灼熱の華





 鬨の声が上がった。砂塵が舞い、馬がそして戦車が疾走する。先頭を切って駆け出したのはスーサ王アブラダタスであった。
「私に続け!」
 愛馬に容赦なく鞭を当て、その疾駆する戦車は他の追随を許さぬ程に凄まじく、対するエジプト軍の中にまるで矢のように斬り込んで行った。
「王を一人にするな! 急げ!」
 スーサ王と妃パンテイアの情愛を良く知る部下達もまた、その王の後に続いて突っ込んで行く。猛将の下に弱卒なしという言葉は真実であることを、アブラダタス旗下の兵卒は良く知っている。戦車に乗って戦場を駆けつつ、腰に吊るした水筒で時折咽喉を潤し、倒した敵から奪い取った干肉をかじる。勿論逆に敵に討たれ命を落とすものもいる。ここは戦場という名の地獄に等しかった。やがて日は中天に達し、そして傾いて行った。その間にもまた人命は失われ、生きながらえた者は次の敵を捜して戦場を駆ける。 夕暮れが訪れる前に、戦いはあらかた決していたようである。
 その日一番の激戦となったのは、スーサ軍とエジプト軍が対峙したあたりであった。武器の優劣が戦いに色濃く出た結果でもある。その戦いの混乱の最中、アブラダタスは地面に転がる幾多の障害物の為に戦車から投げ出された。徒歩になったスーサ王はそれでも勇猛果敢に戦い続けたが。やがて力尽きて斬り伏せられ命を落とした。閉ざした瞼の裏に映ったのは、愛した女の泣き顔であった。

 夫の屍を蒼白な顔で迎えた妻は、涙を零してはいなかった。
「すまなかった。アブラダタス殿を…」
 そう口篭もるアンシャンの将軍とて無傷な訳ではない。突出しすぎたアブラダタスの軍を援護しようと努力したが、思っていたより早い突撃についていけず、そしてまた戦場に転がる障害物のために戦車から投げ出されたスーサ王を、みすみす死なせてしまった。と呟く。将軍はそのアブラダタスの遺骸を取り戻す為に必死で戦い、戦場から漸くの思いで遺骸を運び出した。手当てを受けたとはいえ、当然ながら満身創痍である。
「いえ…夫を死なせたのは妾でございます…」
 闇のような深さを持った瞳がそっと伏せられた。白さを増した頬は一層凄絶な何かを感じさせ、将軍は知らず身を震わせた。
 将軍達が去ると、パンテイアは侍女達に席を外すようにと伝えた。その密やかな願いを知るものは、唯一人であった。

 アブラダタス戦死の報がアンシャン王クルの許へ届けられ、各所を回っていた王がアブラダタスの妻パンテイアの許へやってきたのは、それからまもなくのことであった。戦いには勝利したものの、それはスーサ王の猛攻によるところが少なくない。その勢いに呑まれて及び腰になった両翼を、アンシャンの両翼が撃破したのである。しかしその犠牲は小さくはなかったことを、クルは初めて知った。突出しすぎたアブラダタスはカルデア軍の猛反撃に遭ったのである。その幕舎を尋ねたクルは、漂う血の匂いに顔をしかめた。その血は、アブラダタスのものであろう。そう思いつつも、いましがた流れたばかりであるかのようなこの匂いの強さはどうしたことだろうと、妙な胸騒ぎを憶えていた。幕舎に入る為に侍女に声を掛けると。パンテイアは暫くスーサ王の遺骸と一人になりたいと言ったという。だが、幕舎の中に人の気配らしきものはない。不審に思ったクルは、それでもパンテイアを驚かせぬよう、侍女に自身の訪問を告げさせた。クルの言葉を受けてそっと中に入った侍女が、絹を裂くような悲鳴を上げた。間髪入れず、クルは幕舎に入る。曲者か?と剣を抜き構えると、そこにはただスーサ王アブラダタスと、その妃パンテイアの遺骸だけがあった。
 クルはそこで初めてその女をまともに見た。
「灼熱の、華…」
 それは血に塗れてなお、気高さと気品を失わぬ女の骸であった。漆黒の闇よりも深い藍色の瞳は、最早誰を映すこともない。白い頬は血の気を失い、絹のような光沢を持った髪はその場にふんわりと広がっていた。女のものらしい懐剣が胸を一突き。躊躇うこともなく突き刺したことが、クルには一目で判った。夫の胸に頭を預け、寄り添うように横たわった女の閉ざされきれぬ瞼を、静かに閉ざしてやる。傍らのスーサ王の手をそっと握ろうとすると、腕だけが外れて、クルは胸を突かれた。アブラダタスの遺骸はエジプト兵によって斬り刻まれていたのである。
 クルの訪問を待って控えていた乳母が幕舎に入って来、アンシャン王にパンテイアの最期の願いを告げる。
「姫様は、どうか二人離さずに一緒に葬って頂きたいと仰せでございました。陛下であれば、きっとその願いを叶えて下さるだろうとも」
 スーサ王の妻が幼い頃から仕えてきた乳母は、既に高齢である。手塩にかけて育てた娘が亡くなったことは、かなりその身に堪えていると見えた。
「判った。その願い、聞き届けよう。…アラスパスを呼べ」

