篁文箱二周年特別企画&万聖節突発企画海虹パロディ万聖節


 風が、頬を撫でた。湖の上を渡る風だが、冷たくも温かくもない。
 この海邑は年中ほぼ同じ気温で、雨季と乾季があまり判然としていない。だが、適当な降水に恵まれ、土地は豊かだった。それぞれの時期によって実りが豊かになる果実などはあったが、朝晩が少し冷え込む以外は年間を通じてあまり気候の変化がない。それは、住んでいるものにとっては退屈であっても便利であった。黒い髪を控えめに結い上げた巫女が、ふと作業の手を休めて振り向いた。玲瓏たる美声が形の整った紅唇からそっと漏れる。
「三哥……」
 見慣れぬ衣装に身を包んでにっこりと微笑むのは、巫女の兄である海青玉である。陽光の踊るような見事な黒髪が、今は頭髪の上に載せられた帽子らしきものによって遮られているのが、少々口惜しく思われた。
「さっき、天祥おじいさまの部屋で面白い本を見つけてね。隣の大陸の国の話なのだが。この季節に、亡きご先祖様がやってきてくれるというんだ。それで、子供達がご先祖様の御霊を背負って、一軒一軒家を回り、おやつを貰うというイベントなのだと。とても楽しそうじゃないかい?」
 笑顔爽やか、I Feel Coke.と言った表情は、眩しいとしか形容が出来ぬ。心底楽しそうな海青玉の様子に、巫女は思わず微笑んだ。
「お手伝いさせて下さいませ、三哥」
「手伝ってくれるかい?」
 ただでさえ多忙な巫女の仕事をこなしながらでは到底終わりそうにないと思えたが、敬愛する人の希望はどうしても叶えたかった。深い微笑みを滲ませて肯く。
「まず、何をご用意すれば宜しいでしょう?」
 穏やかな瞳には、敬愛の情が感じ取れる。その明るい茶色の双眸を愛しげに見つめて、青玉は計画書を広げた。
「『若緒藍壇』というものを作りたいんだ。これは、多分橙瓜を使ったものだろうと思う。中身は子供達のおやつに使えば、無駄にはならない」
 寄りそって、計画書に見入る。語尾が微かに籠もったような声が紅玉には心地よかった。

 館の各所に、橙色の奇妙な形をした灯籠が飾られていた。上部に二つ、中程に一つ、そして最下部には横に長く一つ鋭い切り込みが入っている。それはまるで顔のようだと陳菫玉は思った。
「何だ、これは?」
「ああ、菫ちゃん」
 ぱちーん。と音がしたようだった。その瞬間、菫玉の中で何かが弾けた。
「菫ちゃん呼ぶなー!!!」
 鋭い疾風が起こる。振り返りざまに仕掛ける技は菫玉の迅速極まる蹴りである。だが、哀しいかな、軽量級。先年、ついに同じ玉世代の最年少海黄玉にまで身長を越されているだけあって、体重が少々軽い。とすれば当然ながらその攻撃は技の切れに関わり無くダメージが少ない。
「おっと!」
 高く持ち上げられた菫玉の脚をそのまま固定して、にやり。と笑って見せたのは、藺華玉である。九つの年齢差は、少なくはない。特に少年にとっては。
「華玉大哥……」
 がっくりと菫玉は肩を落とした。よりによって華玉。藺家の最年長者にして一番の悪戯好きである。金髪に琥珀色の瞳、がっしりとした体つきは少々肉付きが良い。小柄で軽量級の菫玉からすれば羨ましい程の体躯であった。
「なんか、青玉のヤローが巫女を巻き込んでイベントにしてるらしいな?」
「え?」
 ぴくん。と心臓が跳ねる。一つ年上の美貌の巫女の面影が頭を過ぎった。白い巫女の装束が包む体のラインはいっそ蠱惑的でさえあるが、巫女に対してそういう関心を持つことは酷く背徳的な印象がつきまとって、少年を少なからず悩ませていた。
「おお? 菫ちゃんは紅玉狙いかー?」
 ぐりぐりぐり。とごつい拳が菫玉の頭にねじ込まれる。面白がってやっているのは判るが、体力差のある菫玉には少々辛いものとなっていた。
「私が何か?」
 凛とした鈴のような声が響いて、思わず二人は硬直しかけた。完全に菫玉弄びモードになっていた華玉さえも。それは恐らくトラウマ(心的外傷)に他ならない心身の反応である。良く似た美声の女性はいつもにっこりと微笑みつつもその容赦のなさから同世代の玉の名を持つ人々は勿論、父である叔世代、果ては祖父である天世代にまでも深く根強い影響を及ぼしていたのである。その女性…先代巫女の白玉が亡くなって既に数年が経過しているのだが。やはり芯の瑞まで或いは魂にまでも深く刻み込まれているものらしい。
「や、やあ紅玉。青玉にこの灯籠のことを聞こうかと、そういう話を菫玉としていたんだよ」
 わざとらしいものいいながらもとりあえずそう答えてみる。まだ首根っこを掴まれたままの菫玉は「嘘つき!」と心の中で毒づきつつも、首が締められていて思うように声が出せない。
「差し支えなければ、私がご説明を。ところで華玉大哥」
「うん?」
「そのままでは菫玉が窒息してしまいますわ。どうか手を緩めて下さいまし」
「お、おう」
 窒息死を免れた菫玉は深く深く息を吸い込んだ。

