第一章イオニアの華

六、ナクソスから来た客




 ヒスティアイオスがペルシア王ダレイオスに伴われてスーサへと去ってから、数年が経過していた。僭主代行のアリスタゴラスは、かつて彼の従兄弟がそうだったように、ミレトスを無難に治めていた。とは言ってもヘラス(ギリシア)の人々は、元々独裁制を好む種族ではない。薄氷の上に、鋭いエッジの付いた靴を履いて、爪先で立っているようなものであった。
 穏やかな日が暫く続いている。時の経過とともに、ヒスティアイオスの記憶も少しずつ薄れていく。勿論アリスタゴラスの妻はヒスティアイオスの愛娘であるから、その存在そのものを脳裏から消すことは出来ぬ。だが穏やかな日々の中で、少しずつ過去の人になりつつあった。時折舞いこむ書簡がなければ、それはもっと加速されたに違いない。ヒスティアイオスは巧くペルシア王に取り入ったのか、大層な羽振りであることは書簡の端々からも判った。しかし、身分は同じままのようだし、何より、常に護衛が付いているようである。それはそれで彼という人間の存在がどれほど王にとって重きをなしているかが知れるが、同時に監視がついているようにも思えた。
「考えすぎだ」
 軽く頭を振る。濃い茶色をした髪が揺れる。ヒスティアイオスとも良く似た髪のいろは、彼らの家系に多い色であった。ヒスティアイオスがダレイオスに尽くしていたのは、イオニア部隊ならずとも熟知しているはずだし、何よりダレイオスの足元にいるイオニアの僭主の中で、もっとも有能であった。そのヒスティアイオスを拘留する価値があるだろうか? 却ってペルシアから独立したがっている人々をのさばらせるだけではないか。ヒスティアイオスにしてみればアリスタゴラスがいるからそういう事態にはなるまいと踏んでいるのだろう。だが、ペルシア王はアリスタゴラス個人をヒスティアイオス程に熟知している訳ではない。
「ま、いくら馬鹿でも自分に利益のないことはしねーだろ」
 自分に言い聞かせるようにアリスタゴラスは呟いた。青い空がその小さな呟き声を吸い取るかのように眩しかった。

 その日。遠い海面に船の影が見えた。ヘラスの方向である。もっともヘラスから来るとしても直線的に来るというのでなければ、陸伝いに来ることもありえるから、一概には言えないかも知れないが、その船は西からまっすぐにやって来る様に見えた。三段櫂船は順調に岸に近づいている。獅子湾にまわりこんで入ってくる船を、目ざとく見つけた人々が、声を上げた。
「船だ!」
 大人の男だけではなく、子供達もが飛び出してきた。娯楽の少ない時代、来訪者は時々退屈な人々にとっていい暇つぶしとなる。勿論友好的な来訪者だけとは限らないのがこの時代の特徴の一つである。時には物資や住民を略奪し或いは虐殺することもある。だが、昼日中にそういう事態は想像しにくかったし、何より子供達は抑え難い好奇心の虜となっている。
「子供は行った、行った!」
 邪険にしたというよりは、諍いを避けるためだろう。幾人かの大人が、子供達を窘めるようにその肩に手をかけて、港から遠ざけた。やがて、接岸した船には数十人程度の人間が乗っていた。半数以上は労働力として雇われた人々であろう。どんな人間が乗っているのか、子供ならず大人も興味を持つのは当然である。大人に遠ざけられながらも柵の隙間から覗く子供も少なくない。秩序ある行動が、それなりの身分であることを思わせる。やがて全ての人が下船すると、眩い程に輝く宝飾品で身を飾っているものが大半であった。そういったものを身につけていない者でも、全ての者が身なりをきちんと整えていた。恐らく、母都市では指折りの金持ちか、貴族であるに違いない。その中から一人進み出たのは、壮年の男であった。装飾品は少ないが、ヘラスの海のように鮮やかな青いヒマティオン(外衣)を右肩に掛けていて、髭も見事に整えられている。
「我らはナクソスからヒスティアイオスの援助を求めて来た」
 来訪者達を見ていた観衆がざわついた。ヒスティアイオスがここミレトスに居ないことは周知の事実だったからである。
「ヒスティアイオスは今、ここにはいない」
 観衆のざわめきの後ろから、良く通る声がした。人を掻き分けるようにして現れたのは、ヒスティアイオスの代理を務めるアリスタゴラスである。舅のヒスティアイオスがその姿を見たら、瞠目していたに違いない。
 到着した船から降りてきた人々は、ヒスティアイオスとは旧知の間柄であった。しかしヒスティアイオスを頼って来た人々にとって、見知らぬアリスタゴラスの出迎えは好ましいものとは映らなかった。落胆の色を隠しきれないようである。
「ヒスティアイオスは居ないのか」
 傍目からも判る程にがくっと肩を落とす者も、少なくない。
「俺はアリスタゴラス、ヒスティアイオスの従兄弟にして娘婿だ。父はモルパゴラスという。……ヒスティアイオスは今、ダレイオス王の相談役としてスーサにいる。ご用件は代わりにこのアリスタゴラスが承ろう。ひとまず、暫く滞在されるだろうか」
 ヒスティアイオスの不在を聞いて、気落ちしていたナクソスからの来訪者であったが、その名乗りを聞いた途端、疲労の影が濃かった流浪者達の顔つきに、光が差し込んだ。
「おお、ヒスティアイオスの従兄弟か!」
「彼は元気なのだろうな?」
 突然滑らかに回るようになった舌には、ヒスティアイオスという名によって潤滑油が注されたのかも知れない。

