第二章英雄の末裔

二、ペルセウスの末裔




 まだ温かいプレクサスペスの体は、その体から流れでた血によって、濡れていた。血塗れになった体が倒れているのは城楼の前である。意外なほど安らかな微笑みを浮かべた顔は、満足気でさえあった。徐々に失われていく体温は、生命の証であった。脳は激突の衝撃で凄まじい程に損傷している。心臓が時を刻まなくなり、体の生命反応が少しずつ失われていく。
 彼の一子は、かつてカンビュセス二世の手にかかっていた。王の酌小姓を勤めていた息子は、占い遊びに興じた前王によって射殺されていたのである。「自分が正しければその心臓に当たり、正しくなければ心臓を外れるだろう」という言葉は、ペルシアという巨大な帝国を治める王のものとして、妥当とは言い難いが、王に逆らうことは許されない。彼はみすみす目の前で命を落とす我が子を、ただ見つめることしか出来なかった。その悔恨が、彼を復讐に導いたといえる。だがカンビュセス王自身には子がなかった。彼の血を根絶やしにした王に、同じ思いを与えてやりたいという気持ちがくすぶったが、王自身の子がないのではと彼の復讐心は行場を失いかけた。その彼がふと気づいたのは、王弟バルディヤの存在である。王妃アトッサと恋仲という噂があり、うまく突けば王と王弟とを滅ぼすことが出来そうだった。偉大なる王キュロスは既に死んだ。その血統を憚る気持ちが皆無であった訳ではない。しかし王は晩年徐々に正気を失いつつあったし、この血統がペルシア王として存続していくことに、彼は疑問を持ち始めてもいた。プレクサスペスがやったのは、王の飲料に僅かずつだが毎日薬品を混ぜることと、王弟バルディヤとの間隙をつくことであった。元々猜疑心の強い王である。それに、日毎夜毎に王弟に対する疑念を植え付けることは、彼にとっては然程難しいことではなかった。薬はゆっくりとしかし着実に王の体を蝕んでいき、やがて落馬した傷がもとで王は落命した。現代のような血液成分を検査する技術があった訳ではない。そして普段からその行動は衝動的であった。王の死の真実を疑うものが皆無だったことも彼には幸いした。その復讐の最後の仕上げを見ることが叶わないのは彼にとって幸いだったか、それとも一抹の悔恨だったか、それは誰にも判らない。或いは、バルディヤに付け入られるだけの隙がなかったなら、彼の人生はもう少し違ったものになったことだろう。いずれにせよ、それは最早プレクサスペスには関わりのないこととなった。死せる人にはこれからを生きる人とは違う世界が広がっている。その瞳は生きている何をも、もう映しはしない。ただ、先に逝った愛息子の、幼い笑顔だけが脳裏に浮かんだ。ペルシア人に信望深いプレクサスペスはこうしてその命を終えた。

 プレクサスペス、死す。
 その報せを従者から受けた時、「同志」七人は神殿に居た。これから行うことの成功を祈願していたのである。報せを聞いたダレイオスは、即断した。
「これぞ神が与えたもう好機である。この混乱に乗じて王宮を制圧しようではないか!」
 確かに、これ以上の好機は空前絶後と言えた。
「行くほかあるまい」
 重い腰を最初にあげたのは、オタネスである。慎重論ばかり説いていた彼の突然の変節に驚いた一同ではあったが、好機であることについては疑いの余地がない。血気盛んな年頃であるインタフェルネスもまた、拳を強く握り締めていた。
「猶予はない。直ちに武装せよ。馬引け!」
「おお」
 騎虎の勢いというものがあるとするなら、それはまさにこれであった。

