良宵



 少年の掌にあるのは、虎目石だった。磨き上げれば、鈍い茶色の中に黄土色の鋭い光が見える筈である。だが原石はごつごつとした石の肌を頑なに守って、その輝きをひけらかそうとはしない。
 黒玉のようだ、と思った。赤い髪と鋭い蒼の瞳を持つ娘である。いや、女性と言った方がいいかも知れぬ。今年、二十歳を四つばかり越え、早婚の一族の中では、そろそろ嫁き遅れになりかかっている。
 石を握り締めて、少年は歩き出した。




「お前が?」
「はい、問題はない筈ですが。俺は海姓直系ですし」
「それはそうだが……。あれは、承知か?」
「いいえ、これからです」
 鮑の長老鮑天興は黙り込んだ。それは願ってもない話である。嫁き遅れになりかけている娘を妻に望むという。それも一族の中では一番格式の高い、海姓の者がである。
「しかし。お前ならもっと他にいくらでもいい縁談が……」
 言い募る長老をにこやかに微笑みつつ制する。
「反対なんですか。賛成して下さるんですか」
 敵対すれば容赦はしませんよ、と続きそうである。勢いに呑まれかけて、ぱくぱくと口をあけるが、上手く言葉にはならない。
「長老は賛成して下さったということで宜しいですね。ありがとうございます」
 寸分の隙もなく一礼して、海黄玉は踵を返した。呆気にとられた天興が後に残された。
「……流石に…あの白玉の末弟だわい」




 鮑黒玉を探して、少年は再び歩き出した。結うこともせず伸ばしたままのやわらかな赤髪を、湖畔にある木の影に見付けて、ほっと息をつく。
「黒玉大姐(あねうえ/姐は姉、大は兄弟順が最初であることを示す。この場合は一番上のお姉ちゃん、程度の意味。以下、二姐、三姐となる)」
 振り返りもせず、声が返ってきた。
「……黄玉?」
 隣に痩身を滑り込ませて、座りこむ。成長期に差し掛かっている黄玉は、既に黒玉と同じ身長になっていた。
「はい。今、鮑長老に申込をしてきました」
 不審気な顔が黄玉を見ている。
「申込って……?」
「結婚の申込をしたんです。長老の許可は貰えたので、黒玉大姐に求婚しに来ました。大事にします。妻に来て下さい」
 まるで天気の話か世間話でもしているかのような、飄々とした物言いである。
「黄玉……?」
「はい。式は少し先になるかも知れませんが。子供は沢山欲しいし、出来れば急ぎたいんですよね」
「あなた、年齢差いくつだと思ってんの?!」
「十二歳ですよ。一回り。同じ干支って相性がいいんだとか。基本的に女性の方が長生きするというし、老後が楽しみですね。何か問題でもありますか?」
「大有りよ! あなたは海姓なのよ? しかもまだ十二歳……」
 最後まで言い切らないうちに、唇を塞がれた。そのまま草の上に押し倒される。押しのけようとしてもがいても、既に黄玉の方が力があった。のしかかるような恰好はそのままに力は緩めず、黄玉は耳元で囁く。
「……俺が欲しいのは、あなたです。あと三年ほっといたらどこかに持ってかれる。そうなる前に俺だけのにしときたいんです」
 耳たぶに軽く口付けをし、再び黒玉を見つめる。切れ長の瞳に、ぞくっとするほど、艶やかな色があった。十二歳の少年とは思えない。そういえばこの子はあの白玉の弟なのだ、と思い当たる。
「もし今あなたが拒絶するなら、この場であなたを抱きます。ついでに口約束で誤魔化そうとしても無駄ですよ」
「……強引ね。力尽くは嫌いよ」
 少年の笑顔に戻って、黄玉は再び黒玉の唇を塞ぐ。
「ええ、力尽くじゃありません。厭がるなら強制しませんよ。あなたが俺を求めるんです」
「大した自信だこと……」
 半ば呆れたように呟く。
「伊達に見つめてきた訳じゃありませんからね」
「……」
 抵抗を止めた黒玉の耳に、首筋に、黄玉の舌が這う。少しずつ呼吸に甘い何かが含まれていくのを感じながら、黒玉は七年前のことを思い出していた。




