白虹



 一片の雲さえ見当たらない空はどこまでも続くような青をしていた。湖の上を吹き抜ける風は温かさの中に微かな湿り気を帯びて、快い程度の爽涼がある。小高い丘の上には枝がほぼ左右対称に張り出した一本の木がしっかりと根を下ろしていて、その根元には二十歳前と思しき少年が寝転んでいた。幸福そうに眠っている姿は見ている者が微笑んでしまいそうな程あどけない。
 足音を忍ばせてその木の根元に辿り着いた少年が三人、いた。一人は寝転んだ少年より三つばかり下だろうか。もう二人は更にそれより幼く、十歳と三歳くらいかと思われた。三人とも黒髪黒瞳、着用している服はそれぞれ、緑と青と空色である。
 青い服を着た十歳くらいの少年が音を立てないようこっそりと木に登った。下から緑の服の十七歳位の少年が一番小さな子を持ち上げ、青い服の少年が受け取ったのを確認すると、悪戯っぽい目をしてにっこりと微笑んだ。青い服の少年がそっと囁く。
「黄玉、いくぞ」
 肯く間もなく、黄玉と呼ばれた子供は寝転んでいた少年の上に落ちて行った。
「うげぇっ!!」
 寝ていた少年が飛び起きたのは言うまでもない。それを合図に三人は歓声を上げながら湖とは反対の方向へ駆け出した。げほげほと苦しげに息を吐きながらようやく立上がった少年は、当然のことながら犯人どもを追いかける。
「この、翠玉、青玉、黄玉!! 昼寝の邪魔しやがって。待ちやがれ!!」
 血相を変えて迫ってくる少年に勝てる筈もなく、まず落とされた黄玉が捕まり、次いで青玉、翠玉の順に全員が囚われの身となった。年上の二人にはちょっときつめの拳骨が飛んできて、二人はたんこぶが出来た。投げ落とされた黄玉にはちょっと軽めの拳骨。しかし三人とも悪びれる様子はなく、「へへへ」と笑う。
「碧玉大哥(あにうえ/哥は兄、大は兄弟順が最初であることを示す。この場合は一番上のお兄ちゃん、程度の意味。以下、二哥、三哥となる)がいつまでも寝てるから一発で目覚めるよう起こしに来たんだ」
「おまえらなぁ!!」
「白玉大姐(あねうえ/姐は姉、以下は大哥の説明に同じ)に頼まれたんだよ。長老がお呼びだから起こして来てねって。場所を教えてくれたのも大姐だよ」
 賢そうな顔に煌々と輝く瞳で青玉が言うと、残りの二人は大きく肯く。
「そうだ。元はといえば碧玉大哥が悪い。昼に長老が呼んでたのに行かなかっただろ?」
「大哥、わるいわるーいっ」
 白玉の名を出されては黙る他はない。面倒から逃げたのは碧玉である。
「判ったよ。でもあれは下手すると死ぬぞ。今度起こす時はもうちょっと考えろよ」
「はぁい」
 四人は湖を背に、館へ戻って行った。名残りを惜しむような風が微かに碧玉の背を撫でて行った。

 少年達は、海という名の一族の出身である。正確にいえば四人のうち実際に両親とも同じ兄弟は翠玉と黄玉で、他の二人は父親達が兄弟であり、彼らは従兄弟同士にあたるが、同姓も異姓も同世代の者は兄弟扱いとなるし、一緒に育てられるから本人達も当然兄弟のように育つ。また、姓を同じくする異性は従兄妹であっても結婚出来ないしきたりがあった。海一族には他に鮑、陳、藺、虞の姓の者がいて、五つの姓を持つ家族は一つの世代につき同じ文字を共有することになっている。四人は「玉」の字を共有する世代である。石造りの館に辿り着くと、少年達は広間へ向かった。
「碧玉大哥、逃げ出しては長老に失礼よ」
 鈴のような美声に振り向くと、巫女の証である白い衣をまとった少女がいた。黒絹のような髪を控えめに結い上げ、黒曜石の瞳と白皙の肌は桃のような愛らしい頬を引き立てている。十六、七歳程の落ち着いた少女は、静かに微笑んで四人を迎えた。
