アダクリュス・マケ



「なんだと……?」
 ハリカルナッソス(イオニア地方−現在の小アジア−にあった一都市)北方奥地のペダサが陥ちた。と。まだ若い使者はそうクレオビスに告げた。その言葉を、俄かには信じられずに戸惑う。難攻不落を誇るリデ山を砦として、アンシャン軍と戦っていたペダサの人々の勇猛さは、近隣諸都市に鳴り響いていたからである。アンシャンの勢力はそれほどに凄まじいものなのか? メディアを滅ぼしリュディアを滅ぼしたと聴く。しかし昔日の両王都の繁栄を知る身に、それは信じ難いことであった。
「次にアンシャンが攻め寄せるのは、ここかも知れませぬ」
 青年の滑らかな額には、血が滲んでこびりついていた。生まれ育った都市が陥落するのをその目に見ながらリュキアへの伝令を命じられたという。寧ろペダサとその運命を共にすることを望んでいたのかも知れない。古い友の忘れ形見となった青年を労るように彼は見つめた。がっしりとした体つきは父親に良く似ている。その顔つきは母に。適度についた筋肉は、鋼のようにとまではいかなくても、青年らしい力強さを窺わせる。その肩が落ちて見えるのは、目の錯覚ではないだろう。
「父君は…ペダサと運命を共にしたのだな」
 俯いた青年の首がしっかりと縦に振られた。涙を必死に堪えているのは傍目からも判る。隠さずとも良い。と青年にだけ聞こえる声で呟く。全てを失った使者には、泣くことしか残されてはいなかった。手を携えて復讐を挑むべき同胞は既に死に絶えた。家族も友も皆。それでも生き長らえよ。と。青年の父は言葉ではなく命じたのである。使者として友人に知らせよという命令の形で。
「アルテミシア」
 彼は振り向くことなく声をかけた。家の中からそっと出てきた娘は、十六、七程であろうか。濃い色の髪は父譲りと見えた。コレー(少女像)のようなたおやかな姿は、最近リュキア中の若者から特別の関心を持って見つめられることがとみに増えている。
「ペダサからの客人アレテス殿だ。暫く我が家にご滞在頂く。用意を調えるよう母に伝えよ」
「はい、父様」
 無邪気な笑顔を見せて燕のように軽快に身を翻す。しかし青年にそれを鑑賞するゆとりなどあろう筈がない。リュキアでも指折りの有力市民クレオビスは、アレテス青年からペダサ陥落までの様子について一通り聴くと、アゴラ(広場)へ向かった。正式な会議を招集する前に、人々に戦いの準備を説く為である。

「アンシャン軍の指揮官の名は何という?」
 そう声を掛けてきたのは、クレオビスのライバルであり親友でもあるビトンである。リュキアでは並ぶ者なき力自慢で、壮年を迎え気力体力ともに充実して頂点を極めているといえた。
「ハルパゴスと聴いたが」
「メディア王に仕えながら裏切ったという男の名と同じではないか?」
 いまいましげに言葉を吐き捨てたのは当然かも知れぬ。
「まさにその男らしい」
 どれほどの人物かは判らぬが。と言い添えて。
「その男がペダサを陥した。それだけではない。クニドスも。防衛のためにと開鑿していた運河の工事を中止して、降伏したという」
「なんだと!」
「信じられぬ…」
 驚愕という空気があるのなら、そこにたちこめていたのはまさにそれであったろう。
「次はここかも知れぬ。ポカイアとテオスは、家財一式を船に積んで去り、アンシャンはもぬけの殻となった都市を占領したという。戦わずして去れば、都市を一から築く必要はあろうけれど命と財産と自由は守れる」
「しかし。土地を失う。そういうことか」
 目に深い色を浮かべて、クレオビスは親友を見た。きりきりきり。と歯噛みする音が聞こえそうである。
「そういうことだ」
 沈黙が下りる。その重さに耐えかねてか、数人の男が声をあげた。
「何故先祖代々慈しんできたこの町をアンシャンのやつどもにくれてやらねばならぬ?」
「戦おう。我等の土地を、このリュキアを守るために」
 いさましい鬨の声がここかしこからあがった。戦いを望む者ばかりではなかった筈だ。リュキアが全滅することは避けたいとクレオビスは思っていたが、そのようなことを口にだせば、臆病者と謗られそうな雰囲気が漂いはじめている。クサントス平野に軍を展開してハルパゴス率いるアンシャン軍を迎え討つことが決定されたのは、それから数日程後のことであった。

