第一章イオニアの華

六、ナクソスから来た客




 気だるい午後であった。乾燥した空気と暑い日差しが降り注いでいる。只管に青い空には埃が舞っているのだろう。澄みきったとは言えぬ濁りがあった。しかしそれが慣れた肌には、バビロンの水気を帯びた空気より遥かに心地よい。晒していると肌を刺す程に強烈な直射日光もまた、この上もなく快い。一族の故郷の地であるアンシャンとは大分異なる空気ではあるが、乾燥した空気特有の厳しさが楽しかった。
「こちらにおいででしたか」
 鋭くも高くもない声が、広大な帝国の主であるダレイオスの耳を打った。足音も気配も感じさせぬこの男は、近習となって長い。王の思うところ願うところを余すことなく理解する、得がたき人物である。得てして、そういう人々は阿諛追従に傾きがちだが、それがないことをダレイオスは気に入っていた。声には出さず、視線で問いかける。
「サルディス総督アルタフェルネス様より使者が来ております。謁見の間に」
「弟が? …判った、すぐに行こう」
 王に一礼して退き、風のように近習は消えた。ダレイオスは手にしたままの杯を置いて、ゆっくりと立ち上がった。

 謁見の間に控えていたのは、弟であるアルタフェルネスが寄越した使者である。特に小アジアで揉め事があったとは聞かないし、緊急のことではないのだろうと察せられた。使者自身の表情にもゆとりがある。
「サルディス総督からの使者よ。用件を話せ」
 重々しく告げたのは、王ダレイオス本人ではない。ペルシア王がじきじきに声を掛ける程の存在ではない。
「はっ。大王陛下にはご機嫌麗しゅう、恐悦至極に存じます…」
 決まりきったご機嫌伺いの挨拶の口上を一通り述べ終えると、本題に入る。関心のなさそうだったダレイオスの表情が、話が進むにつれて血色が良くなっていく。
「賢明なる大王陛下には申し上げるまでもないことでございますが、ナクソスという島がアイゲウスの海(エーゲ海)にございます」
 使者は、アルタフェルネスから聞いた言葉を、そのまま伝えようと試みていた。その元はといえばアリスタゴラスの口から発せられたものである。ナクソスという島が地味肥え、奴隷も財宝も豊かであること、そしてその島からの亡命市民がアルタフェルネスを頼ったことを、少々の脚色を交えて説明した。艦隊を出動させれば、ナクソスのみならず、キクラデス諸島の島々をもペルシア支配下に置くことが可能となろうという話は、版図の拡大を願うダレイオスにとって、中々に魅惑的な提案であった。
「アルタフェルネスは何と申しておる?」
 逸る心を抑える。二度も続けて失敗しては、大王としての面目が立たぬ。
「されば、二百艘の船と、ペルシア軍及び同盟国軍で構成された遠征軍を用意して、ナクソスを攻略したいので、大王陛下の認可を頂戴したい、とのことでございます」
「戦費はどうなるのか」
「ナクソスの亡命市民が、事のなった暁に弁済すると申しております」
 すらすらと澱みなく答える。ダレイオスは顎の髭を指で撫でた。
「良かろう。承認を与える」
 うまくいけば、キクラデス諸島近辺の制海権が手中に収まるだろう。それは、全ヘラス(ギリシア)世界の半分ともいえる。折角の機会を逃す程に、ダレイオスは愚鈍ではなかった。或いは、少々利に聡くなければ良かったのかも知れぬ。うまい話である。それが叶うなら。しかし人は実現して欲しい未来と、実現しそうな未来とが並んでいた場合、より前者を夢見るように出来ている生き物である。ダレイオスもまた、その生き物としての制約から逃れることは出来なかった。

 兄であり王であるダレイオスから作戦の承認を受けたアルタフェルネスは、早速準備に取り掛かっていた。二百艘の三段櫂船と、ペルシア軍及び同盟国軍の編成が必要であった。勿論糧食と水、武器なども不可欠のものである。それらの準備に取り掛かる一方で、総指揮官となる人物の選定に頭を悩ませていた。大規模な軍隊である。信頼出来ぬ者に預けることが出来る筈はない。そうして同時に無能な者であってはならぬ。幾人かの候補が浮かんでは消え、消えては浮かんできた。一人、その脳裏に引っかかった人物がいる。濃い茶色をした髪と瞳、壮年に近づきつつある王族。その父親は、アルタフェルネスたち兄弟の父であるヒュスタスペスの兄弟で、つまり彼と、王ダレイオスとアルタフェルネスは従兄弟同士にあたる。少々融通が効かないところはあったが、律儀で良く軍律を守るという評価が高かった。声望の高さではペルシア王族中でも上位だろう。その青年の名を、メガバテスという。かつてヨーロッパ担当指揮官だった人物はメガバゾスといい、名前は一文字違いで似てはいるが、血縁関係は全くない別人である。アルタフェルネスからの呼び出しを受けて、彼はサルディスに到着した。アルタフェルネスは王ダレイオスに話したようにナクソスの事情を説明し、最後に高らかに告げた。
「メガバテスよ。兵を率い、ナクソスを攻略せよ」
 青年は、逃れられない運命の軛に、囚われたような気がした。用意された二百艘の三段櫂船に乗り込み、ペルシア軍及び同盟軍で構成された遠征軍を率いなければならない。サルディス総督の任命であるが、スーサにいる王ダレイオスの認可を得たものであるなら、それはまさに王命と言っても良かった。ストレスは少なからず過重であったが、これは王族でもあまり高位に位置していないメガバテスにとっては、一つのチャンスでもある。躊躇することなく任命を拝受し、サルディス総督の骨折りに深く感謝を示して、船出した。ミレトスへと。

 ミレトスへの航海は順調であった。僭主代行のアリスタゴラスと、亡命中のナクソス市民らは既に艦隊到着の知らせを受けて港に待機していた。機嫌良く出迎えたのは当然だろう。彼らの願いと野望を叶えるための艦隊であるのだ。
「遠路はるばる、ようこそ」
「メガバテス殿。宜しくお願いする」
 アリスタゴラスとナクソス市民らが口々に遠征総指揮官を労った。言葉での礼は無料である。しかし流石にミレトスの僭主代行者は、それだけでは終わらせなかった。
「総指揮官殿には些少ではあるが食糧と、それから少しばかりの金銭も用意した。この遠征に使って頂きたい。成功の暁には何れ、ナクソス市民の諸君から弁済はあるだろうが、当座に必要な分程度は私が出すつもりである」
 少し胸を反り返らせたアリスタゴラスに、胡散臭さを憶えつつも表情はにこやかに応える。
「それはありがたい。アリスタゴラス殿、感謝する」
 アリスタゴラスの好意については、メガバテスは確信を持つことが出来なかったが、少なくともナクソス亡命市民の目には、帰国への願望が色濃いと見えた。しかし。と彼は思う。これは、事後にナクソス亡命市民が弁済することになっている。とすれば、これはいわば傭兵である。総指揮官という立場は軍隊全てを掌握することが出来るものだが、これでは彼らを単なる傭兵として扱うのではないか、という危惧がメガバテスを捉えていた。
「ミレトスから、まず北上してキオスへ寄航します。ヘレスポントスを目指すと見せかけて、それから一気にナクソスを叩くのが最上と存じますがそれで宜しいですね?」
 きびきびと話すメガバテス総指揮官の言葉に、ミレトスから合流した人々は深く肯いた。その最初の目的地キオスで、ちょっとした事件が発生するとは、このとき誰も予想だにしていなかった。

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