第二章英雄の末裔

二、ペルセウスの末裔




 伝説によれば、大王キュロス二世が亡くなる前に夢を見たという。それは、再従兄弟の息子である少年が両肩に羽をつけて現われ、一方の羽でアジアを、もう一方の羽でヨーロッパを覆うというものであった。起床して後、考えを巡らせ、彼は再従兄弟を呼びつけた。それはペルシア帝国王族アケメネス一族に名を連なる、ヒルカニア地方長官(サトラップ)、ヒュスタスペスである。壮年と言われる年齢に達しており、人望も厚く、信頼置ける家臣の一人として評価されていた人物であった。彼には、幾人かの妻と幾人かの子が居た。長子はまだ出陣の年齢に達しておらず、その時従軍してはいなかった。その名をダレイオスという。
 人払いをした上で、ヒュスタスペスに問い質したのは、何やら重要な意味を夢に感じ取ったからだった。
「ヒュスタスペスよ。そなたの倅が私に謀反を企んでいることは知っている。されば、そなたは至急ペルシアへ帰り、私が帰国した暁には倅を差し出せるように手配して置くように」
 思いがけない言葉に驚き慄いたのは、家臣としては当然である。
「よもや、そのような! 王に異心を抱くような子に育てた憶えはございませぬ。我らペルシアの民が隷属の境遇から逃れることが叶いましたのも全ては大王のお力によるもの。……しかしペルシアに生を享けながら大王に反逆の心を持つような者が居たなら、即刻成敗せねばなりませぬ。帰国の暁には必ずやご存分に処罰頂けるよう、倅を差し出しましょうぞ」
 声に苦渋を滲ませつつも、大王の命令には逆らわないという姿勢を明確に打ち出している。父までも同罪だと思われれば、その咎は他の妻子にも及ぶ。長子が謀反に加担しているとは思えなかったが、ヒュスタスペスとしては一人の子よりも他を生きながらえさせる方が優先と思えた。息子を問い質し或いは拘束すべく、キュロス二世の前を退出すると、ヒュスタスペスはその足で家臣を連れてキュロスの許を離れ、アラクセス河を越えた。途中、一陣の風が彼の頬を撫でて、何やら物悲しい感覚を憶えた。
「……不吉な」
 その風に、大王キュロスが良く使っている香を感じたヒュスタスペスは、しかしいつまでもそこに佇んでいる訳にはいかなかった。王命を実行せねばならぬと馬に鞭をくれて慌しくペルシア本国へと戻って行った。だが、結局ヒュスタスペスの長子ダレイオスはキュロス大王に召されることもなければ、処刑されることもなかった。何故なら、キュロス大王は本国に戻ることなく、戦場の露と消えたからである。その死については諸説あるが、戦死については間違いなさそうである。

 キュロス二世の死後、長男カンビュセス二世が後を継いでペルシアの王になったのは、紀元前五三〇年である。それから八年程の間カンビュセスは王として生きた。その所業について語られる全てが全て真実であるならば、些か常軌を逸した王と判断せねばならないが、恐らくは少々粗暴なだけだったろう。その急死は紀元前五二二年である。カンビュセス二世が遠征先のエジプトで命を落とすと、側近のものたちは弟バルディヤの即位を何よりも恐れた。単純な君主は多少粗暴であっても扱いやすい。だが、バルディヤは兄程に粗暴で単純ではなかった。カンビュセス二世は急ぎ本国ペルシアに帰国しようとして、騎乗しようとしたはずみに怪我をし、それが致命傷となって命を落としたと言われる。カンビュセス二世の帰国の理由は本国でのクーデターであった。現代では、幼少時から予防接種を行うようになっているし、そういった怪我で落命することはなくなっているが、古代では衛生状態も良いと言えない場合が多く、一国の主でさえも怪我による肉体の壊疽がもとで死に至ることがあった。

 カンビュセス二世亡き後、バルディヤは数ヶ月の間王位にあった。兄王の妻を全て我がものとなし、しかしペルシアの要人には会おうとしない。閉塞した中にいたバルディヤは、長期間に渡る政権の保持について無頓着だったようである。
「あれは本当にキュロスのお子だろうか」
「政を行う意志が本当におありになるのか」
 そういう声が各所から囁かれていた。バルディヤ自身は、王位そのものに対する執着はなかった。ただ、自分にとって姉妹に当たるアトッサを得たいと願ったのみである。そのアトッサを得る為には、王位に座るしか方法はなかった。兄の不在に乗じてその座を得た。しかし実際にアトッサを得、そして兄のものだった女を全て自分のものとしてしまうと、それまでアトッサに対して抱いていた深い関心が、微妙に分散していることに気づいた。届かぬものだったからこそ、アトッサはより妖艶に彼の目に映ったのかも知れない。そして、バルディヤの精神のありようは、口には出さなくてもアトッサに伝わっていた。恋の終りを感じ初めている、恋人同士のように。
「許さない」
 闇の中で冷たい眼差しが虚空を見据えた。
「パイデュメに使いを」
 きびきびと命令を下す。その威容は流石に大王と呼ばれた男の娘と言えた。炎を秘めたような妖しく艶やかな瞳に傍に控えていた侍女はごくり。と唾を飲み込んだ。王を殺してでも手に入れたいと願った者の気持ちが判りそうな気がした。

 カンビュセス二世の妃の一人であったパイデュメは、上流貴族オタネスの娘である。オタネスは、ヘラス(ギリシア)文化に造詣が深い人物で、キュロス二世とも関わりが深い人物であった。パイデュメに繋ぎをとったアトッサは、父親にクーデターを示唆するよう、指示した。
「あ…アトッサ様。そ、そのような…」
 あまりの恐ろしさに当惑し愕然となったパイデュメに、鋭く冷たい視線を投げつける。
「もし、私の言う事がきけぬのであれば。……判っておろうな?」
 口の端を吊り上げて、細く優雅な指先でそっと首の前を切って見せる。宮廷では父オタネスの力を借りることも出来ようけれど、妃達が住むここでは、父の力は全く役に立たない。
「まずは…オタネスに、バルディヤ王が偽者だと伝えて貰う。それから先は…」
 口ごもりつつ、目を伏せた。滑らかな肌は乾きを知らぬ緑の如く、明るい色の髪は太陽の光を弄ぶかのよう。露を含んだかのように潤んだ瞳には憧憬の念を秘めたような色が浮かんで、いっそ艶やかでさえある。うっとりとしたような顔色は薔薇にも似て、片端を軽く上げたその赤い唇は、悩ましい程に蠱惑的であった。パイデュメは神にも等しい王への反逆に恐れおののき、罪の意識に苛まれつつも父への連絡を取った。

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