第一章イオニアの華

二、騾馬の王

十六

 ハリュス河は、かつてメディアという国が存在していた頃、リュディアとメディアとの国境であった。だが、アンシャンによってメディアが滅亡した今、それはアンシャンとリュディアとの国境を意味しない。その河をクロイソスが渡ったのは、数日程前のことである。
「私は河を渡った。アンシャンは、神の御意によって滅ぶであろう」
 預言者じみたその物言いを、咎め立てるものはおらぬ。絶対の自信に満ちた君主にたてつける者は、多くはない。そしてまた、その自信を覆す根拠を挙げることが出来る者は、更に。勇猛なリュディアの民人は、聡明を以って知られるクロイソス王に粛々と従うのみである。豊かな未来を夢見る目は、リュディア王の後ろに黄金で縁取られた夢を見ていた。クロイソスを信じる者には、その背に黄金の翼が見えていたのかも知れぬ。

 不吉な程に澄んだ空の下でリュディアとアンシャンの戦いが繰り広げられた。その力と力は、恐らく互角であったといえよう。激しい戦闘は朝から続いている。凄惨な戦場に転がる戦死者は、最早少ないとは到底言えぬ。勝敗の行方は不明なままに、徒に死者と負傷者が量産されていく。力尽き倒れる兵士の弓は折れ槍は砕けて、血に塗れていない者を見付け出すのは至難の業である。血生臭い匂いがあたりにたちこめて、気の弱い者は卒倒していてもおかしくない、戦場であったといえた。全体の指揮を行う王とて例外とは言えぬ。先陣を切って立つことは暴勇を貴ぶ行為と言えるが、絹の帳の中で多くの兵卒に守られている王を尊敬出来る兵士は、少ないだろう。そういう意味に於いていえば、どちらの王も勇気のある君主と言えた。日が落ちるまで戦いは勝敗を決することがかなわず、物別れに終わった。クロイソスは自軍の思わぬ苦戦を見て、一旦兵を退くことを全軍に命じた。既に秋も終わりかけている。戦いが長引かずとも、そろそろ冬に突入しそうである。自軍が兵を退けば、寒さに弱い筈の南方出身であるアンシャンもまた兵を退くに違いない。決戦は来年の春とリュディア王は見た。ならばこの新興勢力を封じる同盟を更に強固にし、その戦いに備えねばなるまい。クロイソスは急ぎサルディスに戻ると、同盟諸国に遣いを出すため、手筈を調えた。

 朱と紅を混ぜたような夕暮れの中で、クルは荷物を載せた輜重部隊の駱駝を見ていた。その色は、普段のやわらかな茶色ではない。橙色に近い明るい色は、沈みゆく夕陽の色に溶け込むようだった。薄茶の沙漠の海の中で、駱駝は力のある色を唯一持っている生物であった。クルはふと遠くを見る眼で駱駝を見遣り、じっと考えこんだ。クロイソス王がサルディスに戻って一旦軍を解散するという情報が飛び込んできたのは未明のことである。俯いていた顔を上げて、クルは前を見つめた。行くべき先が、決まったのである。

 リュディア王クロイソスは自信を持っていた自軍が、クル率いるアンシャン軍より劣勢であったことに気付いていた。戦い自体は互角に進めたけれども、勝利する為には自軍を増強せねばならぬ。もう冬が迫っていることでもあるし、春になるのを待って集結するよう同盟諸国に使者を送ろうと算段していた。その同盟諸国には、エジプトやカルデア(新バビロニア)などの名が連なっている。更にラケダイモン(スパルタ)へも使者を送りだしたのは、かつて受けた預言が気に掛かっていたせいであろう。クロイソスはサルディスに戻って、招集していた軍を一旦解散し、来春に備えておくようにと伝令を発たせる。傭兵部隊もまた同様に解散を申し渡された。運命の岐路に今まさに彼は立っていたのである。

