第一章イオニアの華

四、スキュティア遠征




 ダレイオス率いるペルシア軍は窮地の只中にいた。本来の予定通りならあっという間にスキュティアを平定して、凱旋帰国していた筈である。だが現実はスキュティア軍に踊らされ、引きずり回されて、ペルシア全軍は途方に暮れかけている。イストロス河に渡した船橋へ戻る為に、彼等は来た道を戻る以外の方法がない。現在位置すら把握出来ぬのだ。内陸奥地へと引き回されたあとは、ポントス・エウクセイノス(黒海)を捜すことさえも困難であった。どちらへ行けば海があるのかさえも判らなくなっている。来た道をそのまま引き返すことさえもスキュティアの干渉が皆無とは言い切れぬ。撹乱される恐れもあった。しかし、運が好かったのか悪かったのかはともかく、双方は出会うことがなかった。ペルシア軍は来た道をそのまま引き返しただけだったが、スキュティア軍は近道を把握していた。人は時に、自分の一般常識を他者もまた持ち併せていると思うことがある。スキュティア人にとっての一般常識である近道は、ペルシア軍にとっての一般常識ではなかった。周りの風景も樹木も、ペルシアにあるものとは様相が異なる。しかしスキュティア人にとってみればどれも皆一つひとつがそれぞれの特色を持って見えた。同じ人種から見れば一人ひとりが違った顔に見えても、他の人種から見れば全く同じような顔に見える。ペルシア人から見れば、スキュティアの風景はどこも同じように見えた。その為にスキュティア軍はペルシア軍に先行して船橋の元へと辿りつく事になったのである。ただ、今回はスキュティア人の策略が返って混乱をもたらしたともいえる。先に泉を埋め草木を抜いたことが、却ってペルシア人の後を探索しにくくする結果を産みだしていた。スキュティア軍は馬や食糧のある地域を選び、そこを通過しつつペルシア軍の探索を続けた。しかしダレイオスはひたすら来た道を戻っていき、スキュティア人はペルシア人を捜し求めて彷徨うことになったのである。

「あそこだ……!」
 悲鳴に近い声が全軍から聞えた。イストロス河の船橋の渡河地点を漸く彼等が発見したとき、もう既に日は落ちて辺りは真っ暗闇であった。穏やかな波の音が響く。遠くに灯りが見えた。しかし船橋は見当たらない。
「イオニア人は我等を置き去りにしたのか?」
「ありえぬことではない」
 不安を隠し切れぬ兵士が私語を漏らす。ダレイオスは小首を傾げて辺りを見回した。
「六十日を過ぎてはいるが…」
 岸から見える丁度ぎりぎりの辺りに灯りがある。
「声の大きな者をこれへ」
 連れて来られた男はエジプト人のようであった。雄偉という形容が良く似合う体格である。声が体格に比例するものなら、さぞや大声を出すことだろう。
「岸に立ち、ミレトスのヒスティアイオスの名を叫び続けよ。ありったけの声で」
 ダレイオスはそう命令して、全軍に渡河の準備をするよう告げた。打算高い男である。今ペルシアの庇護を失えば、己の身がどうなるかを把握している筈だ。それにまだ利用価値はある。ダレイオスはそっと唾を飲みこんだ。
 エジプト人の男は、ミレトスのヒスティアイオスの名を数回呼び、ひと呼吸置いてまた呼んだ。その声は指向性を持ったもののように遠くまで響き渡り、ヒスティアイオスの耳に届いた。
「ペルシア王のご帰還のようだ。また奴隷の日々が始まる。だが、今の我等にとっては必要な主人だ。少なくとも、今あるそれぞれの独裁権を守るためには。…艦船を回せ! 橋を掛け直すぞ!」

「あれを見ろ!」
「艦船が回ってきた。橋が掛け直されていくぞ…!」
 兵士は口々にそう言い合う。その声にはほんのりとした灯りが点ったようであった。生への希望という名の灯りが。少しずつ岸に近づいてくる橋を、兵士等は歓声とともに眺めた。船橋は、文字通り生命への掛け橋として人々の目に映っていたのである。水の上に揺れる灯りが、ダレイオスの頬を赤く照らしていた。ペルシア軍が渡河を終えてまもなく、スキュティア軍がイストロス河口に到着した。殲滅できたであろう敵をみすみす逃したと知った彼等は、地団駄踏んで悔しがる羽目になった。