 カルデア王の許にスパイとして送り込まれていたアラスパスは、戦闘直前に帰陣していた。戦闘開始後はクルと共に軍の指揮に専念していたが、アブラダタスの隊が突出していることに危惧を憶えて、同僚の将軍に援護に向かわせ両翼を前進させて全軍のバランスを取るなどしたのだが。間に合わなかったのだと気付いたのは、将軍がアブラダタスの遺骸を抱えて戻ったのを見た時である。
 彼はクルに、渇望した美女とその夫とを弔う役目を命ぜられた。
「何故、私に…?」
「あれほど惚れ込んだ灼熱の華を、お前が無碍にする筈がない」
 その言葉に、ふとアラスパスは気付く。
「…ご覧になったのですか」
「うむ。生きている時に見なかったことに感謝している。お前のお陰だな」
 その言葉には微かな嘘が含まれていたが、それは王佐に悟られることはなかった。王の豊かな微笑みには、ほんの少し影が見えた。それは、アラスパスが失った恋を、一緒に嘆いてくれているようであった。
 王佐は目を閉じ、在りし日のパンテイアの面影を胸に刻んだ。血に染まった微笑みは、もう二度と夫と別れぬことを知って、安らかなものではあったけれども。いつか花を贈って微笑んでくれたその笑顔の方が、かの女には相応しいように思われた。
「陛下。スーサ王アブラダタスの碑文を立てても宜しいですか」
「良かろう。何と刻むのだ?」
 少しからかうような物言いは、もういつもと変わらぬクルであった。
「そうですな…。勇猛果敢なるスーサ王アブラダタス、アンシャン王クルの為戦い死してこの地に眠る。夫に殉じた最良の妻パンテイアとともに。そんなところでどうでしょうか」
 顎のあたりをそっと撫で、暫し頭を巡らせると、重々しく肯く。
「うむ。かの貞淑な妻女も嘉してくれよう」
 そうアラスパスに応えると、クルは王佐を一人残し、自分の幕舎へ戻って行った。それは、恋を失ったアラスパスへの、ささやかな思いやりであったかも知れぬ。何時の間にか辺りは真っ暗であった。紺の天鵞絨のような夜空は、パンテイアの瞳のように深く静かである。ただ一つ違うことは、女の瞳はアブラダタスという星以外のものを映さなかったことだ。天空を鮮やかに彩る灼熱の星は青白い。澄んだ湖よりも深い、藍色の瞳もまた自らをも灼き尽くす激しさを内に秘めていたものと見える。凪いだ水面から伺うことが出来なかったその激しさは、アラスパスの予想を遥かに超えたものであった。失われたものを思いながら、王佐はひとり涙を零した。深く静かなその瞳から逃れるように、一人毛布に包まって。夜気に漂うのは、淡く甘い香り。それはいつかアラスパスが必死の思いで人妻に捧げた花の匂いに似ていた。
 遠かった夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。

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