「白玉大姐」
 黄玉が嬉しそうに白玉に駆け寄る。その黄玉を抱きかかえると、笑顔が更に深くなった。
「翠玉、呼んで来てくれたのは嬉しいけど、あまりはしゃいでは駄目よ。大哥がご迷惑でしょう? 三人とも大哥にちゃんとごめんなさいした?」
 ずっと見ていたらしい。三人は顔を見合わせ、碧玉に向かい揃って頭を下げる。
「ごめんなさい」
 正直言えばまだ鳩尾のあたりが苦しいので、年長組の二人にあと一発ずつ拳骨を食らわせたいところだが、白玉に間に入られてはそれも出来ない。
「久しぶりだからな。ま、今日は許してやるさ。後で遊んでやるから次からは昼寝の邪魔をするなよ」
「はあい」
 三人は異口同音に答え、白玉は仄かに微笑んだ。それを横目に見ながら碧玉は「俺も甘いなぁ」と口の中で呟いた。その呟きに気付いたかどうか、白玉がこちらを向いてにこ、と微笑む。五人は楽しげに笑いながら広間へと到着した。
「碧玉、帰ったか。待っておったぞ」
 大音声と呼ぶのが相応しい深くてどっしりした声が掛けられて、五人はそちらを振り向いた。藺の長老、天化である。従兄弟を兄弟と見做す如く、親の世代は全て伯父母・叔父母となる。祖父母の世代も同様であるから当然呼名は……。
「藺のおじいっ!!」
「おおっ、黄玉も居たか!! また大きくなったか?」
 黄玉が天化の膝へ駆け寄った。実際、白玉、翠玉、黄玉の三人を生んだ母は天化の娘なので、藺の長老にとってみれば黄玉達三人は外孫である。末っ子であれば鍾愛が深いのも無理からぬことではあるが、目に入れても痛くない、という俚諺を地で行くような姿で膝に抱えあげ、頭を撫でて相好を崩す。一頻り孫に頬擦りしてから、思い出したように碧玉を見上げた。
「碧玉、お前も来年は成人だ。そろそろ身を固めんか?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、碧玉は藺天化を見下ろした。
「え…?」

 虞の長老の孫娘、紫玉をはじめとする三人の娘が碧玉の妻候補だった。同姓の白玉は当然ながら省かれる。
「しかし。まだ官位に就いた訳ではないし、早いかと」
 碧玉の困惑したような顔を照れと見たか、長老達は口々に言い募る。
「いや、結納だけしておき、成人後に祝言ということであればそろそろ決めておかねばなるまい」
「そうじゃそうじゃ。碧玉は海の次の世代の大哥なのじゃから、早く身を固めぬと弟達が何れ困ろうよ」
「弟達に先を越されると中々決まりにくくなるぞ」
 年配の女性集団は厳しいものがあるが、愚痴と脅迫の入り混じった爺群は更に恐ろしいものがある。幼少の頃から碧玉を見ているだけに、物言いには一片の遠慮もない。久しぶりの故郷は弟妹達にも会えるし、嬉しかったのだがこれを予期して逃げ出し昼寝をしていただけに、碧玉は救いを求めて辺りに視線を彷徨わせた。その目の隅に赤が走ったような気がして振り向くと、紅玉がいた。青玉の二つ下の妹である。丸い大きな目は褐色を帯びて明るく、聡明な光を宿しており、黒髪は白玉のそれと良く似ている。何れ彼女に匹敵する美少女になるだろうと思われた。
「碧玉大哥、さっき遊んで下さるとお約束したでしょう? お話はもっとかかるの?」
「これ、紅玉。碧玉は一生の大事を話しておるのじゃ。邪魔はならんぞ」
「でもおじいさま。大哥は海のことがとっても大事ですもの。ご結婚のことはきちんと考えていらっしゃるわ。もっと一人前になってからじゃないと、お嫁さんを泣かせてしまうからっていつだったかおっしゃっていたもの」
