第一章イオニアの華

五、嵐の前兆




 式典は華麗に始まり無礼講に終わる。ことに、ペルシアでは。それぞれの殊勲賞が与えられ、上等の酒と女をあてがわれて、取るに足りない者までもがまるで自分が先陣を切って武功をたてたかのように、ありもしない武勇伝を話し出す。本来冒険が多いものはそれを殊更に言い立てる真似はせぬ。戦場から離れた場所で話すものなど、寝物語程の価値しかない。ただ傍に侍った女の気を惹く程度の。
 酒が適当に回ったところで、宴の主宰者であるペルシア王ダレイオスはコエスとヒスティアイオスの二人を近くへ呼び寄せた。既に酒の入った席で、拝跪の礼を取るのは無粋である。礼を失せぬよう配慮して王に対するものとしては少々軽い会釈をした。だが、妃とは違う見目麗しく若い女を侍らせて、王の機嫌が悪かろう筈がない。ふんわりとした大き目のクッションに身を預け、ご満悦の表情でゆったりと口を開く。
「この度の遠征では、そちたちには世話になった。何なりと褒美を与えよう。何か望みのものはあるか?」
 船橋を破壊せぬよう建言したコエスに、王の探るような視線が向けられた。彼はミュティレネの有力市民である。この度も有力市民としてミュティレネ部隊を率いてはきたが、一市民としてのものである。彼は少々権勢欲豊かであった。
「叶いますなら、王よ。ミュティレネの独裁権を望みます」
 舐めるようにワインを含んだ唇がゆっくりと応える。
「ミュティレネか……良かろう」
 鷹揚に肯いたダレイオスが、次はコエスの隣に座るヒスティアイオスに、静かな視線を向けた。ヒスティアイオスは既にミレトスの独裁者として君臨している。ダレイオスの後ろ盾あってこその独裁者としての地位であることを、ヒスティアイオスは十分に弁えていた。もっと大きな他の町の独裁を望むことも可能だったかも知れない。だが、彼の脳裏には違う未来が描かれていた。
「陛下にお許し頂けますなら」
 萎縮したように顔を下げる。
「……ミュルキノスの土地に新しい町を作りたいと存じます」
 ダレイオスの右の眉がはね上がった。ヒスティアイオスの表情は、ダレイオスの位置からは殆ど見えない。もともと、臣下が主君の顔を見上げることはそうそう許されることではないのだ。
「ほう。新しい町を」
 ミュルキノス、それは、異民族であるエドノイ族の人々が暮らす土地である。勿論、その土地の上に「乗っかっている」異民族はダレイオスの軍によって「排除」されるだろう。運が良ければ、その対価を王から貰えるかも知れないが、それはヒスティアイオスの知ったことではない。新たな町を作る。それはまだ何も描かれぬ白い紙に筆を落とすのに似ている。城壁を作り、道を作る。神殿や家屋、役所。水源も確保せねばならぬ。それら全てを、一から作り上げていくのである。道一つを作るにしても現代のように科学技術が発展している訳ではない。ローラーもコンクリートもない時代のことである。人の手によって草木や石が取り除かれ、路面が馴らされ、敷石を一つひとつ埋め込んでいくのだ。気の遠くなるような作業だが、ヒスティアイオスの表情は心なしか楽しげに見えた。ペルシア王はコエスの願いを聞き届けた時と同様に、一つ肯くと、傍に居た宦官にさりげなく視線で合図を送る。数日後にヒスティアイオスがここを出発するまでには、ミュルキノスの地は無人になっているかも知れない。
「今後も一層の働きを期待しておるぞ」
 王としての鷹揚さと、成り上がった者としての気配り。それがダレイオスにはあった。王が恐れるものは、王を僭称することが出来る存在の出現である。それを押さえ込める程には、既に王としての業績をあげてきたつもりだった。しかし無敗を誇っていたペルシアが破れてその権威は地に落ちた。比較的早い時間での回復が望まれている。王の肝いりで、しかも王が親征した戦いでの敗北など、過去のペルシアにはなかったことだったのだ。コエスとヒスティアイオスは願いを聞き届けられ、深い安堵に包まれて手にした杯を煽った。ヘラス(ギリシア)とは違い、水で割ることをせぬままに飲むペルシアの酒はあっという間に二人を夢の中の理想郷へと誘うかのようだった。