 すんでのところで虎口を脱したダレイオス軍は、トラキアを通過してセストスへ到着した。ダレイオス自身はここから船でアジアへ渡る計画を立てており、軍は一部残留させるつもりであった。そうなると有能な指揮官が必要になるだろう。
「ゴブリュアス、誰が良かろうな?」
 ペルシア王は隣に控えていた側近に声を掛けた。かつてはクーデターを一緒に戦った身であるが、現在は王とその臣下である。
「メガバゾスが居りましたな」
 ダレイオスが目をそっと細めた。そういえば、かつて弟アルタバノスに「石榴の実の種子の数程欲しいもの」と聞かれて、「種子の数程メガバゾスが居ると良い」と応えたことがあった。満座のペルシア人の中で、王にそのように褒められて感激せぬものなど居らぬ。まだ若い将軍としてその名を轟かせつつあった彼は、このことがあって以降更に忠勤に励んでいた。
「うむ、それが良い。メガバゾスを呼べ」

「客好きの海とはよくもまあ言ったものだ」
 そう呟く声がした。まだ若い青年が海を見つめている。目の前に広がるのは、ポントス・エウクセイノス(黒海)、ヘラス(ギリシア)語で『客好きの海』という意味である。後世、英語で「Black Sea」と呼ばれるようになる海であるが、これはトルコ語のカラ・デニスに由来するという説があり、それは十七世紀以降のことと目されている。ゆったりとした穏やかな波は、この海が大陸に囲まれているからかも知れぬ。その海を前にして感慨に耽るのは、虎口を脱した故の安堵感からか。幼さの残る顎にはまだしっかりと生え揃わぬ鬚が顔を覗かせている。眼差しは鋭利な刃物を思わせ、それが迫力の足りぬ顔に少々の迫力を添えていた。
「将軍!」
 従卒が息せき切って走ってきた。この行軍から遣うようになったが、まだ少年と呼ぶに相応しいあどけなさがある。もっとも、彼自身がまだ若いのだ。それに付き従う従卒は若い方が周囲の反感を買わぬのに違いない。
「どうした、そんなに慌てて」
 息を整えるのももどかしい様子である。
「王が。ダレイオス王がお呼びです」
 返事もせずに彼は歩きだした。かつて彼の面目を大いに施してくれた主人、ダレイオスの元へと。

 軍人らしい、規則正しいリズムを刻んで、メガバゾスは王の元へやってきた。殊更に急ぐ様子を見せてはいないが、王の命令を蔑ろにすることなくやってきたのは明らかである。ダレイオスは若く凛々しい青年を見て、顔をほころばせた。
「メガバゾスよ。軍から八万程を割くゆえ、ペルシアにまつろわぬ者の平定に当って貰いたい」
 さりげなく発せられたその命令には、重い責任がある。ダレイオスは彼を、事実上のヨーロッパ担当指揮官に任命したのである。本来は力不足を理由に辞退するべきかも知れぬ。しかし、メガバゾスは試してみたい。と思っていた。己の力というものを。血が湧くような興奮を彼は味わっていた。それは、若さというものが呼び醒ましたものだったかも知れない。彼は戦いの悲惨さよりもなお、戦場で武勲を立てることに憧れを持っていた。
 ヨーロッパ指揮官に任ぜられたメガバゾスは、セストスに留まりペルシアにまつろわぬ人々を征討することになった。彼はそれから僅か数年の間にペリントス攻略、トラキア平定などの功績を上げることになる。ダレイオスに命じられた征討を終えたその帰路で、あるものを目にすることがなかったなら、彼を含めた数千数万もの人々の運命を変えることはなかったかも知れない。歯車は一つ狂うとどんどんずれていってしまう。その最初の歯車に彼が出会うのは、もう間もなくのことだった。

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