「亡き人を出迎える宴、だって?」
 素っ頓狂な華玉の声に、巫女は肯いた。
「亡くなった人が帰ってきて、一緒に楽しんでくれる祭だということです」
 その声には深く切ない哀しみが滲んでいる。海姓の叔世代の男は、既に皆この世にない。まだ巫女が幼い頃に亡くなったのである。藺姓でも華玉自身の父ではないが、叔世代の男がその時運命を共にしたことを知っている。今となっては遠い過去のことではあるが、亡き人が帰って来るという伝説に、ほんの少しだけ甘えたいという気持ちが判らない程華玉も野暮ではなかった。親たちが亡くなったその時、海青玉は五歳、妹紅玉は三歳だったのである。
「……判った、手伝おう」
 華玉の低音がずしり。と菫玉の腹腔に響いた。普段、そういうイベントがあっても平気の平左で逃げ回る華玉の、そういう姿を見るのは初めてだった。その菫玉の視線にふと気づいて、華玉が少年を小突く。
「何見てやがんでぇ」
 仏頂面でいるが、耳が少し赤くなっている。照れているのかも知れない。と菫玉は思った。

 当日の支度の殆どは、青・紅玉の兄妹コンビが仕上げた。はっきりいって華玉や菫玉がどれだけ貢献したかというと、非常に謎でもある。藺槍玉や鮑藍玉、虞紺玉に至っては、どちらかというまでもなく撹乱作業を言い渡されていたのではないかとツッコミたくなる働きであったが、それに対して巫女もその兄も、苦情を述べたりはしなかった。ついでながら女性陣は縫い物を担当している。当日子供達が着る衣装だということだが、裁縫の苦手な虞黛玉などは針を指に刺してばかりでちっとも進まず、衣装が仕上がるより前に衣装が血だらけになりそうな勢いである。
「痛ッ!」
 彼女の長姉虞紫玉は海一族でも指折りのお針子だが、どうもそういうところは似なかったようであった。そういう黛玉とは対象的にさくさくと仕上げているのは、藺絹玉である。
「絹玉。あんた何で男の癖に裁縫得意なのよ!」
 さくさく進まぬ作業に苛立った黛玉が声を荒げた。はっきりいって八つ当たりである。
「うーん。黛玉四姐程ぶきっちょな方も珍しいですけどねぇ。それにぶきっちょなのを知っててなんで裁縫やってるんですか。他にも係はあるでしょうに」
「……やりたかったのよ」
「わざわざ苦手なものを?」
 首をひねりつつも手の動きは止まらない。流麗な針の動きはいっそマジシャンとでも言えそうである。
「うるさいわね! 私の勝手よ!!」
 ヒステリックに叫ぶ女性程扱いに困るものはない。君子危うきに近寄らずである。
「まあでも紅玉には敵わないでしょうから、あんまり気にすることはないと思いますよー?」
 慰めるつもりで言ったが、逆効果以外のなにものでもない。
「判ってるわよっ!」
 口ではそう言いつつも、言葉に悔しさが滲んでいる。努力をしていない訳ではない。でも自分には向かないのだ。そう思いつつも、紅玉には敵わないという自覚だけはある。何でもそつなくこなす、あの巫女には。半泣きになりながら、衣にざっくりと針を刺した。

 まるで「体操のお兄さん」みたいだ。と巫女は思った。
「さあみんなー! 集まって。衣装を貰ったかい? ちゃんと着れたかい?」
 にこにこ顔の海青玉が子供達を一人ずつチェックしている。
「さあ、これからお家を回ってお菓子をおねだりするよ? 準備はいいかな?」
「はーい」
 容世代の小さな子供たちの笑顔が、眩しく見える。この子たちは、叔世代の人々の大半が亡くなってから生まれた。祖父母の顔を知らずに育った。「子供たちに、おじいさんおばあさんを見せてやりたいんだ」と、青玉は紅玉に語った。それは永久に叶わぬ夢である。だが、「おじいちゃんおばあちゃんと一緒に遊ぶんだ」と語る兄の、子供たちへの言葉には嘘はない。
「さあ、行くよ。『お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!』」
「『お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!』」
「良く出来たね! じゃ、これから一軒一軒お家を回るから、元気良く言うんだよ。いいね?」
「はーい」
「『お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!』」
 子供達の甲高い声が青玉に続いて唱和する。夕暮れに馴染んでいくその橙色の灯籠と、黒と橙色を基調にした衣装を見つめながら、紅玉は青玉の背に被るような、白い影を見た。
 ……すまぬな。苦労をかける。……
 今は最早遠い人の面影が、一瞬だけ見え、聴こえたような気がした。そして、小さな子供たちに混じって、橙と黒を基調とした衣装をまとった大人が何人か、一緒に「呪文」を唱和しているのに巫女だけが気づいた。反対側がうっすらと透けて見えるその人々には、恐怖よりも懐かしさが感じられた。
「あ……」
 紅玉は思わず声を漏らしかけて、それから不審気に見つめた兄に艶やかに微笑みかけた。