 王宮の門に達したオタネスは、数日前のことを思い出していた。少なからず血腥い色に塗られている未来を思って暗澹たる気持ちを憶えはしたが、それでも止める訳にはいかなかった。そして七人は誰の誰何も受けずに王庭へと馬を進めていた。そこまでは彼らを咎め立てする何ものも居なかったのである。中庭へ到着したところで、事態は急変した。取次役である宦官が数人程、馬で中庭へ入ってきた貴人たちの無礼を咎めた。彼らは仕えていた人に忠義を尽くしたといえるだろう。その忠義が報われたかどうかは別にして。制止する宦官たちを短剣で突き刺し、倒れこむ者たちをそのままに、部屋へ乱入した。その中では先程のプレクサスペスの一件について、マゴス僧が頭を抱えていた。しかし突然の闖入者に気づいた彼らは、壁にあった弓矢や槍を手に防戦を試みた。完全武装の武人たちと、マゴス僧との戦いは、予想以上のマゴス側の粘りによって一時は膠着状態に陥りかけた。互いに励ましあって乱入した七人の同志であるが、実際の戦いでの連携プレーを訓練した訳ではない。また、戦いの場を予想したトレーニングを行っていた訳でもない。マゴス僧たち自身は武芸を嗜んでいる訳ではなかったにせよ、明らかに地の利に恵まれていた。部屋のどこになにがあって、どこに武器となりうるものがあるか、彼らは熟知していたのである。しかし接近戦での弓矢は意味がない。ただ矢の端を持って突くくらいの役割しかない。それでも武器がないよりはマシといえた。必死になって闖入者に矢を投げつける者もいたが、矢が尽きればそれも適わない。やがて一人ふたりとマゴス僧は戦闘力を奪われ、床にはいつくばり、或いは永遠にその瞼を閉ざした。槍を掴んだマゴス僧はまだ腕に覚えがあったと見える。アスティパネスの腿を突き、またインタフェルネスの片目を突いた。彼はこの戦いで隻眼になったが、命には別状なかった。弓矢を捨てたマゴス僧は、隣の小部屋に逃げ込もうとした。そこから別室に逃れることが出来たのである。彼の目論見は正しかったが、惜しむらくは行動の速度が微妙に遅かったことだろう。扉を閉めて鍵をかける前に、ダレイオスとゴブリュアスが部屋に踊りこみ、後者がマゴスの衣の端を捉えて揉みあいになった。しかし窓がない為に、揉みあっている二人のうちのどちらが同志であるのか、俄かに判別がつかなくなっている。加勢をしようと短剣を構えても、上になったり下になったりしている二人の、どちらに加担すれば良いのか判断出来ず、ダレイオスは困惑した。突っ立ったままのダレイオスに声をかけて加勢を要求したのはゴブリュアスである。
「何をしている。早くマゴスを!」
「暗くて見えぬ。そなたを刺すかも知れぬ」
「構うな!」
 その声に励まされたダレイオスは、「そこだ!」という声を聞いて違和感を憶えた。先程のゴブリュアスの声とは少し異なる、くぐもった声だったからである。
「今、上なのはゴブリュアスか…?」
「そうだ」
「違う!」
 瞬時に二人の体が二度三度と入れ替わり、また声が響く。戦うマゴス僧もまた、必死に生き延びようとしていた。
「判った、済まぬ、ゴブリュアス。死んでくれ」
 一気にダレイオスは剣を構えた。その瞬間、ゴブリュアスの声が明瞭に石作りの部屋に響き渡った。
「その剣で俺ごと突き刺せ!」
 同志の声を聞き別けた、ダレイオスの目がかっと見開かれた。一瞬の躊躇いもなく剣が振り下ろされる。
「ぎゃあああああ」
 凄まじい断末魔の咆哮を発したのは、マゴスであった。何とかダレイオスは同志の命を救うことに成功したのである。
「助かった」
「いや、そなたのお陰でマゴスを仕留めることが出来た」
 小部屋を出た二人は、戦いが終結に向っていることに気づいていた。

 マゴス僧達を討ち取りその首を刎ねた一同は、手傷を負った同志を城内の警備の為もあってその場に残し、城外へと駆け出して行った。
「玉座を侵していたマゴスどもを討ち取ったぞ!」
「キュロスの子を僭称した者はマゴス僧であったのだ!」
 口々にそう叫ぶダレイオスら五人は、マゴスの首を示して、行き会ったマゴスを一人残らず殺して行った。血の匂いが狂気をもたらしたものか、それは次第に民衆へと伝染し、七人の「同志」の行為を知った人々は、自分達も同じことをして良い筈だと短剣を抜いてマゴス僧に飛びかかり、彼らを殺戮して回った。たまたま戸内にいた、一部のマゴスを残して、殆どのマゴスが殺戮された。以来、この日はペルシアでは「マゴポニア」と呼ばれ、重要な祭の一つとされるようになった。「マゴス殺しの祭」と。

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