 海白玉が亡くなったのは、その冬だった。重い病を押して巫女の勤めをこなしていたことを知っていたのは、見習として常に傍にいた紅玉だけだった。その時黄玉は五歳、病臥する白玉につきっきりで看病していた親友黒玉は十七歳だった。
 病に倒れ力を失っていっても、白玉はなお薄紅色の頬をし、いつでも身支度を整えていた。控えめに結い上げた黒髪を下げた姿など、一族の者は見たことがなかったに違いない。巫女として出来ることは全てやり、力を尽した。白玉は危篤の知らせを誰にも出さぬようにと告げた。海邑から馬で二十日あまりのところに赴任している碧玉夫妻にさえも知らせるなという言葉に、紅玉でさえ戸惑いを隠すことは出来なかった。十歳という年齢を考えれば無理からぬことと言えるかも知れぬ。長い病魔との戦いが終わり、死の床に横たわる白玉の姿は、既に息を引き取った者とは思えぬ程に艶やかであった。悲しみに沈む海邑の人々を支え、葬儀を取り仕切ることになったのは紅玉である。歳に似合わぬ落ち着きは白玉の再来を思わせ、その幼い姿に面影を重ねて涙ぐむ者も多かった。白玉死去は即日外の一族の者にも知らされた。その深夜に騎馬で駆け込んできたのは海碧玉である。
「三年とは…」
 それだけ呟くと、崩折れるように白玉の遺体の隣に座り込んだ。
「自分の死に立ち会わせたくなかったか、お前は。その刹那に傍に居ることさえ、俺に許さぬとは」
 誰もが、碧玉が号泣すると思った。彼の白玉への深い愛は邑人の知るところであったので。しかし、彼は静かに傍らに座り続け、まるで彫像のように身動ぎ一つせずにいた。その隣にひっそりと佇んだのは黒玉である。
「碧玉大哥(あにうえ/哥は兄、以下は大姐の説明に同じ)」
 碧玉の肩のあたりがぴくん、と動いた。
「私の声で伝えるように、と申しつかりました。『大哥、どうか家族と御身をお大切に』と」
「……判っている。だが。正しすぎて腹がたつ。……すまん、俺は今、他の事を考えている余裕がない」
「はい、……」
 黄玉は泣き疲れて、碧玉の反対側で眠っていた。赤く腫れた瞼に目をやると、碧玉が鳴咽を堪えながら泣いていた。黒玉は見ない振りをして黄玉を静かに抱き上げ、部屋へ連れて行った。黄玉を寝台に下ろすと、いつもは快活な蒼い瞳がゆっくりと滲んでいく。
「白玉……なぜ」
 黒玉もまた、鳴咽を堪えて泣きはじめた。

 白玉のすぐ下の弟海翠玉が帰邑したのは、翌日だった。それとて異様に早いと言える。夜を日についで帰ったに違いない。しかし、取り乱した様子はなかった。先見の力がある白玉に「二十歳までは生きないわ」と告げられていたからかも知れぬ。寧ろ白玉の横たわる寝台の傍に居る碧玉に、心を掛けていたようである。
「大哥、翠玉です。……遅くなりました」
 碧玉は応えなかった。白玉に酷似した翠玉の顔を見たくなかったからかも知れぬ。踵を返して立ち去ろうとすると。
「行くな」
 背後から碧玉の声が掛かった。
「傍に居てくれ」
 搾り出すような声だった。返事をした時、翠玉は自分の声が震えているのに気づいた。
「はい……」

 手配の殆どを行ったのは、海青玉である。すぐ下の弟としてひっきりなしに挨拶し続けねばならぬ翠玉の代わりに段取りを組み、訪問客のあしらいをする。その手助けは海紅玉であった。巫女見習として白玉のもとで修業を積み、この新年には一人前の巫女としての席次が約束されている。白玉は、いわばそれを見届けるように去ったのだった。巫女としての心得と知識の全てを、この少女に注ぎ込んで白玉は去ったのである。
 葬儀の前日、虞紫玉が憔悴した様子で海邑に辿り着いた。乳飲み児の海漣容を抱えた旅では苦難が多かったろうが、愛妻を労る余裕すら碧玉にはなかったようである。
 白玉を失った碧玉も、柩の傍で憔悴していた。隣に居た翠玉が支えていなければ、あっという間に倒れていたかも知れぬ。白玉の傍でやつれていた夫を見るのは、紫玉には耐え難いことだった。それがいつか来るものだと判ってはいても。それでも紫玉に白玉は語ったのだ。「大哥を支えられるのは、あなただけ。だから、辛くとも、待ってあげて。守っていてあげて」と。黒曜石のような輝きを秘めた瞳は、微笑んではいたが真剣だった。いつか自分に降りかかる何かを、知り尽くしているように。
 柩の傍らに、幼子と共に現れた紫玉に気付いて、碧玉は情けなさそうにわらった。
「謝られても困るだけだろうが。すまん」
 そっと隣に腰掛け、眠る幼子を膝に抱える。その紫玉の耳元で、そっと囁く。
「ずっと、俺の傍に居てくれ」
 それは二度目の告白だった。柩に横たわる白玉が、永遠に耳にすることが出来ぬ言葉であった。
「……はい、お心のままに」
 碧玉は、幼子ごと、紫玉をしっかりと抱きしめた。その瞳に、新たな涙とともにようやく力が戻ったような光がきらめいた。