 平野に展開した両軍の兵力差は明白であった。いくつもの国を征服してきたアンシャンと、いち都市国家(ポリス)に過ぎぬリュキア。しかしその勢力の違いはあっても、兵士の勇猛さに密接に影響を与える訳ではない。少ない兵力をそれでも十二分以上に活用して、リュキアは戦った。その中にペダサからの悲報をもたらした青年アレテスの姿もある。死を恐れぬ戦いぶりは、リュキア軍の中でも際立っていた。血塗れになって折れた剣を捨て、遣う者の居なくなった武器を拾っては新たな敵を倒していく。その鬼気迫る姿に気を呑まれ倒される敵も少なくない。
 クレオビスは果敢に戦う自軍の様子をつぶさに見つめていた。劣勢は覆すことがかなわぬ。彼我の差がありすぎるのだ。局所で個人技が効いて優勢になっていても、敵は一向に減らぬ。兵力の逐次投入程愚かしいことはないし、それをアンシャンが為すとは思えぬが。新たな部隊が投入されている錯覚に怯えても止むをえまい。戦い疲れたリュキアの人々は、一人またひとりと討たれていく。まだ年端もいかぬ少年も、腰の曲がりはじめた老人も。それぞれに武勇のかぎりを尽くし敵に向かっていく様は、哀しすぎた。巨大な牛に立ち向かう虻を見るように。強大なアンシャンに押しつぶされ、飲みこまれて行くしかないのだろうか。そんな危惧がクレオビスを捉える。リュキアは次第に追い詰められていった。

 城市の中は、さながら地獄絵図だった。血と埃と汗とに塗れ、白かったはずの包帯は、たちまちのうちに汚れて色を変えていく。戻った者はそれでも良い。平野に遺棄されたままの死体の数を考えれば。アゴラに集まったのは、クレオビスをはじめとする有力市民である。その総数は既に先日集まった人数の半数を割っていた。無傷でいる者は一人もおらぬ。ビトンは頭に包帯を巻き、片目は永久に光を失ってしっかりと閉ざされている。クレオビスもまた、その身のここかしこに傷を負っていた。彼等の誇りはその傷が全て背中でなく、敵に向けるべき前にあることだろう。敵に後ろを見せて逃げた卑怯者でないことを、傷自身が証明してくれる。
 今ならまだ若い者や女子供を脱出させる時間を作れるかも知れぬ。我等を囮にして逃すなら。そう思いはしても、脱出してその後にどうするかと言われれば、答えることは難しい。せめて、あの時脱出を提案していれば、このような事態に追い込まれることはなかったろう。今となっては、逃したとしても女子供だけでは無事に新天地へ行けるとは限らぬ。途中でアンシャンの手の者に捉えられ、辱めを受けることもあり得るのだ。それなら、いっそ…。
 目を伏せたままのクレオビスは、疲れているように見えた。ビトンはそんな親友の姿を目のあたりにして、驚愕した。どんな困難に直面しても今まで弱音ひとつ吐いたことのないクレオビス。それはビトンにとって親友であると同時に永遠のライバルであり、太陽神アポロンのように眩しい存在であった。
「クレオビスよ…」
「早く気付けば良かった。このような戦いに巻きこまれてしまう前に。あのアレテスが来た時に。すぐに逃げをうっておれば」
 逃げるという言葉ほど、この壮年の勇者の口から零れるに相応しくない言葉もないだろう。しかし今は、どんな言葉も虚しいだけに思えた。

 傷だらけでリュキアにやって来た若く逞しい青年は、アンシャンとの戦いから帰る度に、心配そうに出迎えて傷の手当てをしてくれる、燕のように愛らしい少女に触れて、少しずつその傷を癒し始めていた。少女もまた、リュキアの為懸命に戦う勇士に、何かを感じとっていたようである。正確にいうなら、彼が戦っているのはリュキアの為というよりは自己満足に近いものはあったけれども、滞在して戦ううちに、このリュキアこそが彼の母都市であるような感覚を憶えていた。数日という短い時間は、二人の心を近づける障害にはならなかった。アンシャンが攻めてくることがなければ、二人は出会うことはなかったかも知れない。しかし二人を巡り逢わせたアンシャンに感謝する気にはなれぬ。若い命はこれから輝く時を迎える筈だった。人生の実りを迎える筈だった。恋をし、子を産み育て。そして次の世代にリュキアの命を繋いでいく筈だった。アンシャンに下るという選択肢はなかったとしても、他の選択肢は残っていた筈である。
「今の俺には、嫁資(結婚を申し込む男が娘の父親に渡す財産。結納金のようなもの)がない」
 それを、半ば言い訳のように呟くアレテスの唇に、柔らかいものが触れ。首に細くしなやかなものがまとわりついた。一瞬硬直しかけ、その甘い吐息に眩暈を起こしそうになる。
「後悔はレテ(忘却の川/死者が冥府に行く途中で渡るとされる。所謂三途の川)を越えてからは出来ないの」
 暗闇に光る瞳は、狩猟と月の女神アルテミスの放つ矢のような鋭さを持ちながら、泉のように澄んでいる。
「もし、あなたがわたしをお厭いでないなら…」
 大胆な行動とは裏腹に、声はか細く今にも消え入るようであった。
「今、あなたを抱けば俺は満足して死ねるだろう」
 そう言いながら、勇士はアルテミシアの体をそっと遠ざける。
「だが、満足してしまってはアンシャンには勝てぬ。俺はアンシャンに勝って、あなたの父上に結婚を申し込みたい」
 それは、恐らく叶わぬ夢であろう。それをアレテスも自覚している。だが、恩人の娘をヘタイラ(遊女)のように玩んだと思われるのは、彼の矜持が許さなかった。
「ただ…。あなたが、他の男に嫁がぬという約束の証に…」
 そういって青年は口ごもり。羽根よりも軽やかな口付けをアルテミシアに与えた。若い恋人は陶然とした視線を交わし合い。それからまた唇を合わせた。

