第一章イオニアの華

三、民主制と僭主政



 僭主(ティランノス)という存在は、あまり日本では馴染みがない。あえて概念を説明するなら、独裁者という言葉がより近いかも知れぬ。貴族と平民の抗争を利用して非合法手段を用いて政権を占有する者をさす。というと聞こえは悪くないが、よりシビアな言い方をすれば、漁夫の利もしくは火事場泥棒というところである。貴族政から民主政への過渡期に出現することが多い。英語でいえば「tyrant」。暴君という程度の意味合いである。日本語訳の僭主という言葉は「主を僭称するもの」というところだろうか。
 ヘラス(ギリシア)は民主政治の誕生の地である。まだ生まれたばかりの赤子は、ヘラスという小さな揺籃(ゆりかご)に揺られていた。力を入れて抱けば、それこそ「赤子の首をひねる」如くに民主制は死に絶えるだろう。まだ目も開かず歩くことも出来ぬ小さな子供のような存在である。その赤子に歩行や言語の発達を促したもの、それが僭主政というものだったかも知れぬ。それ自体の良し悪しは別にして。
 紀元前六世紀のヘラスには、僭主という存在が数多く出現していた。勿論本土だけでなく、植民した都市にも同じ現象は発生していたのである。イオニア系移民が多く存在していたイオニア地方(現在のトルコ)にもまた数多くいた。アテナイはアッティカ系イオニア人に分類されるだろう。蛇足ながらラケダイモン(スパルタ)やアルゴス、コリントス、クレタ島やロドス島などはドーリス人の系統である。そのアテナイにさえも僭主という存在があった時期がある。民主主義の聖地のような土地であるが、その場所にさえその存在があったということは、それが必要であったからかも知れぬ。

 もともと、ヘラスは神話時代の神やその血を引くとされる英雄に遡る血統を根拠としてポリスの指導者(王)を立ててきた。その王政がやがて形骸化していき。ラケダイモンでは二王と二十八人から成る長老会(ゲルーシア)を最高会議として王の権利を制限し、また五人の監督官(エフォロス)によって王の行動を監視させるなどして絶対王政とはタイプの違う王政を敷いていた。故にラケダイモンでは僭主という存在が誕生し得なかった。また早くから王政の廃止へと向かっていたアテナイでは九人のアルコン(執政官)のうちの一人にその役目を持たせることによって、王という地位そのものが抹消されていった。しかし、その王政から貴族政への移行期に、それぞれの地域で葛藤があったのは事実であろう。それまで持っていた権力をやすやすと手放すとは考えにくい。紀元前七世紀から六世紀のヘラスは、そういった民主制と僭主政が混在する過渡期であった。

