第一章イオニアの華

六、ナクソスから来た客




 アイゲウスの海(エーゲ海)の上を渡ってくる風は、その空気の色まで青く輝くようだった。風光明媚と一言で言ってしまうのは簡単であるが、豊かな緑と黄金色にも似た砂浜に囲まれたキオス島(現ヒオス島)の魅力はそれだけではない。キオス島を含めた小アジア西岸五島は、全体に山がちではあるがオリーブをはじめとした木々が茂り、肥沃な土地は果樹栽培にも適していて、穏やかな入江と良質の港をもっている。その五島の中には女流詩人サッフォーの出身地として有名なレスヴォス島もある。女流詩人にそういう嗜好があったのかどうかはさだかではないが、「レスビアン」の語源となった島である。しかしそれはさしあたって現在のペルシア及び同盟軍の艦隊に影響はない。
 ミレトスを出た船団は、昨日ここキオス島のカウカサ港に到着した。北風が吹くのを待って、一気にナクソス島へ向うのである。ナクソス島のほぼ真北に近いキオス島を選んだ理由は、一にヘレスポントスを攻撃目標としてカムフラージュすること。二にこの北風である。艦隊の総指揮官であるメガバテスはいつ北風が吹いても良いよう、手筈を整えていた。段取りは九分通り終り、最終確認として艦隊の警備状況を巡察することにした。同行したのはまだ若い従卒が一名程で、メガバテス自身も軽装である。あまり重苦しい服装を好まない彼は、童顔のせいもあって少々軽く見られるところがあるのだが、それに気づいていない。童顔であれば尚更重々しさを強調した衣装をまとった方が威厳もつくしハッタリも効かせ易いのだが、メガバテス自身は機動力のない従卒にも自分にも興味がなかった。
 艦隊の船一つひとつを巡察するのには時間がかかるが、それをしっかりやっておけば綻びも生じ難い。逆にそれをやらねば上手の手から水が漏れる如くに計画は水泡に帰すのである。幾つかの船を巡察して、満足気に肯くと、一つの船が妙に気になった。ミュンドスからの船である。近くまで歩いてきて、その違和感に気づいた。船の周りに置かれるべき警備兵が一人も立っていないのである。他の船は全て、二人乃至三人以上の警備兵が居た。艦隊であればリスクは多少減るかも知れないが、警備の為に、兵は一つの船につき数人を置くのが本来の規則である。それに急な伝達事項があったとき、警備兵が居ないのでは誰に伝えればいいのか、困るだろう。メガバテスは怒りを抑えたような声で従卒に向って言った。
「私の親衛隊長を呼んで来い」
 従卒は声音に含まれた微かな怒りに即座に気づいたが、何に対して主人が怒っているのかまでは読み取ることが出来なかった。
「はっ!」
 律動的な動きで離れていった従卒の背中を見遣りながら、メガバテスはミュンドス船長にどういう処罰を与えたものか、頭を悩ませていた。戦いの前に厳重な処罰はあまりしたくはないが、これほど弛んでいては全体の士気にも関わる。士気をある程度引き締めつつ、しかし下げない処罰をしたいと思っていた。
 考えこんでいるメガバテスの前に息せききって走ってきたのは、先程呼びにやらせた親衛隊長と、彼の従卒であった。親衛隊長は中年のがっしりした男で、焦茶色の髪に灰色の目をしている。髪と同じ色をした眉の太さはメガバテスの二倍はありそうだった。
「閣下」
「ミュンドスの船だが。警備兵が一人もいない。これはどういう処罰をすべきかと思うかな?」
「これは艦長の緩んだ士気が船員に波及したものと存じます。それが艦隊に波及しては困りますので、ここで厳重な処罰を与えるべきでしょう。艦長を拘束し処罰したいと存知ますが、お許しいただけますか」
「ふむ。では、ミュンドス艦長を探し出して処罰を与えよ。私は巡察を続ける」
「はっ!」
 親衛隊長は踵を返して立ち去った。隊員を集めてミュンドス艦長を捕らえて厳罰に処するだろう。それがどういう処罰になるのかについては関心がない。ただ、全体の士気に影響がなければ、とメガバテスは思っていた。

