揺月――たゆたつき――



 柔らかな湯気の向こうで、白く滑らかな肌は、水を吸っていよいよ清らかさを増している。黒絹のような髪は普段控えめに結い上げられているが、それが少し乱れて簡単にまとめ上げられている様は、不思議にしどけなさを感じさせぬ。細い項にかかった柔らかな後れ毛は、その色香をいやがうえにも引き立たせていた。濡れるような瞳は静かに伏せられてい、その色を見ることは叶わぬ。
「……」
 声にならぬ吐息が、形の整った唇から零れる。その白い息を吸いたいと願う者がどれだけいるかを、紅唇の持主は知らぬ。次第に仄かな桜色に染まる肩はしなやかでほっそりとしているが、甘やかされた者にありがちなたるみや緩みが微塵も見られない。引き締まったと言い切る程に堅いわけではない。適度な潤いを含んだ甘さは年齢相応の張りを示している。その細く白い手首が突如として翻った。すぐ隣にあった木桶を掴んで無造作に投げつけたのである。
「痛ぇっ!」
 悲鳴をあげたのは、金色の髪に琥珀色の瞳をした少年であった。木桶の中に僅かに溜まっていた水も一緒に浴びて、濡れ鼠になっている。
「巫女の沐浴を覗くとはいい度胸だこと」
 振り返りもせずにいうその声は、怒りもせず笑ってもおらず、ただ淡々としている。犯人が誰であるのかも、特定出来ているのであろう。
「大哥に言いつけられたくなかったら、さっさと行きなさい」
 石造りの風呂桶の中からそう言葉を投げつけると、巫女はそのまま行に入ったようである。少年は流石に雷を落とされることを恐れたか、諦めてその場を離れた。

 巫女の名を、海叔瑶という。十六歳になっていた。覗きを咎められた少年は、彼女の従弟に当たる藺叔絮、一つ年下の十五歳である。まだ暗いうちに早起きして覗き見を試みても、叔瑶の木桶を食らっただけで何の利益もなかったことに脱力して、少年はもう一度寝直すことにした。夜明けにはまだ少し間があったからである。ここ海の一族が住む海邑は、年間を通して気温の変化が少ない。細かく言うなら、朝晩だけは少し冷え込むが、四季の変化は少なかった。しかし木桶の水を被るには、夜明け前の風は少し冷たすぎたようである。少年は身を震わせて、自分の部屋へと戻って行った。その少年の「散歩」に気づいた者がいた。水のあとを辿れば、彼が巫女の沐浴を覗いて教育的指導をしっかりと受けたことは明らかである。藺叔絮が身震いしているのを見て、近くにあった布を投げてやった。少年はばつが悪そうな顔をしている。
「二哥」
「罰は受けたようだからな」
 微かに笑いを含んだその顔は、穏やかであった。夜が明けていれば少年と同じ金色の髪と琥珀色の瞳が見えた筈である。夜闇の中では少し緑色を帯びて見えるようだ。
「叔綬に見つかれば、大哥に知られる。叔瑶の気遣いも無駄になろう。早く行け」
 叔絮と呼ばれた少年は、急いで駆けだした。その背中に、今生まれたばかりの鮮やかな赤がさしかかる。
「これは見つからずに済むまいな…」
 そう呟いてふと振り向くと、朝焼けの中を神殿へ向かう巫女の姿が見えた。白い衣が赤に染まる。それは、恥じらいを浮かべた乙女の肌にも似て、心に染み入ってくるようであった。

「叔瑶」
 良く響く低音の声が、巫女の名を呼んだ。
「二哥」
「早くから迷惑を掛けたようだ。すまぬ」
「叔綬?」
 小首を傾げる姿は、年端もいかぬ少女のようである。二哥と呼ばれた少年……藺叔紹は少し顔を綻ばせた。
「害はないから、構わないわ」
 海叔瑶に取ってみれば、藺叔絮の覗きなど、犬猫が飛び込んできたのと大差ないのかも知れぬ。
「叔綬が叔続大哥に言ったので、大哥から雷が落ちた」
「まあ当然の報いね。大哥にお礼を言わなくては」
「お前の心遣いも無駄になったようだ」
 そう言ってじっと叔瑶の瞳を覗き込む。十七歳という年齢とは思えぬ落ち着きを持った少年であった。潜めた息が、軽やかに絡み合い。見つめていた黒瞳がそっと閉じられると、叔紹が巫女の唇に自分のそれを重ねた。巫女の頬が、湯のせいでなく、仄かに染まった。

