第二章英雄の末裔

一、ヘラクレイダイ




 ヘラス(ギリシア)の大部分をなす、ペロポネソス半島は、「ペロプスの島」という意味である。ペロプスとは、伝説時代の英雄の名であり、ヘラスの祖と言われる人物の一人である。
 ペロポネソス半島は、ヘラスの殆どがそうである如くに、いくつもの山と谷が複雑に絡み合って形成されている。その形は桑の葉(モレア)にも良く似ている。丁度桑の葉の太い葉脈に当たる部分には山があり、細かい葉脈が多い部分には谷があると考えれば、判りやすいかも知れない。東にパルノン山脈、ペロポネソス半島をほぼ南北に連なって東西に別けるタユゲトス山脈が、葉脈の先のタイナロン岬まで続き、西にはそれらの山脈ほどの規模はないが、イトメ山、リュカイオン山といった山々と、丘陵に囲まれた広くなだらかな平野がひらける。ラケダイモンを流れる川は、エウロタス。パルノン山脈とタユゲトス山脈を結びつける石灰岩の山地を通り、広い沼沢地を横切ってラコニア湾へそそぐ。水の利も良く肥沃な土地であった。ラケダイモンが、心理的障壁ともなりうる二つの山脈に囲まれているのに対して、タユゲトス山脈を隔てたメッセニアは、肥沃なばかりでなく開けた印象がある。この地には、先史文明が存在したが、ヘラスを俯瞰してみて、より発展したのはタユゲトス山脈より東の地域であった。黄金のミュケナイ、交通の要衝であるコリントス、そしていうまでもなくアテナイ。これらの都市と同等の勢力を誇りながら、しかし現在スパルタ(現在の都市名はスパルティ)は、観光名所のリストからは外されている。それは、「人が城壁」であったスパルタでは、遺跡らしい遺跡が殆ど残ってはいないからだ。だが、それは繁栄していなかったという証明にはならない。
 ラケダイモンとは、ラコニア地方に存在した国の名称である。「スパルタ」という名が一番耳に馴染みやすいだろう。それは、「スパルタ教育」につながるものであり、事実古代スパルタがそのスパルタ教育の発祥の地である。産湯は葡萄酒で、それで痙攣やひきつけを起すような子は、即座に遺棄される。新生児検査は王族を含めて等しく行われ、合格しなければ容赦なく遺棄された。その為か否か、スパルタはずっと人口不足に悩むことになった。先住民族を含めたヘイロタイ(ヘロット/国有奴隷)をしばしば殺したのも、ヘイロタイの人口がスパルティアタイと呼ばれたスパルタ市民の人口を、遥かに上回る数だった為である。男の子は七歳まで親元で育つことを許されるが、それ以降は文字通りのスパルタ教育が待ち構えていた。
 この都市の誕生は、紀元前千数百年前に遡る。トロイア戦争で有名な美女は「スパルタのヘレネ」、つまりはスパルタ王妃である。神話伝説が好きな方ならご周知であろう。スパルタ王妃レダが、白鳥に姿を変えて現れたゼウスの愛を受けて生んだ子の一人ということになる。もしヘレネという女性が実在していたとするなら、その民族はアカイア人であろう。ペルシア戦争に関わりがあるスパルタ人は、その後にこの地にやってきたドーリス(ドーリア)人であり、先住民族アカイア人を追いやり或いは奴隷として支配した。侵入者であるドーリア人たちは、ヘラクレスを祖とする人々に率いられていた。伝説を事実とするなら、古代スパルタ王家はヘラクレスの子孫ということになる。双子の王子を先祖とする二つの王家は、上位王家をアギス家、下位王家をエウリュポン家という。上位王家の最初の王はアギスという。年代は、紀元前九百三十年頃くらいという説がある。下位王家の最初の王エウリュポンは同八百九十年頃ということで、以降は二つの王家が同時に存在するという、世界では稀なケースとなった。もっとも、民主政治発祥の地ヘラスでは僭主を嫌ったためか、この二人の王が専横を振るうことが出来ぬよう、早くから長老会(ゲルーシア)が存在し、また一年任期の監督官(エフォロイ)五人が監視の目を光らせていた。長老会は、六十歳を過ぎたスパルタ市民の中から選出され、終身その任を負う。死没の際には新たにまた一人が任命されることになっていた。対する監督官は年齢についての制限に言及した描写はない。しかし、王の行動を監視し、王が儀式に参加するときは立会い、時には王を拘束する権限さえ持ち合わせていたことは、絶対王権が多かった古代においては極めて稀な例だったといえるだろう。
 スパルタの繁栄の源は、周辺地域の支配に成功したことである。主として、肥沃なメッセニアの併合が大きい。膨大な数のヘイロタイを支配下において、市民達は初めて自分達で耕作することなく収入を得ることが出来るようになり、結果余暇が生まれた。英語で学校を意味するschoolがギリシア語の暇を意味する「スコレー」に由来していることを考えれば、「生活の糧をあくせく働くことなく得ることが出来るようになったから、暇潰しでもするか」という古代の人々の呟きが聞こえてきそうである。それは同じくアテナイでもあった。奴隷によって人々は収入を得、それからアゴラに集まって政治論争や哲学を語るようになったのである。奴隷という、金銭で売り買いされる人々の存在が是とされた時代、それは必要不可欠なものであったのだろう。スパルタでの奴隷が共有財産つまり国有奴隷であったのに対し、アテナイは私有であった。その主人によっては待遇も異なった。いい主人にあたれば、家族同然の待遇を受けて、長きに渡る奉公の末、時には他の都市国家(ポリス)の市民権を買うことが出来た。悪い主人に当たれば牛馬の如き扱いを受けたようである。勿論逃亡を企てた奴隷もいたが、見つかれば唯ではすまない。スパルタではその余暇を体の鍛錬に使い、アテナイでは主に頭の鍛錬に使ったとでもいえそうだが、アテナイは現代の国家で言えばアメリカの如き訴訟天国であったので、弁論術が盛んであった。ついでに告訴常習者などもいたようである。ではスパルタはどうだったかというと、寡黙を美徳とする風潮であった。しかし言葉は最小限で、気の利いた切り返し技も不可欠とされていたので、アテナイの人々とも十分に渡り合えたようである。それはさておき。メッセニアという巨大な穀倉地帯を配下におさめたのち、スパルタは大いに繁栄することとなった。それは、紀元前七百年代後半のことだったようである。
 どの都市国家でも改革を必要とする。アテナイでは国政が王政から貴族政へ、そして民主政へと移行するときに、幾度にか渡った改革が実行された。国の制度が二王と長老会と監督官という極めてシンプルな形で調えられたスパルタにも、改革は必要であった。そこに登場するのがスパルタでは神の如き尊敬をもって敬われることになる、リュクルゴスである。
 リュクルゴスは、一説にはスパルタ王家の出身である。摂政のような立場にいた人物とも目されているが、実在したかどうかについても議論の余地がある人物である。或いは、何人かの改革者の業績が、一人の人物に集約された結果であるのかも知れないが、その改革者に与えられた名称はリュクルゴスであった。とすれば、役目の名称とも思えなくもないが、とりあえず今は一人の人物の名ということでいいだろう。いずれにせよ、古代スパルタにはリュクルゴス体制(制度)と呼ばれるスパルタの軍事・社会組織を制定することが必要であった。奇妙なことは、このリュクルゴス体制が、彼がクレタ島で学んでもたらしたとも、デルフォイの巫女に授けられたともいう伝説があることである。

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