灼熱の華





 風が凪いだような気がした。一瞬で辺りの全てが色を失い、そこにあるものだけが一層艶やかさと輝きを増す。どんな強烈な光でさえも、しなやかでまっすぐに伸びたその髪の絹にも似た光沢を消すことは出来ぬ。風に流されればそのまま消えてしまいそうな程に儚げな様子は、男の保護欲をかきたてずにはおかぬ。真珠のように白く肌理の細かい肌は、ほんのりと明かりが灯ったような温かさを秘めて、一点の染みもなく青春の輝きを宿している。理知的な瞳は夜よりもなお鮮やかな深い藍色で、微かに憂愁の色を帯び、濡れたように瑞々しい睫毛は伏せたその目をいやがうえにも際立たせる。それを隠すようにふんわりと被せられたヴェールさえも、全てを隠しきることはできぬ。紅をさしてもおらぬのにほんのりと紅い唇は、化粧気の少ないその美貌の最後の仕上げをしている。衣の裾から零れる細い指先は、男が触れればそれだけで折れてしまいそうな程に繊細で、頼りなげでさえある。華奢な肩が小刻みに震えていた。
 触れてみたい。そう思わずには居られぬ。ごくり。と唾を飲み込む者が数人居たことに彼は気付いていた。この女をあまり多くの男の目に晒して置く訳にはいかぬ。これは王に与えられるべき女だ。

「陛下! ご覧になりましたか? あの女を」
 遠くから興奮した様子で近づいてくるアラスパスを、珍しいものを見る目でクルは見つめた。
「あの女とは、どの女かな?」
 その視線にからかうような色が含まれていたことに、さしものアラスパスさえも気付かぬ。冷静沈着を誇るこの男にしては珍しいことだとクルは改めて王佐を見遣った。強靭な肉体は適度に日に灼けて、肌は濃い褐色である。張り詰めた筋肉に刻まれた幾多の傷は、彼が歴戦の勇士であることを無言のうちに物語っていた。王佐という任務は戦うことしか出来ぬ輩に勤まる仕事ではない。文武両道を誇る美丈夫としてアンシャンに名高い彼は、またその穏やかさと公平無私な姿勢からも一目置かれた存在であった。メディアに居た頃からの王の親しい友の一人でもある。
「例の捕虜でございます。カルデア(新バビロニア)王配下スーサ王アブラダタスの妻女ですよ。あれほど美しい女を私は存じませぬ。是非一度お召しになって下さいませ」
 その断定的な物言いは、クルが好むところではあったが、暫し顎髭を撫でて考えを巡らせると首を横に振った。
「止めておこう」
「何故でございますか? 絶世の美女でございますよ」
 少し上気した頬は、壮年と言われる年齢を迎えている筈なのに青年のように若々しく見えた。
「お前がそれほど言う女というものに会って見たくはなるが、一度会えば今度はその女自身の魅力が私を引き寄せるかも知れぬ。二度会えば三度、三度会えばとなりかねぬ。その女に溺れてしまったとすれば。そして己の義務を忘れて政務を滞らせることになってしまったとすれば。私は王として失格だ。現に今お前からその話を聞いただけで私は会ってみたくなっている。だから私は会わぬ。それに時が来ればその女は我等の役に立つかも知れぬ。ならば、手を出さずに交渉の道具として使う方が得策であろう? お前はその女の誘惑に抗しきれるか?」
 一瞬の躊躇いもなく王佐は応えた。
「はっ!」
「では、お前にその女の警護を任せよう」

 数週間が過ぎた、ある夕刻。クルの妻の一人カッサンダネがそっと部屋の戸口で夫の瞳を上目遣いに見て、すぐに瞼を伏せた。恥らうような色を頬に浮かべているのは虚飾であろうが。それは、彼女が夫の知らぬ情報を持っていて、その報酬を要求している時の仕草であった。王は、その場でカッサンダネの唇を情熱的に塞ぐと、堪えきれぬといった風情で妻の部屋へ雪崩れ込んだ。するりと寝室へその体を横様に抱きいれる。激しい愛撫をそのたおやかな身に与え、汗に塗れつつある衣を剥ぎとり、その肌に唇と指とを這わせながら、まるで拷問のように妻の口を割らせていく。
「ア、…ア…ラス…パス…殿…が…! …あっ…」
 王に身を任せるよりも簡単に、その紅唇を割って漏れ出てくる言葉は、王佐アラスパスが件の女に惚れ込み、ついには日夜その愛を求めるようになったというものであった。女は遠く離れた夫をこよなく愛しており、王佐の求愛を頑なに拒んではいるが、その求めは日に日に苛立ちを隠せぬものとなっていて、アラスパスが暴力によって女を組み敷くのも時間の問題だと思われている。情欲に身を委ね途切れ途切れになりつつもカッサンダネはそう語った。その間もクルは妻を幾度となく高みに押し上げる。王の頭に少し肉の弛んできた白い二の腕がしっかりと絡み、快楽の極みを求めて一層激しく蠢いていた。
「あ…ああ…っ…」
 やがて、力を失ってぐったりとした豊かな裸身が、しどけなく王に身を預けたまま気怠げに寝入る。クルは妻を牀(ベッド)に横たえ、傍らの衣を羽織ってその部屋を出た。明かりを灯さぬまま、闇に向かってそっと呟く。
「そこに、居るか?」
「はっ」
 闇が、返事をした。目立たぬように、低く、小さく。
「アラスパスが例の女にという話は、真実か?」
「まことに遺憾ながら」
「そうか…」
 暗闇の中で何かが静かに光ったが、王の表情は読み取れなかった。