 あどけない笑顔を見ては、長老達も目尻が下がらざるを得ない。
「そうかそうか、紅玉にそんな事を申しておったか。ならば、今日は帰ったばかりでもあるし、許してつかわそう。じゃが、早めに身を固めて、爺達を安心させておくれ。良いな」
「はい、勿論です。お心遣い、まことにありがとうございます。失礼させて頂きます。……紅玉、哥達はどちらだ?」
「大哥、あちらよ。白玉大姐の作って下さったお菓子があるの。お久しぶりなんですもの、お茶を頂きましょ」
「そうか。楽しみだな」
 二人は広間を出て行った。長老達の死角まで来ると、碧玉は大きな溜息を漏らした。
「助かったぞ。紅玉」
 おしゃまな微笑みを浮かべながら、紅玉は背伸びをして、屈み込んだ碧玉の頭を軽く撫でた。
「お疲れ様、折角お久しぶりにお帰りになったのに早速爺さま達に捕まってしまって」
「全くだ。紅玉が異姓ならお前を貰うんだがなぁ」
「あら駄目よ。紅玉は青玉三哥に嫁ぐんですもの」
「そりゃ残念だ」
 明るい笑い声を立てて、居間へ入ると食欲を誘う仄かな香が漂っていた。湯気の向うに白玉の姿が、手前の丸い卓子(テーブル)に左から青玉、翠玉、黄玉の順に並んでいるのが見える。青玉の隣に紅玉がちょこんと腰掛け、黄玉の隣に碧玉が座を占めた。紅玉と碧玉にお茶と取り皿を出しながら、二人の間に白玉が掛ける。海の一族でも中核になる海姓を持つ、次の世代が久々に揃った今日は、ささやかなお茶会をすることになっていた。十五年もすれば宴会になったろうが、三歳の幼児がいる席でさすがに酒肴は出せないので、白玉の手になるお菓子と果物とがバランス良く大皿に盛られていた。面倒でない幾つかのお菓子については、紅玉の手助けも入っている。特に干した藍苺(ブルーベリー)の沢山入った平たい焼き菓子は碧玉や青玉のお気に入りで、白玉と紅玉は二人でそれを作っていた。他に小さな饅頭に甘く煮た野菜の餡を詰めたもの、胡桃や蓮の実が入った月餅、色とりどりの果物が並んでいる。
「碧玉大哥、お疲れ様。紅玉もありがとうね。大哥を助けに行ってくれて」
 優しく白玉が労う。紅玉が現れたのは丁度彼が苛々し始める頃で絶妙のタイミングだったのだが、白玉の差し金かと得心がいった碧玉は、改めて彼女に感謝しながら淹れたてのお茶に手を伸ばした。
「ありがとうよ」
 言葉によらず微笑みで応え、白玉は軽く首を傾けた。
「大姐、ありがとう。これ、とっても美味しい。後で作り方を教えて下さる?」
「いいわよ。じゃあ片付けをしたら、一緒に作りましょう」
「はあい」
「その後で巫女のお仕事の勉強も一緒にしましょうね」
 紅玉が目を輝かせる。
「本当? 大姐。嬉しい。お邪魔にならないよう頑張るわ」
「ん? 紅玉が巫女候補に挙がったのか?」
 驚いたような顔を碧玉が向けると、青玉・翠玉・黄玉の三人はじとーっとした目で碧玉を睨んだ。
「大哥、お手紙読んでないでしょう?」
「ん?」
「この間出したお手紙に書いたよ。ちゃんと大哥があちらを出る前に着くようにって、もう半月も前に出したんだから」
「だした、だした〜!!」
 弱りきった目を白玉に向けたが、流石にこの時ばかりは救助も難しかったようだ。
「私も今日のお爺さま達のお話のことを書いておいたのにね」
 茶碗から桜桃のような唇を離し、可憐なうちにも艶やかな微笑みを向けて、碧玉をたじろがせた。
「それで」
 茶托の上に碗を下ろし、両手の指を軽く絡ませて、にっこり微笑む。
「道中の楽しいお話は、私達にもお聞かせ頂けるのかしら、大哥?」