 武挙の為に海邑を離れていた陳叔牙が久しぶりに帰邑したのは、あと一月程で来年になるという頃だった。武挙の結果が出るのを待つだけならこれ程遅くはならない。武挙で知り合った人物を連れて帰ってきたのである。叔牙に次ぐ席次であったというから、相当の腕の持主であることは明白であった。朗らかで少しおっとりしたところのある青年は、賈宝釵と名乗ったが、どこか浮世離れしたような印象があった。叔牙と気があって、海邑に来ることを望んだという。誰とも打ち解けることが出来る、穏やかな性質は邑人からも好感をもって迎え入れられた。叔瑶だけが、それに気づいた。
「叔牙大哥…。あの方は…」
「気づいたか。私も恐らく偽名だと思う」
 褐色を帯びた瞳に、陰影が揺らめく。
「ご存知でお連れになったのですか」
「確信はなかったが。お前に見て貰おうと思った」
「……天子の気をお持ちですが。薄命の相があります」
「そうか」
 叔牙は推測だが。と予め付け加えて。
「恐らく、太子殿であろうと思う。ただ、何か不安定な感じがあるのだ。お前なら判るかと」
「先見を普段は厭がる癖に、そんなことをおっしゃいますな」
 巫女の怨ずるような眼差しを受けて、叔牙は戸惑いつつ改めて思う。叔紹の豪胆さは人並みではない、と。
「そう言うな。私とて悩み迷うことはある。先のことが見え過ぎて雁字搦めになるのは良くないが。時に指針となるものが欲しいこともある。身勝手なのは承知。聴かせて欲しい」
 躊躇いを隠しきれずに、黒い瞳の奥で波がたゆたう。
「…二日後に」
「判った。面倒をかけてすまない」
 唇の端をちょっと吊りあげて、にやりと笑う叔牙の癖は、父親譲りである。少したくわえはじめた髭は無精髭にしか見えないが、武官としての貫禄を出す為のものだろう。叔牙のがっちりとした後ろ姿を見つめながら、巫女は深く重い溜息をついた。

「叔牙大哥、武挙で首席を修めていたそうよ」
 いつもの叔瑶には似つかわしくない、気怠げな空気が漂っていた。白い肩に掛けた衣を巫女が引き寄せるのを、いけずでもするかのようにそっと滑り落として、ゆっくりと背に指を走らせる。叔瑶は声を殺して堪え身を反らせた。
「まだ、恐ろしいか?」
 夜を共にした数は、まだ多くはない。
「…いえ、ただ」
 叔瑶の瞳が微かに潤んでいる。それ以上言葉を重ねようとはせずに、藺叔紹の胸に頬を寄せた。
「また、見ただけです」
 恐ろしい先見を。それは微か過ぎて藺叔紹の耳には届かなかったが、心には届いていた。叔瑶の先見は、いつも夢である。少年は、叔瑶を抱き寄せて口付けし、再び白い肌に唇を這わせて行った。
「二…哥…」
 切なげな叔瑶の吐息が、夜気に揺れた。

