灼熱の華





 スーサ王アブラダタスは、妻からの暗号書簡を見つめていた。自身はカルデア(新バビロニア)前王の盟友であったが、現王は暗愚であり、しかも妻パンテイアに横恋慕して夫婦の仲を引き裂こうとしたことがある。妻の暗号を見る限り、アンシャン王クルは信頼出来る人物であるようであった。捕虜となった妻パンテイアを客人として遇し保護して、あらゆる者が彼女に危害を加えぬように、また不自由のないように配慮してくれていると感謝の言葉が連ねてある。仕える王として何れが良いかは比較するまでもないことであるが、前王との友誼を思ってこの場を離れることが出来なかったというのが正直なところである。しかし妻からの暗号書簡によってその他様々な状況を知ると、アブラダタスはカルデア王に目通りを願った。その隣には先日アンシャンを出奔してきたばかりのアラスパスが居る。その視線に微かな羨望らしきものが感じられたが、アブラダタスはそ知らぬふりを貫くことにした。
「王よ。アンシャンの動きが気になりますゆえ、私に斥候の任をお与え下さいませ。必ずや吉報を携えて戻ります」
 面倒臭げにアブラダタスを見遣るカルデア王は、最早自らの勝利に疑いを持ってはおらぬようで、今更何をと言いたげに口を歪めてスーサ王を見下ろしている。
「そんなに行きたいのなら、好きにすればよかろう」
 投槍とも言えるその言い方に、アブラダタスは心を少し、軽くした。戻れぬ道に行くことにはもう躊躇いはなかった。スーサ王は旗下の全軍約一千に旅装を整えて出立するよう命令を下した。

 アンシャンの陣地近くまで来て、アブラダタスは使者をクルに送って自分の名を告げさせた。クルは直ちにスーサ王を受け入れ、愛妻の許へ連れて行かせた。
「あなた…っ…」
 駆け寄った妻の藍色の瞳から、はらはらと零れる涙は、月の結晶か真珠かと見えた。数ヶ月ぶりの夫婦の再会、妻は心細い毎日を過ごしていたろう。それでも怪我一つない無事な姿を確認して、アブラダタスはクルへの深い感謝を憶えていた。やがて涙をおさめた妻がアンシャン王クルが彼女に示した好意の数々を語り終えると、感動の面持ちでその手を取った。
「クル殿。我等夫婦があなたより受けた恩義に対して、友としてこの身を捧げましょう。我が力の及ぶ限り、あなたの心強い味方となってみせることでしょう」
 その言葉に、クルはにっこりと微笑んで。
「久しぶりの再会だ。身の安全は保障されているとはいえ、頼みとする貴殿の長きにわたる不在は、奥方にはさぞや堪えたことであろう。貞淑な妻にとって、夫に敵う心の支えなどありはすまい。さあ、今は奥方とゆっくり積もる話でもなさると良い。後程私の宴にも加わってくれるだろうか?」
「我が友とともに、是非」
 深く一礼するアブラダタスとその妻パンテイアに軽く手を振ると、クルは広間へ向かって歩き出した。

 カルデア王との決戦は間近に迫っていた。その戦いの火蓋がまさに切って落とされようとしたとき、中央正面の指揮を希望してきたものがいる。それは、妻との再会を果したばかりのスーサ王アブラダタスであった。
「王の厚意に報いたい」
 その真剣さは疑いようもないものであったが、過日カルデア王の許を出奔してきた身であれば、敵に寝返った者として集中砲火を浴びる可能性がある。クルは暫しの間、後方で休むようにと伝えたのだが、アブラダタスを翻意させることは叶わなかった。それではと籤引で決めることにしたのだが。その結果スーサ王の中央正面が確定してしまった。クルは何やら悪い予感を憶えつつも、その籤を引き当てて明るく笑うアブラダタスに水をさす気にはなれなかった。

「あなた」
 振り返ると、貞淑な妻パンテイアが武具を調えて待っていた。それは新調したばかりであることが一目で判る程に煌いていた。新しい鎧に新しい兜。そして衣はパンテイアが一針一針心を込めて縫った品である。その出来栄えは見た目は勿論その着心地も素晴らしいものであった。着ていることを忘れそうに、軽やかで動きを妨げぬ。
「これは…どうしたのだ? もしやお前の宝飾品を潰して…?」
 あまりの目映さに目が眩むのを憶えつつも、アブラダタスは妻に問うた。
「大切なものを潰した訳ではございませぬ。…妾の目に映っているように、あなたが他の皆様にも映るようしつらえました」
 夫の身を飾る新しい武具を見て、満足がいったように妻は微笑んだ。
「アンシャン王陛下の友誼に相応しい武人として、ご活躍下さいますよう。妾もあなたの妻として、相応しく生きる覚悟でございます」
 スーサ王は妻の言葉に重々しく肯いて、その薄桃色の唇に、感謝をこめたものとしては些か情熱的に過ぎる口付けを与えた。

 戦いがいよいよ明朝に迫ったその日の払暁前。
 そっとクルの寝所を訪れた影がある。壮年を迎えていそうな肉体は強靭で歴戦の勇士であることを伺わせた。
「陛下」
「戻ったか」
 間髪入れずに返ってきた答えは、クルが目覚めていたことを示している。
「報告を聞こうか」
「は」
 闇の中で、その瞳だけが猫の目のように怪しく光った。

 夜明けとともに、両軍は対峙した。アンシャン軍中央正面はアブラダタス率いるスーサ軍である。その正面はカルデアに与するエジプト軍であった。カルデア同盟諸国の中でも特に勇猛をもって知られている軍である。その猛り狂った様を見て、怖気づかぬ者は多くはない。幸か不幸か、スーサ王はそれとは無縁の人物であった。しかし逆に怖気づいた者がいる。それは、スーサ王アブラダタスの妻パンテイアであった。煌びやかに装い戦場へと向かう夫を、快く送り出すのが妻の勤めである。しかし今朝に限っては、何やら悪い予感が胸を塞いでいた。
「妾は…夫を戦場へと駆り立てたようなものでございます」
 そう呟いて涙を落とすパンテイアに、優しい口付けを与えると、アブラダタスは微笑んだ。
「笑顔で送り出してくれ、愛する妻よ。そして」
 すっと耳元に唇を寄せる。
「凱旋したら、二人で祝おうではないか。王の宴が済んだら、寝所に向かう。牀(ベッド)の上で待っていてくれ」
 戦いの勝利を信じて疑わぬアブラダタスの無邪気な笑みに、パンテイアも笑おうとしたが。その目尻から零れたのは、一滴の涙であった。慌てて涙を拭いて、改めて微笑む。
「いってらっしゃいませ、ご武運を」
「うむ」
 そうしてスーサ王はまだ若い妻を残して戦車に乗った。煌びやかな武具に身を固めた王は、人の目を奪う見物である。戦車の夫を見上げた妻は、その眩しさに眩暈を憶えてその場に崩折れた。侍女が抱きかかえて介抱しているのを見下ろし。夫は「後は頼む」と言い置いて戦場へと去った。それが深い情愛で結ばれた夫婦の、永の別れであった。

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