第一章イオニアの華

五、嵐の前兆




 ミレトスともミュルキノスとも違った空気が、彼を迎えた。トモロス山に源を発するパクトロス河のほとりに、ここサルディスがある。パクトロス河はサルディスのすぐ傍でヘルモス河に合流し、ゆったりと西へ流れていく。その先はヘラス(ギリシア)へと向う海へ繋がっているのだ。かつてリュディアの王都があった場所であり、現在は幾つかあるペルシア王の拠点のひとつである。それらの拠点の中でも最もヨーロッパ寄りにあって、ダレイオスが作らせた「王の道」の出発点でもあった。
 リュディア王クロイソスがペルシア王キュロス(クル)によって敗北し、国が併呑されてから既に一世代の以上の時が流れている。かつて王都だったそこは、現在は王都ではなくなってはいても、交通の要衝の一つであり、その繁栄はかつてのリュディアとはまた違うものになっている。武張ったものよりも寧ろ繊細で優美で、洗練されたものを好むようになった現代は、クロイソスが民を殺されることを恐れ、キュロスに進言したことによって決定された未来であった。キュロスはクロイソスの進言によって民の武器を奪い、高い靴を履かせ、裾の長い服を着せて楽器を持たせた。女子供のようだ、とキュロスに思われたとしても、それによって命を奪われる危険性は少なくなるだろう。亡国の王クロイソスは、彼なりに民の未来を守ったといえる。戦いには敗北したが、それでも民は生き残ることが出来た。全滅させられた国も多い中で、これは稀有の功績と言えるだろう。
 ヒスティアイオスが生まれたのは、恐らくリュディア陥落の前後であった筈である。既に王国の記憶は遠い。リュディアに住んでいたことはないが、それでも、幼い日に、かつてを知る旅人の幾人かにせがんで聞いたリュディアの王都は、繁栄を極めた都であった。現在のサルディスはペルシアによる戦禍の傷跡からは少なくとも表面上、回復しているように見える。先導する案内人に続き、王宮の門をくぐる。広壮な宮殿の現在の主は、当然ながらペルシア王ダレイオスである。その王の命令で王宮を訪れたヒスティアイオスは、イオニア地方の僭主の一人というよりは、王の賓客としての扱いを受けていた。
「おお! ヒスティアイオス!」
 ダレイオス王はミレトス僭主ヒスティアイオスを迎えて、殊の外機嫌が良かった。メディアの流れを受けるペルシアの王宮では、装束はメディア風のものが多い。裾を引き摺るような衣は武芸には適さないが、優美ではあった。顔の下半分を覆う豊かな髭は、見事に手入れされていて、一分の隙もない。
「お召しと伺い御前に伺候致しました」
 そっと拝跪し、深く頭を垂れる。用件は目下の者から尋ねるべきではない。僭主という危うい立場もペルシア王の後ろ楯があってのこと。自分の権力を守ってくれる虎がペルシア王なら、狐はその威を借りてこそ力を発揮出来るのだ。恭しい態度そのものには、嘘はない。ただ、誠実さよりも計算高さが含まれているのは当然だろう。
「良く来てくれた、ヒスティアイオスよ。実はな。頼みがあってそなたを呼んだのだ」
 用心深く、少し頭を上げる。だが、階の上に据えつけられた玉座に座るダレイオスの顔までは見えぬ。漸く足元が見えるばかりだ。
「何なりと」
 そう答えて、再び瞼を閉じる。ペルシア王自身が叶えられぬ願いなど、あるはずがない。地上の権力の全てをその手に握った男である。ならば、ヒスティアイオスに望む何かがあるということだ。
「相談役が近く引退することになっている。次の相談役をと諮ったところ、才智と誠実とを兼ね備えた相談役にはそなたが一番であると推したものがおる。そなたはかつてあのスキュティア遠征でも有益な助言をしてくれたが、あらゆる財宝のうちでも最も貴重なものは才智と誠実を兼ね備えた友人であると余は常々思うのだ。どうであろう。ミレトスやそなたが新たに作った町のことは忘れ、余とともにスーサへ行き、相談役となってはくれまいか。スーサでは余の財産の一切をそなたに委ねようではないか」
 ダレイオスは、まるで世間話のついでのようにさらり。とつけ加えた。ヒスティアイオスはごくり。と唾を飲み込む。王の財産、それはつまり国家予算である。その管理を任された、その事実に驚愕しつつも、ミレトスやミュルキノスの町を放棄してしまうのは勿体無いが。と頭の中で素早く計算する。だが、王の相談役という役目は、単なる名誉職だけのものではなさそうである。王の傍近くに仕えて、というのなら参謀とも言える。あわよくば出世コースへの足がかりになるかも知れない。
「非力不才のこの身ではございますが、王のご命令とあらば」
 頭の中の算盤は結論を弾き出した。
「そうか、なってくれるか!」
 微力を尽くさせて頂きます、と答えながら、次の瞬間には僭主代行の候補を思い定めている。ヒスティアイオスはペルシア王の命令に従うことを決めた。自らの命運を賭けて。

 ヒスティアイオスからの書簡を見つめている男は、寝椅子に腰をかけていた。工事は彼の指揮のもとで続行されている。従兄弟にして、女婿そして片腕であるアリスタゴラスである。書簡を置いて、彼は重い溜息をついた。得意満面の舅の顔が目に浮かぶようである。
「えらく舞い上がってんなー。大丈夫かよ、舅どの」
 そう呟いてもその声がヒスティアイオスに届くわけもない。既に書簡の主ヒスティアイオスは、ペルシア王ダレイオスとともにサルディスを発って、スーサへ向かっている筈である。その行程は二ヶ月程度はかかっても可笑しくない。自らの拠点としていたミレトスを遠く離れて、ペルシアの中枢であり、虎の巣穴の真っ只中ともいうべきその場所に行くことは、ヘラス人であるヒスティアイオスにとって危うい。計算高い彼のことだから、デメリットを計算していったろうが、目の前に好餌を突きつけられれば、どんな慎重な草食動物とて判断が狂うことはあるだろう。舅の行動に危うさを感じたのは、アリスタゴラスの思い過ごしだろうか。
「ミュルキノスをほったらかして、ミレトスまで捨てて、ついていく価値があるのかねぇ」
 ダレイオス王の傍近くに仕えること、それはペルシア人に包囲され、監視の目に晒されているようなものではないのか。相談すべき適当な相手も伴わぬままに単身ペルシアへ赴いたヒスティアイオスは、孤独である。勿論王の命令で王の賓客そして相談役にして友人という立場であれば、不自由のない暮らしを約束されているだろう。だが。
 舅の不在の間、ミレトス僭主代行をつとめることになったアリスタゴラスは、面倒臭そうに肩を揺すった。従兄弟と同様、彼もまたメリットのない行動を出来る男ではない。ある程度の計算が出来なければヒスティアイオスも自身の代行には推さない。しかし今回は些か考えることに倦んでしまっていた。
「ま、暫く様子見だな」
 アリスタゴラスは大きな欠伸を一つして、寝椅子に寝そべった。今日の仕事は終了…と呟いて目を閉じる。まもなく、健やかな寝息が響きはじめた。
 小さな火種が、アイゲウスの海(エーゲ海)の片隅からそっと熾ろうとしていた。

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