「アラスパスよ」
 王が呼び止めたことに気付いたアラスパスは、その表情に気付いて顔を曇らせた。それを見抜いたクルは、敢えてからかうような口調で言葉を重ねた。
「誘惑には抗しきれなかったと見えるな」
「…は」
 ばつが悪そうに俯く王佐から、クルはそっと視線を外す。当初は、夫と離れて塞ぎこみがちだった女を慰めようと思っただけであった。それだけの筈だった。しかし一度その笑顔を目にして、王佐は虜となった。その藍色の瞳に。
「人の心は難儀なものだ。惹かれてはならぬと思う程に惹かれるもの。それを咎めようとは思わぬが、力にものを言わせて無理強いすることだけは、私が認めぬ。かの女の夫はスーサ王。かほどの女に暴力で以って無理強いして従わせることはならぬ。だが」
 明るい微笑みを湛えた王クルの瞳が、まっすぐにアラスパスを見つめていた。
「もし、お前が説得して閨を共にすることが叶うのであれば、私は邪魔はせぬ」
 クルの言葉に王佐は恥じ入るばかりである。
「アラスパス。神々でも恋というものには勝てぬ。ましてや、我等凡百の人などは当たり前のこと。賢者の誉れ高い人でさえも深く思い煩う病だ。この私とて美しい女人と一緒に居て無関心を貫き通せる程に強い訳ではない。炎は、不用意に近づく者の身を焼く。だが、美しい女というものは、たとえ遠くからであっても恋の病に身を焦がさせる。それは灼熱の炎のような華だ。その華に触れる前に、己の身が焼けていることに気付く者は少ない」
 王佐の目に涙が滲んだのは、自らを責めぬクルの思いやりが染みたせいかも知れぬ。
「それに、此度は私にも責めはある。気に病むな」
「勿体無い…お言葉でございます」
 アラスパスは俯いて、滴り落ちる涙を隠した。
「さて、今のお前にうってつけの仕事があるのだが。やって貰えまいか?」
 何かを企んでいるかのような王の表情を、王佐は久しぶりに見たような気がした。

 翌朝。王佐アラスパスが出奔し敵陣に走ったことがアンシャン全軍に伝わった。スーサ王アブラダタスの妻パンテイアに横恋慕したアラスパスの所業については、既に詳細が伝えられていたし、忽ちのうちに辺り一帯に広まった。その噂を聴きつけて心を痛めたのは、当事者の一人、アラスパスの想い人であるパンテイアであった。もとはといえば、アラスパスに横恋慕された自分にも咎がないとは言えぬ。節度を守って接してはいたが、男というものは自分にだけ好意が向けられていると思いがちな、厄介な生物である。自分への恋情に身を焦がす様を、楽しむ心が皆無であったかと言えば、言い切れるものではない。夫を愛しそれ以外の男に価値を認めなくとも、自分自身の価値を認められることは、女の自尊心を大いにくすぐるものであったからである。しかしアンシャンの陣営がアラスパスによって穴をあけられたことは事実であった。パンテイアは侍女を呼び、クルへ手紙を渡させた。
「クル様。夫の許に遣いを出すことをお許し下さいますならば、アラスパスより遥かに信頼出来る友をあなたに。それも、かなう限りの手勢を従え軍備を携えてお傍に参らせることが出来ましょう」
 クルは女の確信に満ちた自信に少々危惧を憶えぬでもなかったが、夫への遣いを許可した。使者にパンテイアが持たせたものは、新しく作られた一揃いの衣服に剣が添えられているだけで、書状はない。衣類を受取ったアブラダタスは、しかしそれに妻の暗号が隠されていることを一目で見抜いた。それには即刻カルデア(新バビロニア)の戦列を離れ、クルの許へと馳せ参じるようにと記されていたのである。

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