を捜しに出掛けた。折角訊ね宛てたティモンは、生憎不在だった。いや、夕暮れに来た彼を疎んだものかも知れない。一夜の宿を求めてやって来、ついでに遊女(ヘタイラ)のように家の娘をつまみ食いしていく者も居ないとは言えないから、或いは警戒されたものかも知れぬ。とりあえずまた明日来る旨を伝えて、そこを出た。宿にまっすぐ帰るつもりでいたのだが、何時の間にか城壁に囲まれたデルフォイの傍、主門前のストアに来ていた。
 主門から見える聖道は、暗闇にほの白く浮かび上がっていた。

 聖地に入ると、暫くは緩やかな坂道だが、突き当たる直前に数段程の不規則な奥行きの段差が続いている。昇り易いとは言いかねる階段は、すぐ右にほぼ直角に近い角度で曲がって、数段のところで再び斜め右方向に折れて評議会場(ブレウテリオン)の前を通り、アポロン神殿へと参詣者を導く。一つひとつの段の奥行きは豊かな造りになっていたから、脚を滑らせて体勢を崩す危険は非常に少ないと言えた。昼間なら右手に森、そしてその奥に山々が連なっているのを見ることが出来る筈である。谷をはさんだその向うには、アテナ・プロナイアの聖域に神殿や円堂(トロス)、体育場(ギュムナシオン)が並んでいるのも見えるだろう。いや、闇に白く浮かびあがったものがあるいは神殿を形づくる大理石かも知れない。ボイオティア地方パルナッソス山中腹の絶壁から見下ろす風景は、眺望絶佳という言葉が相応しいだろう。コリントス湾の海も太陽の光を受けて、ホメロスの詩の如き葡萄酒色に輝くに違いない。「地球のへそ(オンバロス)」と呼ばれ、多くの者が神託を受けに訪れるデルフォイ。預言の神でもある太陽神アポロンの聖地として栄え、エジプトや小アジアまでその名を知られたこの地は、今まさに全盛期を迎えていた。四大競技大会の一つ、ピュティア大祭は四年に一度開かれて、花冠(ステファノス)を巡って全ヘラス(ギリシア)から人々が集まって速さと力と技と音楽の腕とを競うのだ。大理石の階段席を持つ円形劇場の収容人員は、五千とも一万とも言われていた。前に訪れたのは何時だったか。そんな感慨を振り払うかのように、彼は首を振った。国の命運が掛かった神託の前に、そんな感傷は無用だった。

 太陽神(アポロン)の光の矢が暁闇を鮮やかに切り裂き、神託の日の朝を引き連れてきた。神託を授ける巫女(ピュティア)は勿論沐浴することが決められているが、依頼者自身もまたその身を清めねばならない。聖地内に湧き出るカスタリアの泉で身を清め、アポロン神殿の至聖所(アデュトン)へと足を踏み入れた。
 どこまでも続くかのような深い暗闇が、彼を冷ややかに迎え入れた。湿った濃厚な空気が重く垂れ込めて、黴を混ぜたような臭気を帯びている。薪は燃えていても僅かな光明以外のものを与えてはくれぬ。暗い室内に沈黙が幕を下ろしていた。一瞬、目の隅に黄色い紐のようなものがゆっくりと動いたような気がしたが、犠牲の羊に冷水が掛けられたことに気付いて、視線を戻す。羊が身を震わせ、彼は思わずごくり。と唾を飲み込んだ。
「吉兆だ」
 そう囁く声が聴こえた気がしたが、彼の思い違いであったかも知れない。犠牲が屠られ、あたりに鉄を含んだような血の匂いが立ち込める。巫女はアポロンの花嫁衣裳の神衣(ペプロス)をしなやかな身にまとい、男たちの腕を借りて三脚の台に上った。
 巫女となるのは、デルフォイ近郊農家の敬虔な家の娘から選ばれることが多い。何かを吸わされた巫女が意識朦朧となり、その形相が次第に変わっていく。アポロンの花嫁が夫(アポロン)を迎え入れて人ならぬ者に変わっていく様を、彼はじっと静かに見守っていた。木の爆ぜる音が大理石に弾かれて硬く冷たく響く。やがて、白い汗まみれの額から湯気のようなものが立ち上り、憑かれたような瞳が焔の色を宿しはじめる。獅子か虎を思わせる、人というよりは野生の獣と言った方が納得出来そうな凄まじい程の形相は、人間の女の形を選んではいても、人とは思えぬものと成り果てていた。咆哮とも怒号ともつかぬ叫びがあたりに響き渡る。それはまるで地鳴りのようにも思えた。人の口から発せられたと信じるには難しい声が、石に跳ね返って反響を起こし、湿った空気に鋭く突き刺さるような気がした。祈るように堅く強く拳を握り締めていると、やがてぐったりと弛緩したような巫女の口から溜息のようなものが漏れた。
 それらは彼には理解出来ぬ「言葉」であった。彼が待つ預言そのものであり、彼を待つ人々の運命でもある。神の託宣を告げる巫女はそれを発するだけだ。静寂に響く薪の燃える音が一層高く聞こえた時、彼はそれまで感じていた空気の流れがゆっくりとおさまりつつあることに気付いた。
 暫く待っていると、柔らかな中にも射るような鋭さを秘めた眼光を持つ神官が、彼に与えられた神託を持ってきた。六脚韻(ヘクサメトロス)の詩行にした神託を、石に刻んで参詣者に渡すのである。彼は神託使として恭しくそれを受け、持参した布に丁寧に包んだ。……文面を確認することもなく包んだこの時のことを、後に彼は酷く悔やむことになる。
 ティモンに会えたのは、結局帰還間際のことになった。彼は所用で町を空けていたのである。久闊を叙すると、自然に話は遠くから響いてくる、戦火の跫を憂うものになっていた。神託使としてきた彼に、ティモンは多くを問いかけはしなかったが、一つだけ気になる。とアテナイの実力者の名を上げた。彼は、その名を心に刻んだけれども、深く問いかけるのは憚られるように思えたので、立ち話もそこそこにデルフォイを後にした。

 デルフォイの神アポロンの預言は数日の後、無事ラケダイモンに届けられた。神託使として旅立たせた末弟を、兄王は言葉によらず温かい抱擁と柔らかな微笑みとで迎え、その労をねぎらった。旅装も解かずにそのまま王に持参する真面目さと律義さは生来のものではあるが、王は役目にも己にも忠実であろうとする弟を、この上なく愛していた。双子という繋がりもまた、その愛を深めるきっかけになったかも知れない。弟が退出した後で、持ち帰った石板に刻まれた文字を読み、上位王家の主レオニダスは微かに眉を顰めた。それには、こう記されていたのである。
『国広大なるスパルタの民よ。汝等が誉れ高き偉大なる町は、ぺルセウスの裔なる子ら(ペルシア王)に滅ぼさるるか、さもなくばヘラクレスの血統に繋がる王(スパルタ王)の死を、ラケダイモンの国土(スパルタ)は悼むことになるであろう。攻め来るものはゼウス(全知全能)の力を持つゆえに、牡牛の力獅子の力を以って当たるもこれに刃向かいて制す能わず。踏み留まる勿れ。かの二者のいずれかを食らい尽くすまで、その勢いを止める術はあらざるなり』
 王は目を閉じて空を仰いだ。暫時何かを考えていたようである。それから徐に優しい眼差しを傍らの妻に向け、声を掛けた。
「ゴルゴ、会議を招集してくれ」
 それは、彼に忍び寄る運命そのものの幕開けであった。

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