第一章イオニアの華

五、嵐の前兆




 淡い空の色は遠くまで霞んで見えた。荒涼とした地上からゆっくりとたゆたうように舞い上がる、土埃のせいだろう。しかしこの中には豊かな水が湛えられている。水の上を渡ってくる風は、それまでの乾燥が嘘のようにしっとりと湿度を加えて彼の元へたどり着くのだ。水、それはこの乾燥した地帯では豊かさの象徴でもある。王のもとへ辿りつければ、それが豊富にある。そして王のお陰をもって与えられるのだ。そう、王の恩寵のように。
 遠くを見遣っていたダレイオスは、手の中にあった杯をゆっくりと干した。スキュティアからほうほうの態で戻ってから、一月程が過ぎている。ペルシア本国に帰りつき、落ち着くと、それぞれの役割に応じてそれを賞し或いは罰するのが望ましいことに思い至った。撤退直後はそうしたことを考えるゆとりすらもなかったが、漸く気分が落ち着いてきたことを示す兆候といえた。信賞必罰。それは、少なくとも奴隷の身であるイオニア地方の独裁者達には多少なりとも効果がある筈だった。自分に有益な助言をしたもの、戦闘時に勇敢であったものなどをつらつらと数え上げる。船橋を残すことを進言したコエスには勿論、スキュティアの矢が届かぬところまで退避しつつもたった一声で艦船を回して船橋を掛けなおしたヒスティアイオスにもそれなりの賞を与えておけば、今後も忠勤に励もうとするに違いない。その論功行賞の記念式典を開催することを決めると、不思議に心が華やいだ。王自らの親征はスキュティア三王に引きずり回されて、思うような戦果をひとつも上げることが叶わなかった。しかしそれが距離も精神も遠いものとなっている今は、式典というイベントに対する感情が鼻腔を擽るように思えた。
「ばかな…」
 そう思いつつも、式典用の煌びやかな衣装などを思えば、自然と沸き立つような感情があふれてくる。そう、僅かばかり前のことではあるのだが、ダレイオスにとっては既にスキュティアは過去のことであり、現在の議題ではないのだ。それは最早ヨーロッパ方面司令官に任命した、メガバゾスの役目である。ペルシアの父と呼ばれたキュロスには遠く及ばぬ。だが、生きているからこそそれは越えられない壁であり、生きているからこそいつか越えられるかも知れない可能性を秘めた壁でもあった。子供の頃、父の隣にかしこまって座っていたダレイオスの頭をそっと撫でた偉大な王。そのキュロス王の白い見事な髯を見た少年の日を、ダレイオスは恐らく忘れることはないだろう。ペルシアをメディアの束縛から救い、版図を急速に広げることが出来たのは、このキュロス王が騎馬隊を創設したからなのだよ。と少年の父は誇らしげに語った。それを聞いた少年は、丸い目を見開いてじっと見つめた。彼は眼光鋭いペルシア王に威圧されつつも、それを超えたいという存在に生まれて初めて出会ったのだった。そのキュロスが戦死したのは、ダレイオスがまだ成人する前、そう二十歳になる頃だった筈である。キュロスの長男カンビュセス(二世)が後を継いだ。即位から僅か八年で彼が異郷の地に斃れることがなかったら、ダレイオスの手に王位が舞い込むことはなかったろう。そう、正当な世継を主張出来るものが、ダレイオスには何一つなかった。同じ首長一族アケメネス家出身ではある。だが、ダレイオスの血統は直系であるキュロスやその長男カンビュセスらから見ると、かなりの傍系であった。
「失礼致します。式典にお召し頂きたいお衣装を…」
 いつの間にか思考の迷路に沈みこんでいたらしい。壮年の王はふと声を掛けてきた男に視線を当てた。八分通り出来上がっているようである。丁寧に丹精こめて作られた衣装には、一点の綻びも一箇所の糸の緩みもない。すべてが完璧に見えた。黄金の入った刺繍も、上質の布も。その出来栄えに満足気に肯いて、衣装係を下がらせようとした時である。
「お妃様がお見えになります」
 先触れが声を上げた。ペルシアでは一夫多妻制であり、妻たちは順番に夫のもとへ通うのである。即位した時、豪族との勢力調整の問題もあって、ダレイオスは妻を幾人も娶ることになった。その中には先の王カンビュセスの妻だった女たちも居る。今、ダレイオスの妃の中で絶大な権力を握っているのは、カンビュセスの姉でありまたその妃でもあったアトッサであった。カンビュセスの姉、それはつまるところ先々王キュロスの娘ということである。ペルシアは、ことに王族では姉妹或いは姪を娶ることが少なくなかった。
「今宵はアトッサだったか…?」
 妻として何かが欠けている訳ではないのだが、ダレイオスにはアトッサは少々重過ぎた。最愛の妃であるアルテュストネはそのアトッサの妹である。だが、彼女は寵妃という立場を鼻にかけることはなく、寧ろいつも何かにつけ行動的で目立つ姉を立てていた。その一歩退いた、控えめなところにダレイオスが惹かれたとも言える。ダレイオスが妻にしたとき、彼女が処女であったという事実はあまり関係はないだろうが、それでも幾人かの男を知っていた別の妃よりは情愛が勝ってもおかしくはない。彼を受け入れ、ゆっくりと開いていく華を見守ることは、男として幸福だった。
「陛下…」
 遠慮がちな声が、そっと耳を打った。ダレイオスが我が耳を疑ったのは是非もない。それはアトッサではなく、アルテュストネの声であった。
「アルテュストネ…。どうした?」
 順番を違えることはアトッサが許さぬだろう。そう思ったのだが、アルテュストネの頬にそっと射した朱が、ダレイオスの言葉を止めた。
「今宵は…、お姉様…アトッサ様は今宵陛下のお相手をお勤めすることは出来ませぬ」
 そう恥ずかしげに語る声は繊細な銀の細工を思わせる。アトッサの張りのある声を黄金の兜に譬えるなら、アルテュストネの声は白銀の花であった。控えめで、決して出しゃばろうとしない細工物。それは好ましくはあるが、妃の最上位を与えようとしても自らその椅子を降りて人に譲ってしまうような、か弱さがあった。
「子か…? それとも」
 初々しい妃は、うつむいたままにそっと首を振る。
「お相手が叶わぬ故、私にと…」
 姉を立てることを最上とするようなその性質は生来のものかも知れぬが、望外の喜びにダレイオスはふと顔を綻ばせた。彼女を妻に迎えて既に十年程の歳月が流れている。女として成熟の時を迎えつつあるアルテュストネに、王はそっと手を差し伸べた。
「来い」
 微笑んだ王の手に白くほっそりとした自らの手を与えて、妻は夫に己が身を投げかけた。

 アトッサは一人、闇の中に佇んでいた。思うのは、如何にして愛息子クセルクセスをダレイオス王の後継者に出来るかということである。ダレイオスにはアトッサらと結婚する前に既に妻が居り、子がいた。長子という意味で後継者を考えれば、クセルクセスは些か不利になる。だが、英雄キュロス王の血を引く彼はペルシア国民に後継者として訴えかけるものが少なくない筈だ。キュロスの血を引いた息子達は既に死に絶え、娘はアトッサとその妹アルテュストネのみである。王となったダレイオスに一番最初に息子を生んだのは、アトッサだった。英雄王の血を引く後継者こそ、次のペルシアの王になるべきである。やや露わになった豊満な胸を揺すって、王妃は妖艶に微笑んだ。

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