第一章イオニアの華

五、嵐の前兆




 宴の支度は既に万端整っていた。ペルシアでは一日一度、夜に食事をする。それもだらだらと。メインも多いがデザートはその三倍はある。そして勿論酒は生で飲むのだ。ヘラス(ギリシア)では通常混酒器(クラテル)と呼ばれるもので水と酒を混ぜる。客人を酔いつぶらせない程度に楽しませるのは、招待者のつとめであり、義務とも言えた。生のまま酒を飲むのはヘラスでは野蛮とされた。しかしここではペルシアをあくまでも立てねばならぬ。酒が一通り回って、半ば酔いつぶれたものもいる。ヨーロッパ遠征を戦ってきた兵士らは、ダレイオスの軍から選り抜かれた言わば精鋭であった。しかしその彼らも、戦いにつぐ戦いで疲れ切っている。ましてや久しぶりの宴会なのだ。気が緩んでも仕方の無いことであった。
「女が居ないようだが」
 建設は順調とはいえ、まだ作られている最中の街である。女性は殆どが建設に携わる者達の妻であり娘であり母であった。本来ならどこの街でも居る、竪琴(キタラ)弾きの女や笛(リュート)を吹く女、それからそのものずばり遊女(ヘタイラ)がまだこの街には殆ど居なかったのである。よって現在ペルシア兵の酌をして回っているのは、少年ばかりであった。ヘラスでは少年愛が些かならず盛んであるが、しかし公共の場で公然と肉欲を伴う関係を持つことは禁忌とされている。ペルシアでそういう関係についてはあまり論じられることはなかったようだが、少年美を愛する習慣はない。酌をする者が見目良いものであっても、男では気が削がれていく。
「メガバゾス殿の到着を知っていれば近隣から呼び寄せたのだが」
 言外に言い訳じみたものが漂う。その言葉の全てが嘘ではないにせよ、全てが本当であるという訳ではあるまい。他の者がいる前で女を愛撫する趣味のないメガバゾスは、それはそれで構わなかったのだが。ヒスティアイオスの言葉の裏に剣呑なものが含まれているように感じられていた。権力を多少なりとも持つものがいれば、その要求に応えるべく努力する。と言えば聞こえは悪くない。しかしそれはその相手を増長させる危険も孕んでいるものである。それは何の為か。この街はミレトスよりも大分ヘラスに近い。ダレイオス王の目の届かぬところで、より大きな街を建設し、より巨大な力を蓄えようということではないのか。それは一見してダレイオスの勢力が拡大したように見える。しかしそれが分離するのであれば、ダレイオスの勢力にはまるで影響がない。なかんずく、ミレトス諸共に離反するのであれば、大幅な勢力減となりかねない。そこまで考えて、メガバゾスはぶるっ。と身を震わせた。
「考えすぎだ」
 あまり思考が先走ってしまうのは良くない。そう思って酒をあおる。いつもより少々ペースの早いメガバゾスの酒量を不審に思うものは居なかった。漸くペルシアの国土に近くなって、リラックスしているのだろうと思ったに違いない。ダレイオスは役目を果たしたメガバゾスに少なからぬ恩賞を与えるだろうし、それに貢献した兵士らにもお目こぼしがあるだろう。そう思えばペースが早くなるのは当然と言えた。もし、メガバゾスの内心の懸念をヒスティアイオス或いはアリスタゴラスが承知していたなら、その後の歴史は大きく変わることになったかも知れない。