 叔牙は、巫女の先見を聴いて蒼白になった。
「そ…んな!」
 いや、それは薄々と気付いていたことではあった。だが認めたくなかっただけである。叔瑶が先見を違えたことはない。恐らく今度も成就するのであろう。しかし。叶うなら、違えて欲しい先見であった。
「悪かった。さぞ辛かっただろう」
 先見をした叔瑶には非がない。しかし先見を望み、悪い卦が出た時。人は自ら望んだことであるにもかかわらず、悪い卦だと言ったものを咎めだてすることがある。叔牙は、そういった愚昧さと無縁であった。それは、身近に叔瑶を見ていたせいもあるだろう。覗き見をするような輩に平然と木桶を投げつける度胸を持ちながら、先見の夢を見て一人泣く巫女。叔牙は叔瑶を大切に思いながらも、その重荷を分かちあうことは出来ぬと自覚している。叔牙は労るように巫女の頭を撫で、そっと引き寄せて額に口付けた。
「そろそろ、叔紹が痺れを切らしているだろう。行ってやるがいい。迷惑をかけたな」
 客人を送っていく。と言った陳叔牙は、少し離れた所で待っている友人の方へ向かって行った。見送りは要らぬ。と歩きながら振り向くこともせぬまま、右手を豪快に振る。
「大哥らしいな」
 いつのまにか隣に来ていた叔紹が、叔瑶の白くほっそりした肩に手をかけた。黒髪の巫女は衣を引き寄せて、そっと叔紹に寄り添う。
「叔牙大哥も望月の頃には戻るだろう。新年の祭礼にはお前の舞を」
 それから、と少し声を落として。
「そろそろ、長老に許可を頂きに上がりたい。……一緒になってくれるか?」
 空には上弦の月が輝いている。
「先見の夢を見て泣いているような私でも?」
「私にはお前の悪夢を分かち合うことは出来ない。だが」
 差し出された少年の掌は、巫女の全てをしっかりと抱き取ってくれるようだった。その後は、叔瑶を見つめる瞳がはっきりと伝えている。巫女は少年に全てを委ねた。未来も、夢も。それは良い夢ばかりではないことを彼女は誰よりも一番、良く判っていたが。一人で泣くよりは、豊かな未来があるように思われた。月よりもなお白い頬に、大粒の涙が伝い落ちていった。巫女は小さく、だがしっかりと肯いた。
「哥の妻となれば、あいつも覗き見はすまいよ。それに」
 叔紹は軽く片目を閉じて見せた。
「お前の行に付き合うのも、悪くはない」
 え、と目を見開いた巫女の腰をしっかりと抱き寄せる。抗う暇も与えずに叔紹は顔を寄せた。黒瞳を閉じた巫女の耳元に、低く深い声を囁き入れる。
「……」
 叔瑶の紅唇が震えた。
「はい、私も…」
 儚げな声は夜の空気に溶けて消えて行った。

「父様、母様〜!」
 陽光に踊る鮮やかな金色の髪の子供が、駆けていく。
「水玉、転ぶなよ」
 子供と同じ金色の髪を巾で包んだ父親が、幼子を抱いた妻を労りつつ、走って行く子供に声を掛ける。水玉が石に躓いて転ぶ。父は少し歩を早めて近づき、立たせてやった。転んだ水玉は膝を少しすりむいたようだが、大きな怪我はない。
「怪我はないか」
 良く響く低い声である。知性を秘めた琥珀色の瞳が光を反射するように煌いて、妻は目を細めた。
「流石にお前の子だ。転んでも泣かぬ」
 からかうような夫の声に、妻が子を抱いたまま身を寄せる。
「父が主(主人を表す語。ここでは夫への呼びかけ。あなた、程度の意味)ですもの」
 笑って、夫と妻、娘の三人は腰を下ろした。妻から幼子を抱きとって、その顔を覗きこむ。
「槍玉は熟睡型だな」
 風に髪を洗わせている娘を見ながら、海叔瑶は少し声を潜めた。
「強くはありませんが、資質はあります」
「そうか」
 藺叔紹の方は世間話の相槌のような、飄々とした返事である。
「年の近い白玉が居るから、大丈夫だとは思いますが」
 それは、生まれながらにして一族歴代でも極めて強い力を示してしまった少女の名であった。
「あの子は、強過ぎる力と引き換えに……」
「希望は捨てるな」
 叔紹の言葉は穏やかだが、いつも簡潔で力強い。叔瑶は改めて夫を見直して、ひっそりと微笑んだ。
「はい……」
「今年ももう終わるな」
 夫の言葉に、妻は微笑みを深くした。湖を渡る風が、一家をやさしく包んでいた。