 壮麗な式典が営まれてから、数ヶ月程が経過していた。スキュティア遠征後、ヨーロッパ担当司令官に任命されたメガバゾスはとりあえずの功績を上げ、帰国の途上にあった。ダレイオスの親征がはかばかしいものでなかった以上、あまり勝ちすぎては疎まれる。しかし功績がゼロではその後の出世を見込むことは出来ぬ。何事にも頃合というものがある。勝ちすぎぬ程度に勝つ。それがメガバゾスの持論だった。まだ若い割に老齢のもののような考え方をする。と同僚には良く言われてきた。しかし何の後ろ楯もない頼りない身であれば、慎重すぎて困ることはない。常々彼はそう思っていた。出る杭は打たれる。ペルシアはイオニア地方のギリシア人を治めるのに、僭主という「手段」を使ってきた。僭主というものは、目立つもの、成長する恐れがあるものを早期に摘み取る。そうして独裁権を長くしかもしっかりと握るのだ。物思いに耽っていたメガバゾスは、ふと前方に以前はなかったものがあるのに気づいた。副官を呼び寄せて確認を取る。
「エドノイ族の居住している辺りですな……。城壁のような」
 メガバゾスの瞳に光が灯る。
「面白そうではないか? あのエドノイ族が城壁だと? 見物に行ってやろうではないか」
 それは、紛れもなく決定であった。

 砂が吹き荒れていた。と思ったが、それは砂嵐ではなく軍隊であった。ヒスティアイオスは工事監督の手を止めて、休憩を伝える。接近している軍隊は旗から言ってペルシアのものである。恐らくはヨーロッパ方面担当指揮官となったメガバゾスの軍隊であるに違いない。相応の功績を挙げて帰途についたというところだろう。まだ街づくりは途中である。よって人口も女性より男性の方が遥かに多かった。ヒスティアイオスは手近なところにいた女に宴会の準備をするよう伝える。
「アリスタゴラスはどこだ?」
 ミレトスの僭主はあたりを見回す。
「舅どの。どうかしたか?」
 声を上げると名前の主が現れた。ヒスティアイオスの従兄弟にして、愛娘の婿である。スキュティア遠征の時はミレトスの僭主代行を務めていた。スキュティア遠征時イオニア部隊にいたキュメの僭主アリスタゴラスと同名であるが、別人である。ヒスティアイオスがもっとも頼りとする友人の一人であった。
「舅どの、は止めろと言っただろう」
 苦笑しつつヒスティアイオスは答えた。事実彼の娘はアリスタゴラスに嫁いでいるが、同時に彼らの関係は従兄弟でもある。
「事実なんだから諦めろよな。……で、なんだ?」
 与多話は忘れないが、余計なことに潰す時間は最小限にとどめる。その簡潔さをヒスティアイオスは気に入っていた。
「まだ少し距離はあるが、軍隊が近づいている。恐らく、ヨーロッパ平定を命令されていたメガバゾスの軍だろう。馬は乗れたな? ひとっ走り行って歓迎の宴を開きたいのでお越し下さい。と伝えてくれ」
「俺がか? そういう使者には向いてねーと思うんだけどなあ」
「他に適任者が居ない。それとも私の代わりに監督代行を務めてくれるか? なんなら人足として働いてくれても構わんぞ」
 脅し文句には反応せず、即座に回れ右をして厩舎へ向かった。物分りの早い奴で助かった、とヒスティアイオスは顎髭を撫でたが、ふとメガバゾスが若い人物であることを言い添えるのを忘れたことに気づいた。
「……まあ、諍いを起こさないでくれればいいか」

 城壁の町から馬が一騎、駆けてくるのに気づいて、メガバゾスの従卒はごくり。と唾を飲み込んだ。まだ若い。というよりは少年である。メガバゾスにしてからが青年になりかけの年齢であるからそれはこの軍中においては異例のことではない。砂塵に気づいたものは他にもいたようだ。副官がメガバゾスの方をちらりと見遣ると、視線は前方の馬に据えたまま、深く肯く。やがて馬には人が乗っていて、それがヘラス(ギリシア)の服装をしていることに誰もが気づいた。
「メガバゾス司令官殿!」
 馬に乗った人物は声を張り上げている。メガバゾスの名を知っているというなら、ペルシアに従うイオニアの同盟諸国関係者であろうか。
「ここだ」
 軍人らしく律動的な動きでメガバゾスは右手を上げた。馬上の人物はほっとしたように近づき、少し手前で馬を止めて降りた。
「……ミレトス僭主ヒスティアイオスの遣いで、アリスタゴラスと言う。メガバゾス殿か?」
 わざわざその名を改めて添えたのは、思ったよりも若すぎたからだろう。漸く生え揃いつつある髭もまだ威厳を醸し出すには至ってはいない。
「そうだ。ミレトスのヒスティアイオス? ここに来ているのか?」
 不審げに眉を寄せたメガバゾスの面には、警戒感がありありと出ていた。あからさまな警戒感にアリスタゴラスも軽く眉根を寄せる。しかしここで諍いを起こしてはヒスティアイオスの顔を潰すだけにしかならない。
「ダレイオス陛下のヨーロッパ担当司令官メガバゾス閣下を歓迎する宴を開きたいのでお越し頂きたい」
 少し愁眉を開いたメガバゾスは首肯した。ヒスティアイオスはダレイオスの歓心を買いたいのだと思い当たったからである。
「兵達も歴戦で疲弊している。それはありがたい」
 磊落な青年を装って司令官は豪快に笑った。その目には観察するような鋭い光を宿しながら。

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