 拙速を貴ぶよりも足並みを揃えることを、普段クルは全軍に命じていた。しかし今回に於いてはその限りではない。一刻も早くサルディスに到着せよ。と厳命を下したあとは、昼夜をとわず馬を走らせる。少なくない脱落者が出ることは予想された。しかしそれでも拙速を貴ぶ理由が彼にはあった。人が永遠に勝利することが叶わぬ将軍が間近に迫っていたからである。その将軍の名を「冬」と言った。アンシャンは、年間を通じて乾燥し、然程寒くはならない。しかしリュディアの首都であるサルディスは、やや内陸に位置し、相当の降水・降雪量があってかなり冷えこむ。アンシャン軍の兵卒が耐えられるうちに、落としておかねばならない。
「アラスパスよ。『将軍』が到着する前に片づけるとしよう」
「はっ!」
 傍に控える王佐ににやりと笑いかけ、アンシャン王は馬に鞭を当てた。そしてプテリアでの戦いが勝負を決することなく終ってから僅か数日で、戦場はサルディスの手前にあるヘルムスの平原へと移ったのである。

 その日、リュディアの人々は生まれて初めて見る奇妙な動物に戸惑っていた。形状は馬にも似ている。四つ足だ。しかし、足の長さは似ていても、顔や体つきがだいぶ異なる。馬よりも顔が短いし、たてがみらしきものがない。背中に一つ乃至二つの、大きな突起のようなものがある。頑強そうに見えるが、このあたりでは見かけない動物であった。良く見れば、長い睫毛が目を縁取っていて、耳にもみっしりと毛が生えている。困ったことには、リュディアの馬が、見慣れぬその動物の匂いや姿形、鳴き声に怯えているようであった。騎馬兵たちは、顔を見合わせた。
 戦闘開始の合図が響き、鬨の声が上がった。しかしリュディアの意気は一向にあがらない。あまつさえ、馬が突進してくる奇妙な動物に恐れをなして逃げ惑っているばかりであった。各所で悲鳴と怒号が響きわたる。双方ともにかなりの犠牲者が出ていたが、特にリュディアの馬は殆どが恐慌状態に陥っていて、暫く使いものになりそうにない。日没とともに、リュディア軍はサルディスへと引き上げた。それは殆ど敗走と言って良い程の内容であった。

 難攻不落を謳われたサルディスは、リュディアの首都であった。
 にらみ合いが続くのは、予想の内である。しかし時間が長引くのは避けねばならぬ。高い城壁の傍に貼りつくように、アンシャン軍は展開しリュディアを包囲した。
 リュディア王クロイソスが解散させてしまった軍は既に遠い。リュディアは、自軍の兵力だけでアンシャンに立ち向かわねばならぬ。クロイソス王は急ぎ即刻救援を願う伝令を新たに送りださねばならなかった。
 ぐるっと囲えば、それだけ包囲の厚みは薄くなる。要所だけを囲む方が効率は良い。しかしそうなると、漏れも出てくるだろう。事実、闇を頼んでサルディスから抜け出した者も多かった。それらの者を一旦逃げ出させておき、その者が安堵した頃を見計らって離れた場所で捕縛する。一人一人をそれぞれ尋問にかけ、情報を引き出す。そのうちの数名はクロイソス王から同盟諸国の王へと新たに出された伝令であった。あまり重要な情報を持たぬと思しき一人を血祭りにあげ、それを示すと。伝令どもは競って自白するようになった。勿論ガセネタもあり、本人が重要と信じ込んでいるだけの情報もあったが。それらを全て聴いて内容を分けていけば、自ずと見えてくることがある。その膨大な情報の海に、不思議な逸話が一つ漂っていた。
 リュディアを守護する神の聖獣を連れてサルディスの周りを歩くと、首都は難攻不落となるという言い伝えがあった。早速リュディア王はそれを部下に命じて聖獣を歩かせたという。その折、一箇所だけ。近寄りにくい断崖絶壁があった。そこはもとより人が攻め入れる場所ではないだろうと思ったゆえに、命じられた者は聖獣を連れていかなかったという。その場所は、今まで脱出してきた者の話を聞いて作成した地図によれば、リュディア王クロイソスの私室から然程遠くはないようであった。

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