第一章イオニアの華

六、ナクソスから来た客




 月のない夜だった。
 すっかり更けて、人っ子一人とて居らぬ港で、船が今にも漕ぎ出されようとしている。どこまでも深い漆黒の闇は月の光を知らぬかのように、全てを包み込んで隠した。星灯りだけがその船の行手を照らす。たどり着く先は、冥府の入口か、それともヘラクレスの柱(現ジブラルタル海峡)か、それは誰も知らない。ただ、星だけが瞬いて、漕手には見えぬ行先を照らしているようだった。

 アリスタゴラスは得意気に艦隊を眺めていた。二百艘の艦隊を用意出来る都市国家(ポリス)など、ヘラス(ギリシア)にはまずない。その二百艘もの艦隊がまるごと自分の指図通りに動くのである。余程そういう機会に恵まれているものか、歴戦の強者でもなければ、浮ついた気分になるのは是非もない。この艦隊でナクソスを包囲すれば、ナクソスの人々は恐れ慄いてすぐさまに降伏し、たちまちに亡命していた富裕な市民は元の身分に復帰し、勢力を取り戻すだろう。そうなった暁にはアリスタゴラスにも十分以上の見返りがある筈だった。隣に居るメガバテスにそっと視線を流す。伏せた目の睫の色は、髪よりも少し濃く、深い影を落としている。
「ナクソスの連中はこの大艦隊を見て慌てふためくでしょうな」
 何気なさを装って声をかける。ミュンドス艦長スキュラクスの逮捕及びアリスタゴラスによる無許可解放の一件以来、まともに口をきいてはおらぬ。だが、関係を悪化させるのは、明らかに賢明ではない。穏やかに、しかし追従とは思われぬように気を配りながら、アリスタゴラスは言葉をかけた。それに対して、メガバテスは消極的ながら反対の立場を取っているように思えた。
「二百艘は艦隊としては確かに大規模でしょうが、それでも一都市国家を攻めるに際して十分な勢力とはいいかねます」
 野戦と攻城戦とでは戦い方も異なるが、その一番大きな相違点は兵力の差だろう。難攻不落を誇る要塞であれば、守る側は、攻める側の何分の一の勢力で済む。だが、大艦隊の総指揮官ともあろうものが発言する内容としては、如何にも心許ない。何を弱気な、とアリスタゴラスは思ったが、口に出してはその見識を褒め称えた。
「流石にペルシアの若獅子、慎重でいらっしゃる。アルタフェルネス閣下が貴殿を推挙なさるのも当然のこと。だが、戦果はかなりのものになりましょう。それだけは疑いないですな」
 ナクソスを見くびる訳ではなかったが、攻撃されることを知らぬナクソスの人々が戦いの準備をしているとは思えなかったし、何より、総指揮官が弱気であってはならぬ。
「風も待った甲斐があった。どうやら北風が吹き始めたようだな。明日にでも船出することにしよう」
 アリスタゴラスは誰にともなくそう呟いて、踵を返した。その背中を、暗い眼差しでメガバテスがじっと見つめていた。

 二百艘の艦隊が揃った様は、まさに壮観であった。どこまでも青い空に、涼しげな水の色が映える。キオス島の山の木々も、青々と伸びやかで目に快い。程よく心地よい北風が、ヒマティオン(外衣)を翻す。アリスタゴラスも含めた多くの者が甲冑に身を固める。
 漕手は百数十人程度、水夫と戦闘員は合わせて三十人程度、合計で一艘の船に大体に二百人程の人間が乗っていると考えて良い。乗船するその全てが装備を固める必要はないが、陸戦に参加するものは装備を用意しておかねばならない。三段櫂船の名の通り、櫂の漕手は三段になって船を漕ぐ。一番上段の者は一番長い櫂を操ることになるので、少々骨が折れた。同時に、陸上や、戦闘になった際には船上からの攻撃を浴びる可能性もあるので、装備はある程度固めておいた方が賢明である。三段櫂船の船は重心が低く、重い。外洋には向かず、また船員の寝場所も確保出来ぬ。それゆえに長期の戦いを起すには、近くに補給基地を設けることが必須であった。
 支度を調え終えると、アリスタゴラスは指令艦に乗船した。
「出航!」
「出航だ!」
「帆を揚げろ!!」
 勇壮な男達の声が港に響き渡る。キオスの沖合で船が揃うと、全ての船首が南へと向けられた。
「ナクソスへ!」
 アリスタゴラスの口から発せられた命令が、全ての艦船の長へと伝わる。メガバテスは唯々諾々とそれに従っているように見えた。傍目から見れば投遣りな、とも取れる態度だったが、その眼差しの暗さ重さに気づいたのは、メガバテスの従卒だけである。常日頃から身近に控えているだけに、主の変化に聡くも気づいたのである。だが、それに気づいていながら、一従卒に過ぎぬ身にはどうすることも出来ぬ。
「閣下…」
 呟いた言葉は、メガバテスの耳に入ることはない。それは風に流され、遥か遠くに飛んでいくかのようであった。