 ヨーロッパ担当司令官メガバゾスはサルディスのダレイオスの許へと到着した。即日謁見が許されたのは、その使命の大きさゆえだろう。玉顔麗しく機嫌も麗しいダレイオスは、満足気に若き司令官を見下ろした。
「大儀であった」
「はっ」
 既に報告は上がっていた。御前に参上したのは九割がた形式である。
「今後もますます励んでくれよ」
 ほくほく顔になるのは当然だろう。王自身は失敗した遠征ではあるが、王の部下が功績を収めれば、それはとりもなおさず王ダレイオスの功績としてカウントされる。メガバゾスには目を掛けていたし、その期待を「石榴」の一件で表明してもいたから、彼は鼻高々であった。現に「王は流石先見の明がある」と囁く声が耳に届いている。それが世辞或いは阿諛追従であったとしても。
 一通り報告が終了して、メガバゾスは少し眉根を寄せた。ヒスティアイオスについての彼の懸念を王に報告すべきかどうか、ということである。もし間違っていればヒスティアイオスの恨みを買うことは必至であるし、間違って居なければ将来ヒスティアイオスが禍根となるのをみすみす見逃したことになる。その逡巡に気づいたダレイオスは不審を憶えた。
「どうした?」
 暫くの躊躇いの後、メガバゾスはその懸念を告げた。判断するのは王だ。と割り切ったからである。黙っていて罪になるよりは寧ろその方が良いと判断した背景には、かつてのクーデターの原因となった事件がある。王弟バルディヤ(スメルディス)の簒奪。その事件のお陰で、今のペルシア王ダレイオスが存在する。同じように他の者が王として台頭することを、この王が喜ぶだろうか? ……メガバゾスの頭の中で弾き出された答えは、否。であった。
「ヒスティアイオスがミュルキノスに街を築いておりますな」
 ああ、と思い当たったようにダレイオスは肯いた。
「ヒスティアイオスが街を作りたい。と言い出してな。許可を与えた。それが?」
「ヘラスの者は一筋縄では参りませぬ。表では慎み深く従順な乙女のように見えても、その腹の底では何を考えているか判らぬ者でございますぞ。近隣は資源も多く、指導者を得ればあっという間にあのあたり一帯の主権を握って独立してしまうに違いありませぬ。領内での戦乱を王がお望みとは思えませぬが。一刻も早く彼を街の建設から手を引かせるようになさいませ」
「しかしヒスティアイオスは此度のスキュティア遠征の折も…」
「王はお優しゅうございますから、ヘラス人はそれにつけ込んでいるのです。あのように面従腹背な者を遠隔地に置いては、藁束に油を落として火矢を打ち込むようなものではございませぬか。王の御為に申し上げます。即刻ヒスティアイオスを呼び寄せて、ここに留めおき、戻さぬようになさいませ」
 いつになく激しい論調のメガバゾスの言葉に、少々ダレイオスも危機感を憶えはじめていた。ヒスティアイオスの能力を考えれば、それくらいのことは簡単に出来るだろう。性格や行動パターンの問題よりも、この場合能力の有無の方が問題である。ましてや彼はペルシア人ではない。自由を尊ぶヘラスの人間なのである。ダレイオスの胸中にふと疑念が萌した。スキュティア遠征の折、ヒスティアイオスは陸地から弓矢が届かぬ位置まで艦船を遠ざけた。それはダレイオスの生死をヒスティアイオスが握っていたということである。現在、ペルシア帝国の後ろ楯がなければ、ヒスティアイオスは僭主として君臨することは出来まい。しかしミュルキノスはどうか? 一から彼が作り始めた街なら。
「ふむ。……将来を良く見通した意見である」
 ダレイオスは若き司令官に労いの言葉を与え、隣に控えた者に使者の手配をするように命じた。

 ヒスティアイオスのもとに、ペルシア王ダレイオスから使者が到着したのは、メガバゾスが建設中のミュルキノスの街を去って、半月も経たぬ頃であった。「王ダレイオスよりヒスティアイオスに告ぐ。そなた程誠心を尽くす余人を知らず。我が大事を諮るにそなたを置いてなく、我が許に来られんことを願うものなり」
 使者の言葉を疑うものなどその場には居なかった。アリスタゴラスがもしそこに居合わせたなら、「随分信用されたもんだな」と肩を竦めて見せたかも知れない。ヒスティアイオスは事実上の王の相談役ともいうべき立場に舞い上がっていた。それは僭主どころではない、破格の出世といえた。ヘラス人の中でペルシア総督(サトラペス)の地位を獲得したものはまだ誰もおらぬ。ヒスティアイオスこそが初のヘラス人ペルシア総督となれるかも知れぬ。見果てぬ夢に笑いが止まらぬ彼は、そこに深く掘られた落とし穴に気づく余裕など微塵も無かった。

 それからペルシア王がまず最初にしたことは、サルディスの総督を任命することであった。
「…アルタフェルネスか」
 ダレイオスの異母弟に当たる人物である。ミレトス僭主ヒスティアイオスの女婿にして従兄弟のアリスタゴラスとも交流があり、イオニア諸都市ではそれなりに知られた人物である。自分の代理としては適当だろう。そう考えながらダレイオスは、顎髭をゆっくりと撫でた。

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