 その夕方のことである。ミレトスのアリスタゴラスがメガバテスのもとへやってきた。いつになく上機嫌で、上等の酒を持っている。どういう訳か、とメガバテスが視線を走らせると、こちらへやってきた。
「やあやあ、メガバテス殿」
 酒は入っている様子ではないが、何とも気味が悪いような気がした。
「何か御用かな?」
「これを共に飲みたくてな…」
 壺に入った酒の蓋を開ける。かぐわしいばかりの芳香があたりを染めて、従卒などは思わずごくりと咽喉を鳴らした程であった。
「上物だな……」
 メガバテスは従卒に目で合図をして、席を用意させた。
「こちらへ…」
 胡散臭いという表情を隠さぬままに従卒はアリスタゴラスを艦長室へ招じ入れた。後からメガバテスが入り、部屋の扉を閉める。普段交流のないアリスタゴラスがわざわざ手土産を持参した意味を考慮した結果であった。
「手土産をわざわざ持参されたのは、何用かな?」
 窺うような目つきに、少々アリスタゴラスは相手の感情の冷えのようなものを感じ取ったが、そこで怯んでは目的を果たせぬ。
「流石はペルシア貴族でも切れ者と名高いメガバテス殿。話が早い」
 そういってアリスタゴラスは、スキュラクスを解放して欲しい、と頼みこんだ。
「スキュラクス…?」
「ミュンドス船の艦長だ。私がとりわけ親しくしている者で、聞けばかなり手荒な処罰を受けているという。どういう罪かは知らぬが、釈放を依頼したい」
 そのためにわざわざ?という言葉を飲み込んで、メガバテスは杯を下ろした。それではこの酒はまるで賄賂ではないか。軍規に照らして罰則を与えねば、軍隊としての規律を保つことは出来ない。それを犯したものをこのような賄賂でみすみす許しては、全体の士気を一気に低下させるだろう。アリスタゴラスという者はミレトス僭主代行として辣腕をふるっていると聞くが、その程度の男だったか。とメガバテスの中の何かが冷えた。
「軍規に照らして、明らかな違反を犯しているのだ。すぐさま釈放などは出来ぬ。この酒は確かに上物のようだが、アリスタゴラス殿にお返ししよう。私には少々適わぬようだ」
「しかし」
「お帰り願おう」
 アリスタゴラスは一瞬、むっとした表情を浮かべたが、「なるほど、若い方には清濁併せ呑む器量を要求するのは酷だったか」と厭味のように一言添えた。
 口の中に何やら苦いものが残っていたが、メガバテスはそれを唾と一緒に体の外へ吐き出した。
「親衛隊長はどこにいる?」
「はっ、お傍に」
「ミュンドス艦長に与えた処罰だが。どのように行ったのだ?」
 アリスタゴラスがわざわざメガバテスのもとにやってきたということは、それが目につく処罰の仕方だったからに相違ない。しかし彼は処罰の方法を指定してはいなかった。親衛隊長に任せきりにして、その結果も見ていない。
「はっ! 重罪でございますゆえ、縛り上げて、体は船内にしたまま、頭だけを船外に。つまりは櫂の穴に押し込みました」
 少し胸を張って得意気な親衛隊長に、苛々した気持ちを募らせつつも、それを出さぬように務める。親衛隊長が与えた処罰は、肉体としては楽ではあるが、衆人環視を受けてかなり精神的苦痛を強いられる罰である。なるほど、考えたものではあるが晒し者にされた者はたまったものではない。口を開くことが出来るなら、恐らくその苦痛をあらん限りの声で訴えるだろう。口が閉ざされていてもその惨状を見て、誰かがアリスタゴラスに告げたのに違いない。ミュンドス艦長スキュラクスがアリスタゴラスが懇意にしていたことを知っていたものは多かった筈である。
「あまり惨い刑では艦隊の反感を招く。もう少々処罰は考えた方がいいな。かといってそのままというのでは良くないが。まあ一晩はそこで過ごして貰おう。そのあと、私のところへ連れてくるように」
 鷹揚に親衛隊長に告げた総指揮官だが、その翌朝、アリスタゴラスの手によってミュンドス艦長スキュラクスが解放されたと従卒から聞かされて、 烈火の如く怒り狂った。勝手に釈放するとは何事だ、といきり立ったメガバテスに、アリスタゴラスは涼しげに応えた。
「これはメガバテス殿とは何の関係もない。考えてみて頂ければ当然のことだ。アルタフェルネス閣下がメガバテス殿を派遣したのは、私の命ずるままに艦隊を動かすため。軍規に照らし合わせてもこのような処罰の方法など聞いたことがない。よって私はスキュラクスを解放したまでだ」
 メガバテスの中で怒りが煮えたぎるようであった。このように顔を潰されて、ペルシア貴族しかもこの上なく王に近い従兄弟たる者が黙っていられよう筈がない。アリスタゴラスを見据える目に不穏な火が灯ったのに、ミレトスの僭主代行は気づかずに居た。

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