 殺気立った風が、追いかけてくるようだった。パラス・アテナ(処女神アテナ)の神殿に走りこんで一息つく。味方の者たちもまた、彼を追いかけて神域に飛び込んで来た。神域に入りさえすれば。そしてその祭壇に縋りさえすれば。神の加護を求めに来た嘆願者として許される。その思いが安堵の溜息を深いものにしていた。何故こうなったかを考えてもそれは今更栓のない事である。キュロンはふと、メガラの方を見遣って毒づいた。
「舅殿に乗せられて、えらい目を見た」
 その言葉には隠しようのない苛立ちが込められている。メガラの僭主テアゲネスはキュロンの妻の父親にあたる。キュロンはオリュンピア競技会優勝経験者(オリュンピオニクス)である。それで目を掛けられて、テアゲネスの婿となった。妻の美醜はともかくとして、テアゲネスという後ろ楯は、アテナイ屈指の有力貴族であるキュロンにとってさえ、十分以上に魅力的だった。そのテアゲネスが娘婿であるキュロンに囁きかけたのは、アテナイというヘラスでも有数の有力国家の支配である。一日、キュロンはアテナイのアクロポリスを占拠することを目論んだが、その企ては失敗に終わり、クーデターは未遂となった。ぐずぐずしていれば、そのまま国家反逆罪あたりの罪状を着せられて処刑されるだろう。そう思ったキュロンならびにその一党は、事敗れると知ると一目散にここに逃げ込んだのであった。
「女神の祭壇に縋りついて聖域避難権を求めれば、命は助かるだろう」
 そう言ったキュロンの声は、決して暗くはない。命さえ助かれば、次のチャンスを狙うことも出来る筈である。そう誰もが思った。
「キュロン、見付けたぞ」
 眼光鋭い壮年の男が神殿入口の扉を開いた。その背後から差し込む光が邪魔をして、人相は良く識別出来ぬ。しかしその炯々とした眼光の持ち主を、見誤る者などこの場にはいなかった。
「…地方行政区長官(ナウクラロス)…」
 掠れた声が、キュロンの薄い唇から漏れた。
「ここは包囲した。…来て貰うぞ。命だけは助けると保証しよう」
 その言葉は真実だろうか。いや、それは嘘だろうという直感がしていた。頭の奥で危険を知らせる鐘が鳴り響いている。祭壇から彼等を引き離し、処刑させるつもりではないか。キュロンにはそう見てとれた。
「いやだ…」
 涜神罪(アセベイア)で訴えられるぞ。そう叫びたかった。しかし咽喉は渇ききってひりひりとし、言葉を紡ごうとしても翼が生えてこないのである。キュロンの掠れた声を聴くことが出来なかったのか、味方は安堵の溜息を漏らした。助かった、という声がここかしこから零れる。キュロンを除いた全ての者が神殿の外へ出ていった。一人残された男は、アテナ女神像をふと振り返って見つめて、ごくりと唾を飲みこんで、神殿の外へと歩き始めた。それが死出の旅路になるだろうと覚悟して。
 キュロン一党の者はその翌日、処刑された。助命を約束しておきながらそれを違えた地方行政区長官に咎はあった筈である。しかし、責任を問われることになったのは、時の筆頭執政官(アルコン・エポニュモス)であるメガクレスであり、その血筋であるアテナイでも有数の名門アルクメオン一族は「穢れ人」と呼ばれることになった。涜神は本来、祭祀担当執政官(アルコン・バシレウス)の管轄である。何故アルクメオン家が穢れ人の汚名を蒙らなければならなかったのか、その理由は判然としない。助命を約束したのは地方行政区長官であるし、処刑したのも別の人間であるようだ。しかしその汚名を受けてなお、優れた政治家を何人も輩出したアルクメオン一族はやはり名家であったに違いない。とすれば、責任を押し付けられた真の理由は、もしかしたら単なる「やっかみ」であったのかも知れない。

 アテナイの王政が廃止されたのは、紀元前六八三年のことである。それ以降アテナイは幾人かの政治家による改革を重ねて民主制の制度を確立させていくのである。キュロンによるクーデター未遂事件は紀元前六三〇年であった。その頃少年(六三九年頃誕生?)であったと思われるヘラス七賢人の一人、ソロンによる改革が開始されたのは、三十数年後の五九四年である。前七世紀は植民市建設が盛んであった。アテナイはそれには乗り出さなかったが、ヘラス世界の経済的生活の変革の波はアテナイにも及んでいた。オリーブの輸出が始まり、製陶術も発展していった。そうした中で貴族だけでなく平民においても、更に富める者と、没落していく者とに別れていった。ソロンが改革を断行したこの頃。既に市民の間でもかなりの経済的格差が生じていた。六分の一(ヘクテモロイ)或いはペラタイ(隣人という意味)などと呼ばれる隷属農民の存在が社会問題となっていたのである。負債の為に従属的身分に落ちたり、奴隷として売却される者が存在した。土地再分配(アナダスモス)を求める農民と、既得の権利を守ろうとする貴族とが激しく対立する状況下で、ソロンはまず財産評価によって全市民(この場合、在留外人及び奴隷などを省いた正式な市民という意味)を四つの階級に別けた。それまでは、執政官(アルコン)は家柄の良さと富によって選出されていた。血筋や家柄には関わりなく、財産による評価を市民の階級として別けるという発想は、当時としては画期的であっただろう。一に五百メディムノス級。二に騎士級。三に農民級。そして四として労務者級である。このうち、四級の労務者は民会と法廷のみ参与を許されただけであった。上級二階級の人々が、執政官(アルコン)となり得る資格を持った。それぞれの階級の分割の基準は、幾つか説がある。一つは液体にしても固体にしても、ある一定量の農産物の収益があるということであった。両者を混ぜてその一定量に達すれば良いということではあるが、厳密にその収益があったかどうかを確認出来たかは疑問の余地がある。もう一つは、土地所有を基準とするものであるが、この方がより判断は下しやすそうに思える。次にソロンが行ったのは、四つの部族(フュレ/アテナイの人々は四つの部族のどれかに属していた)から予選した人々の中から役人を抽籤することであった。そして三つめ。これがソロンの改革の中で最も重きをなすもの、「重荷おろし(セイサクテイア)」である。身体を抵当に取って金を貸すことを禁止し、公私の負債の切り捨てを行った。
 三つの政策を実行に移すと、ソロンは十年程アテナイを離れると言って旅行に出たという。目的の地として上げたのはエジプトであったが、この外遊の時期にリュディアのクロイソス王の許へ行き、世界で最も幸福な人間について語りあったという伝説があるが。これはクロイソス王の年齢を考慮すると些か無理があると思われる。ソロンが何故外遊したかについては意見の別れるところであろうが、恐らくは「面倒」というのが本音ではないだろうか。僭主の側になろうと思えば出来たろうし権力の掌握は彼には困難なことではなかっただろうけれど、「重荷おろし」の結果多大な損を受けた者からは敵意を持たれていたろうし、自由の身になれた者からは感謝の眼差しを受けて更なる改革を期待されていたことは想像に難くない。そういった煩わしさから解放されたいと願ったとしても不思議ではないだろう。実際、彼は旅立った。アテナイに、全ての憂いと全ての希望を置いて。