 ナクソス島が近づきつつあった。島影が漸く見え始めた頃、視力の良さでは艦隊一になるだろうナクソス出身の男が、同じようにナクソスから出てきた亡命者に語りかけていた。
「何か、様子がおかしくはないか」
「どこか?」
 声を掛けられた男は、あまり目が良くない。島の様子が、と指されて示されても、俄かには判らなかった。近づくにつれて、その危惧が正しかったのに気づいたとき、ナクソス亡命者の一団の中から、深く重い溜息が吐き出された。
「誰か、アリスタゴラス殿に…」
 そう言い出した者もいたが、それには及ばなかった。アリスタゴラス自身が、ナクソス亡命者のところへやってきたからである。
「間もなくナクソスに到着する。軍隊がナクソスを制圧したら、即座に市街に入り占拠して貰いたい。準備は万端整えておかれるよう」
 上機嫌なアリスタゴラスを前に、異状を説明出来るナクソス人など、居よう筈もなかった。
「う、うむ」
 重々しく肯いたのは、それでもこの計画が成功することを信じる余地が残されていたからである。二百艘の船のそれぞれに、戦闘要員が三十人程度乗船していれば、単純計算で六千人である。実際には漕手としての任務しか果たさぬ者は、今回全艦隊要員の半分も居らぬ。とすれば、二百人の乗船者の半数を戦闘要員として計算すると、二万人である。対するナクソスの壮丁は八千、それから艦船も保有している。その数は不明ではあるが、相当な勢力であろう。野戦に持ち込めば、数は倍以上。そうなれば、利はこちらにある。だが。
「ナクソスが!」
 驚いたような物見の声が響いて、アリスタゴラスはそちらを振り向いた。
「どうした?」
「城門が閉ざされています!」
「何だと…?!」
 城壁の外にはもの一つ、人ひとり居ない状態になっている。港に接岸しても誰一人見に来るものがおらぬ。
「一体…?」
 訝しげにそれを見つめるミレトス僭主代行が呟く。それを見つめていたのは、メガバテスの従卒であった。

「情報が、漏れていたらしい」
 アリスタゴラスはナクソス亡命市民団を前に、そう告げた。一旦キオスへ寄港したのは、目的地をナクソスと思わせぬ為にであった。しかし今回それは寄り道をしただけの意味しか持たなかった。既にナクソスは防備を固め、籠城の準備を終えていた。城壁は補修され、いつも城壁の外に置き去りになっていた物資も、猫や犬までも、皆城壁の中へと運び込まれていた。食糧、飲料は勿論、武器も用意してあったのである。
「何ということだ」
 出だしから躓いたことにアリスタゴラスは一瞬呆然としたが、ここまで来てしまった以上、目的は果たさねばならぬ。ナクソス亡命市民団の手にナクソスを渡さなくては、彼の得るべき利益も何もかも、壺に書かれた葡萄程の意味さえなかった。
「城を包囲し、攻略せよ」
 力の籠もった低い声で、僭主代行は叫んだ。自らの苛立ちを隠しきれぬ様子で。

 睨み合いが続き、ペルシア軍及び同盟軍の二百艘の艦隊の全員が、満月を三回程このナクソスで見ることになった。ナクソス攻略のための資金は、一時的にミレトスとアリスタゴラス、そしてアルタフェルネスが拠出することになっている。ナクソスの防備が固められていたことに気づいた時点で引き返せば、まだその損失は取り返しのつかないものにはならなかったろう。しかしここまで来てしまって引き返しては、ナクソス亡命市民団の白眼を受けること必定である。アリスタゴラスはそういう人々の目を気にしながら、戦いに突入していった。ナクソス市民は籠城の構えを崩さず、どれ程挑発しようとも城門の外へ討って出ては来ない。城壁の内側へ攻め入る工夫を考えたが、修復を終えたばかりの城壁は堅牢な要塞のようで、蟻の子一匹出る隙間さえ見出せそうになかった。このまま時を重ねては戦費が嵩むばかりで益が一つもない。既に彼個人の出費は莫大なものとなっている。ナクソスを取り戻せば弁済して貰えようが、その宛がない現在、大博打に手を出したことに後悔を憶え初めていた。
「ペルシア軍の用意してきた軍資金が底をついたので、我々は立ち去ることにした」
 感情を籠めぬ冷えた声でメガバテスが告げた。
「ナクソス亡命市民の諸君らには申し訳ないが、貴殿らの為の城壁を築いておいた」
 あとは自分達で何とかしろ、と言外に匂わせる。
「明日出航するので、ペルシアに亡命したいものは今日中に名乗り出て貰いたい」
 それだけを言うと、さっさと艦船へ戻っていった。後に残されたナクソス亡命市民団は途方に暮れた。
「アリスタゴラス殿! 何とかならぬのか!」
 声を荒げて掴みかかろうとした者もいる。しかし、このような状態を想定していなかったナクソス亡命市民たちにこそ、その目論見の甘さがあったといえる。

 惨澹たる状態で艦隊は大陸に戻らざるを得なかった。失敗は、アリスタゴラスがアルタフェルネスに約束したことを、果たし得なかったということでもある。それは、総指揮官であったメガバテスとの不和とともに、彼の上に大きな不安をもたらしていた。ペルシア軍は容赦なく遠征費用の催促を迫ってきている。結果が得られなかったことも手伝って、それは厳しい催促になっていた。様々な事柄が、金銭の借財以上に大きな負債となって、僭主代行の肩に圧し掛かってきていた。焦りと戸惑いが、彼の心を締め付ける。ペルシア側の信頼を失ってしまったら、ミレトスの僭主代行としての地位も危ぶまれるかも知れない。アリスタゴラスは、少しずつ追い詰められていった。

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