 淑やかで控えめ、いつもひっそり微笑んでいる物静かな娘というのが白玉に対する海一族一般の認識である。しかし、一族の中でも更に身近な兄弟達はその評価を不当とは思わないまでも、完全に彼女を表現しているとは言いかねると気付いていた。恐らく現在の海一族での最強無敵は白玉であると言っても、碧玉をはじめとする兄弟達は深く肯くだけだろう。数年もすれば紅玉もそれに加担するかも知れない。
 碧玉は早めに都を離れて海邑へ戻るまでの旅について、白玉の、穏やかだが真綿で首を締めるような誘導尋問に引っ掛かって喋らされる羽目に陥っていた。翠玉、青玉、黄玉は勿論、紅玉までも目を輝かせ碧玉の話を今か今かと身を乗り出して待ち構えている。
「山の民の村へ行ってきた。武挙(武官登用試験)を受けた際に決勝で俺と争った奴とすっかり馬があってな。そいつがそこの出身だと聞いて、興味があると言ったらじゃあ来ないかということになったんだ」
 碧玉は多弁ではないが、小さな黄玉にも判りやすいよう、なるべく難しくない言葉を選んで弟妹達に話してやっている。白玉はお茶のお代わりを沸かし始めていた。
「そこの村に暫く居ただけなんで、土産話も何もない。一旦都に戻る予定だったんだが、途中で道が塞がっているところがあってな。結局時間もなくなったし、却って遠回りになるからとそのまま帰ってきちまった。お前達が折角送ってくれた手紙を読めなくて悪かった」
 碧玉の話に一番先に折れてくれたのは青玉である。
「いいよ、大哥、許してあげる。だからその村のお話もっと聞かせて」
 一瞬救われた気分になっていた碧玉は、薮をつついて蛇を追い出していたことに気付いた。
「村の話って言ってもなぁ。大したことは…」
「ふーん、そうなんだぁ。じゃあご飯はどんなのを食べたの? そこの人たちはどんな服を着てたの? どんなお顔をしてた? ねぇ、教えてよ。大哥」
「おしえて〜」
 黄玉が面白がって便乗し、二人は意図せずして輪唱している。碧玉は流石に弱りきった。冒険しすぎて小さな子供には話しにくいことをしてきたなどと言えば、白玉に何を言われるか判らない。悪所通いをしていた訳ではないが、誤解されるとその後が面倒だった。しかしここで「お前達と同じような子供で…」などと言えば火に油、自分達も見たいから連れて行けとせがまれるのは火を見るより明らかだった。そろそろ覚悟を決めないと拙い様だな、と思いつつ上目遣いに白玉を見遣ると涼しい顔でお茶を淹れている。
「さあ、お茶のお代わりが入ったわ。大哥はお忙しくて大変だったんだから、少しお休みさせてあげましょうね。それより、黄玉が出来るようになったことをお話したら? きっと喜んで下さるわよ」
 はにかむような、それでいて誇らしげな笑顔で黄玉がほんの少し胸を張った。
「あのね、おれね。さかあがりが出来るようになったの」
 碧玉は目を瞬かせて、深く微笑んだ。
「すごいな。もうさかあがりが出来るようになったのか。俺達が黄玉くらいの頃には全然出来なかったぞ。えらいな」
 大きな手で黄玉の頭を撫でると、はしゃいで碧玉の膝に乗っかった。
「うお。重くなったな。大きくなった。きっとお前は俺よりでかくなるぞ」
 笑いが居間の広い天井に木霊して、明るい雰囲気が漂っていた。一応ながらも助け舟を出してくれた白玉に、後で説明をしなければなるまいなと思いつつ、碧玉は心の中で首を竦めた。

 久々の故郷の自室でゆっくり出来たのは、夜も更けてからだった。弟たちがはしゃいでなかなか碧玉を解放してくれなかったからである。武挙の為に半年程この邑を離れていたし、その間に様々な出来事もあった。部屋の灯を消して寝台に横になると、考え事をする間もなく眠りに落ちていった。

次へ