 プリュタネイオン(公会堂、或いは迎賓館の役割を果たす。宴会場でもあり、都市国家の中心となる役所)へ集まったのは、ナクソスから来た人々と、アリスタゴラスである。歓迎の宴会をする前に、明確にしておかねばならないことは、二つある。ひとつは、ここミレトスへ来訪した目的。二つめはその滞在が長期にわたるのか、否かである。ナクソスの人々は、明らかに資産階級の富裕な人達である。ナクソスはアイゲウスの海(エーゲ海)に浮かぶ島である。現代ではキクラデス諸島と呼ばれる島々の一つであり、かなり古い時代から有力な都市国家として栄えていた。当然ながら民主主義盛んな土地柄で、寡頭政治を行っていた人々が民衆派によって国を逐われたものと想像された。それらの情報はヒスティアイオスから引き継いだ間諜がもたらした情報である。ただ、国を逐われた人々がミレトスにやって来るというのは少々計算外のことであった。しかし、国を放逐されたというのはナクソスの人々には言い難いことであったらしく、「不当に国を逐われた」と些か曖昧な物言いをしていることが、アリスタゴラスには笑止きわまりないものとして映った。
「それで」
 一拍おいて、威儀を正す。重々しく言葉を発するのは、その効果を最大限に引き出す為のパフォーマンスである。
「軍隊の出動を要請し、その軍隊の力で祖国に帰ることが出来るよう取り計らって貰いたい。そう仰るのですな?」
 ヒスティアイオスであれば、ペルシアの軍隊を引っ張り出すのは容易であろう。そう判断したナクソスの人々はここミレトスにやってきたのである。折悪しくヒスティアイオスは不在であるが、このアリスタゴラスは中々の勢力を持っているようだ。と思った人々は、真摯に深く肯いた。実情より勢力があるように見せるには、自信があるように振舞うことである。それをアリスタゴラスはヒスティアイオスから学んでいた。もし、この人々の思惑通りに自分の尽力によって帰国させることが叶った暁には、ナクソスの支配権に手が届くかも知れない。取らぬ狸とは良く言ったものであるが、目の前に美味しい果実がぶら下っているのを見つけて、そのまま通り過ぎることが出来る者は余程克己心のある人物であるに違いない。
 重々しく肯いたアリスタゴラスは、しかしすぐにはその好機に乗っかろうとはしなかった。

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