 アテナイの僭主として、有名なペイシストラトスが居る。改革を行ったヘラス(ギリシア)七賢人ソロン(紀元前六三九年頃〜紀元前五五九年頃)の友人であったという。没年は紀元前五二七年と判明しているが、生年ははっきりしていない。そのペイシストラトスが台頭してきたのは、紀元前五六一年、リュディアでクロイソスが王位に就く一年程前のことである。ソロンの改革はそれなりの成果を上げたが、抜本的な解決になった訳ではない。暫くして、その問題は浮彫りになってきた。
 アテナイには、長きに亘って地縁的抗争があった。それが徐々に顕在化してきたのが、紀元前六世紀初頭である。富裕層が住んでいた平地、中庸農民が多かった海岸、そして貧農や牧人の多かった山地。その三つに大きく分かれる。ペイシストラトスは、貧窮農民の多かった「山地の人々(ヒュペラクリオイ)」の頭目として歴史に登場した。隣国メガラとの戦いで功績をあげたあと、彼は一計を案じた。自らの体を傷つけ、それを反対派によるものとして民衆へ訴えかけて、「棍棒持ち」と呼ばれる護衛を置くことに成功。その兵力を以ってクーデターを起こした。そのペイシストラトスに対抗したのは、残りの二党、「海岸の人々(パラリオイ)」の頭目にしてアルクメオン家頭領たるメガクレス(先のキュロンのクーデター時のアルコン・エポニュモスであったメガクレスの直系の孫)と「平野の人々(ペディエイス)」の頭目リュクルゴスであった。彼等は協力してペイシストラトスを逐い出したが、党派の派閥争いに嫌気が差したメガクレスによって、ペイシストラトスは迎え入れられた。メガクレスの娘との結婚を条件として。この政略結婚は程なく破綻する。「穢れ人」の血を受けた子を望まなかったペイシストラトスは、メガクレスの娘である妻と、自然な形で同衾しようとしなかったからである。当初妻はそれを秘していたが、実家に戻った折それを母親に話し、やがてそれはメガクレスの耳に入った。当然ながらこの知らせは、アルクメオン一族を蔑ろにするものとして、家長を激怒させた。メガクレスは「平野の人々」と手を結ぶ。それを察したペイシストラトスは鮮やかに高飛びをした。再びアテナイに帰り咲く為に。
 二度目に帰り咲いてからのペイシストラトスの政治の柱は二つ。一つは勧農政策であり、それによって農民の生活は安定した。もう一つは国家的祭典の挙行である。パンアテナイア祭の祭儀を高め、ディオニュシア祭を国の祭儀として導入した。その目的は、市民が政争に明け暮れぬようにする為であり、ある意味保身の為であったかも知れない。だが、彼は僭主という存在ではあっても、比較的良心的な僭主であり、その政策は確かにアテナイの発展に大きな貢献を果たしたのである。

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