「今となっては、最早遅い。遅すぎる」
 クレオビスは頭を抱えた。その目尻から透明なものが伝い落ちるのを、リュキアの力自慢の勇者は生まれて初めて見た。やがて、涙にまみれた顔をあげ、クレオビスは立ちあがった。
「女子供、家財、それから奴隷の全てをアクロポリスに集める」
「どうするんだ?」
 問い返すビトンの目に映ったのは、狂気の焔を帯びた親友の瞳であった。

 ハルパゴスは、軍の後方から指揮を続けている。将帥は前線に立って兵卒を率いるものであるが、既に齢を重ね体は十分には動かなくなっている。それよりも寧ろ全軍のバランスを見る為に後方で指揮を取った方が良いと判断したのだ。実際、そのようにしてカリア諸都市を陥していったのである。ペダサでは思いがけぬ程に強い抵抗にあった。しかし何とか陥落させることが出来た。リュキアもまたそうなるに違いない。ハルパゴスはクルからの書簡を握りしめて、遠く微かなリュキアのアクロポリスを見つめていた。その眉根が寄せられたのは、不穏な気配を見たからである。アクロポリスの中央あたりから、もうもうとした黒煙が上がっていた。それは業火と呼ぶに相応しい、何もかも全てを焼き尽くす焔だった。

 リュキア兵士が城門から討って出てきた。傷だらけではあるが、士気は衰えてはいない。寧ろその勢いは増しているようである。鬨の声が辺りにこだました。
「うおおおお」
 まだ若い兵士が、血涙を流して攻め入ってきた。決死の形相の凄まじさに、身震いして武器を取り落し、逃げ出した者さえ居る。力強い斬撃に薙ぎ倒された者もいた。敵地深く攻め込む危険を度外視したその動きは、只管壮絶であった。ハルパゴスは右手を振った。弓兵隊が一斉に構える。右手が振り下ろされると同時に、弓弦が鳴って矢が飛ぶ。その先にペダサから来た使者アレテスがいた。まだ若く勇猛な兵士は、全身に矢を浴びて即死した。
「アル、テミ、…」
 その最後の言葉の意味を理解し得たものは、いなかった。
 勇猛なリュキア兵の為に、アンシャン軍は一部後退を余儀なくされたが。しかし兵力の差を勇気で補いきれるものではない。ひとりそしてまた一人と、リュキア兵は討たれて絶命して行った。
 一人残らず。

 凄惨を極めた戦場をあとにして、ハルパゴスは副官と共にリュキアの城門をくぐった。そこには、何一つ残ってはいなかった。命あるものも、ないものも。リュキアの人々は、女子供や家財、それから奴隷までも。一切合切をアクロポリスに集め、火を放ったのである。それから決死の誓いを立てて、アンシャン軍に向かってきたのだった。
 ハルパゴスの目に、ずっとしまわれていたものが浮かんだ。それはアクロポリスの業火から逃れようとしたらしい、年端もいかぬ幼い子供らしき遺体が、目に映った時のことである。
「何故、ここまでして抵抗したのだ…?」
 アンシャン王クルの下につくことを拒否し続けた人々の、強情さがいっそ憎らしく見えた。生命を失う恐怖よりも自由を選ぶ精神のありかたが、何故か妬ましかった。伝い落ちる涙を拭うこともせず、アクロポリスのあたりを少しの間見つめて。ハルパゴスは城門へ向かった。
 クサントス渓谷から風が吹き上げて、そのマントを翻す。一つの都市が、アンシャンの支配下に入った。一人の住民もないままに。リュキアは、アンシャンという大国に屈することなく、地上から永遠に消え去ったのである。アダクリュス・マケ(涙なき戦い)の果てに。