第一章イオニアの華

二、騾馬の王



十七


 サルディスへ集結したアンシャンとその同盟軍は、完全ではないが包囲を行った。冬が間近に迫っている現在、長期にわたる包囲戦は攻める側にとっても攻められる側にとっても得策ではない。アンシャン王は虚け者らしいな。と囁く声がリュディアの首都の各所で聞こえた。わざと聞こえるように、声を上げていることは想像がつく。戦いは退き時を見誤ってはならぬ。消耗戦になって戦いが長期化すれば、アンシャンの受ける打撃は小さくはない。サルディスは大陸内部で冬は冷え込む。沙漠に慣れ荒野に生きることを余儀なくされているアンシャンの民といえど、降雪そして寒さに打ち勝つことが出来るかどうか。それは、この上ない無理難題であるように見えた。

 その夜、アンシャンの斥候が一人、何気なく月を眺めていた。満月にはまだ間があるが、それなりには明るい。サルディスの警備兵も見えた。何やら警備兵同士でふざけているようである。からかうような声が響き、突き飛ばすような音のあとに、重いものが落下するような衝撃音が響いた。斥候は人が転落したのかと改めてそちらを見遣ったが、落ちたのは警備兵の兜であった。まさかこの高さである。取りには来ないだろう。拾って自分のものに出来そうだとそちらへ向かおうとした。その時である。兜を被らぬ警備兵が、するするする。とその険阻な城壁を下りて、兜を被り直したのである。斥候が観察していると、警備兵はあたりを見回して、斥候は身を潜めた。辺りに人がいないことを確認して、警備兵は下りた時と同じように、またそこをするするする。と登りはじめた。斥候は、掌を強く握ってアンシャンの神に深く感謝を捧げた。

 その深夜、アンシャン軍はサルディスの王宮に侵入した。
「他のリュディア人は殺しても良い。だがクロイソスだけはたとえ抵抗しても生かして捉えよ」
 クルはそう厳命を下した。
 その深夜、サルディス王宮にアンシャン兵が侵入した。敵兵が外にいると思い込んで酒盛りをしていたリュディア兵は、兜はおろか鎧も身につける余裕もなく、ただ逃げまどうばかりである。血に酔ったアンシャン兵の手にかかって、呆然としていたリュディア貴族が一人またひとりと殺されて行った。そしてまた一人、リュディア貴族らしき壮年の男が鎧もつけぬままにアンシャン兵の目に晒された。既に何かを放棄したような、疲れた目をしている。アンシャン兵の剣がその心臓を狙ってふり下ろされようとした、そのとき。
「クロイソスを殺すな!」
 まだ若い男の声が聞こえて、王佐アラスパスは剣を下げた。リュディア王はその言葉を聴くと、驚愕のあまり頭を両手で抱えてその場に崩おれた。
「神よ。あなたが下さった言葉が、今判りました…」
 力なく床へと沈み込んだまま、リュディアの王は一人預言の重さに耐えた。クロイソスを殺すなと叫んだ我が子は、生まれてから一度も話したことがなかった。その子の為に得た神託は、我が子の声を聴くことを望むなというものであった。その神託の真の意味を、彼は今漸く悟ったのである。そして、ハリュス河を越えた彼は、大帝国を滅亡させた。自らの治める豊かな大帝国、リュディアを。

 クルの前に連れて来られたクロイソスは、穏やかであった。哲学者と言っても通じそうな、理知的な表情をしている。クルは訊ねた。何故、敵対したのか。と。クロイソスはその言葉に、呟くように答えた。
「デルフォイの神より与えられた預言を、私は読み誤った。そしてもう一つには、日夜アンシャンを倒せと囁き続けた男があったから」
「その男の名は?」
「本名か偽名かは知らぬ。アルテムバレスと」
 その名前に驚愕して唸り声をあげたのはアラスパスである。それはかつてクルが牛飼ミトラダテスの子として育っていた頃。王様ごっこをした時、建築家の役割を与えられた少年だった。役目を果たさぬ建築家に罰を与えたのはクルである。その男が、今…。
「アルテムバレスはどこにいるか判るか?」
「王都を逃げ出していなければ、女と戯れているかと」
「アラスパス!」
「は」
 アラスパスは鋭い視線を部下に向けた。殆どの部下が略奪を働いている中で、一人アラスパスの傍に控えていた者がいた。王佐はそっと目で合図を与えると、無言でクロイソスが示した方へ去った。
 クロイソスの顔がふと動いて、クルを見つめた。
「敗残の身で発言することを許されるなら、大王に一つ申しあげたいことがある」
「構わぬ。話せ」
「あの者たちは、何をしているのか、あなたに伺いたい」
 クロイソスが指差した先には、アンシャン兵が略奪を働いている。
「知れたこと。そなたの財宝を奪っているのだ」
 こともなげにクルが応えると、クロイソスは哀しげに首を振った。
「いやいや、そうではない。この財宝は、今は最早私のものではないのだ。このサルディスを征服したクル殿、あなたのもの。彼等はあなたの財宝を奪っているのだ」
 なるほど。そうクルは肯く。しかし唐突に略奪を止めろというのは容易ではない。そう思って進言者に目を向けると、クロイソスは答えを用意して待っていたようである。
「戦勝を祝って神に奉納するゆえ、それらを一旦あなたが集め、奉納したあとで各自公平に分配すると兵士たちに告げられれば宜しい」
 我が意を得たり。とクルは軽く微笑んで。アラスパスに顎をしゃくった。
「戦勝を祝し神に感謝して奉納するゆえ、財宝は封印してお前が保管せよ」
「はっ」
「それから。クロイソス王は賢者だ。我が許にて助言を貰いたい。客人として遇するので手配せよ」
「は」
 深く頭を垂れて、アラスパスは財宝の保護へと奔走した。こうしてリュディア王国はアンシャンに併呑され、リュディア王クロイソスはクルの客人として厚遇を受けることになった。冬を待たずに、アンシャンはリュディアを滅亡させたのである。世界で初めて鋳造貨幣を造ったとされる賢者クロイソス王は、その野心の為に我が身を滅ぼした。それは、クロイソスの先祖にあたるギュゲスが主君を弑し王となったことへの、報復であった。血には血を。地位には地位を。そして全ての預言は成就した。メディアとアンシャンの血を享けた、『騾馬の王』クルによって。紀元前五四六年、イオニア地方を治める大帝国はアンシャンの版図の一部となった。

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