 黒玉がようやく自室に戻ったのは、葬儀が終った翌日の朝だった。夜を徹して行われる葬儀は、幼い紅玉には少なからず辛かったことだろう。それでも白玉の為に凛々しく葬儀を執り行った姿は、既に風格ある一人前の巫女であった。
「黒玉大姐」
 部屋に入る直前に掛けられた声に振り返ると、黄玉だった。
「傍に居てもいい?」
 あどけない笑顔を誰が拒絶出来るだろう?
「良いよ。今日は一緒に休もうか」
 最初の求婚の言葉は、それと認識されずに受け入れられた。それが求婚の言葉だったのだと黒玉が気づいたのは、それから五年後のことである。




 最初は身を避ける為に肩に掛かった筈の手が、やがて徐々に首の後ろへとずれていき、血色のいい項の後ろあたりでその手が気だるげに組まれると、太くはない指に遅れ毛がふんわりと掛かる。滑らかな肌の襟元をくつろげていた黄玉の左手が、ゆっくりと、しかし確実な歩みで次第に胸の頂に向かって移動を始めていた。膝のあたりまで巻き上げられた裾から侵入した右手の指が、瑞々しくしっとりとした内腿を柔らかく愛撫し、その位置を更に奥へとずらしつつ、深さを加えていた。首の下の窪みを撫で鎖骨をかすめた舌が、徐々に下方へ探検をはじめている。黄玉の指が胸の頂上に登りつめようとした瞬間、静寂が破られた。
「あーっ!」
 いきなり素っ頓狂な叫びを上げた黒玉に、体勢も顔の位置も崩さず、愛撫の手を止めることもなく、穏やかに黄玉は聞いた。
「どうしました? 大姐」
「今日は駄目なの!」
 一瞬その動きを止め。そうしてはたと気づき、黒玉を見上げてにっこりとあどけない少年の顔で笑う。
「じゃあ『終ったら』いいんですね?」
 しまった、と黒玉が思った時には遅かった。視線を僅かにずらした柔らかな頬は、流石にうっすらと血の色を帯びている。
 襟元と裾に差し入れていた手を黒玉に振り払われ、仕方ないといった風情で首の後ろで組み、黄玉は隣に寝転がった。
「婚儀は、俺の年齢を考えれば異例と言われるでしょうが、今年中にでも挙げたいんですよね。衣装は紫玉大姐が作ってくれるそうです。碧玉大哥は笛を演奏してくれることが決まってますし、紅玉二姐は巫女舞を約束してくれました。翠玉二哥は青玉三哥と一緒に剣舞を披露してくれます」
「……!」
「あ、そうそう。ここへ来る前に、天興おじいさまの許可を貰ったことを一族全員に報告しておきましたから、今帰るとちょっと大変なんですけどね」
「……嵌めたわね?」
 多少恨みがましさの籠もった視線を向けると、にんまり、という形容が似合いそうな笑顔が返ってきた。
「追い詰めて追い詰めて、最後に残しておいた逃げ道の出口で、両手を広げて待ってるんです。俺もそれだけ、真剣なんですよ。……ま、これっくらいは後のお楽しみに残しておいてもいいですけどね。ちょっと残念ですがとっておきますか」
「ってあなた、十二歳!!」
「それが何か問題でも? 人倫にもとるような事をしてる訳じゃなし、多少早熟なのは咎められることじゃない。子孫繁栄は寧ろ褒められるべきことでしょう?」
 開いた口が塞がらないというのはこのことかも知れない。黒玉は眩暈を起こしそうになった。
「ま、今日はここまでで許して差し上げますから、約束だけ下さい」
「許すって……黄玉、あなたねぇ…」
 そう言いかけた黒玉の右手をそっと自分の右手の上に載せ、起き上がる。視線の高さを等しくしてじっと見つめて黄玉がにっこりと微笑むと、拗ねたような目が少年の顔を見上げた。その目に微かな期待を読み取って、黄玉の笑みが深くなる。
「黒玉大姐、愛してます」
 なおも躊躇う黒玉を抱きしめて、耳元に囁く。
「あなた以外は要りません。自分で愛した男しか抱かない。いつだったかそう言ってましたよね。俺はあなたを抱きたいしあなたに抱かれたい。人生を共有する伴侶を決めるのに、早すぎたとは思いません。寧ろ遅すぎるくらいだ」
 黄玉の指が黒玉の背筋をゆっくりと這う。思わず声を漏らしそうになりながら、体を竦ませる。
「俺と共に生きて下さい。……あなたが欲しい」
 ここ数年で次第に力強さを増してきた胸に、頭を預けながら無言で肯いた黒玉に、今度はそっと唇を重ねて、黄玉はその手に虎目石を滑り込ませた。

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