良宵



 海白玉の面影が、ふと揺れたような気がした。振り向くと、まだ幼い彼女の弟海黄玉だと判る。それでも暫くの間、切なくて、たまらずにいた。葬儀の後、黄玉と一緒の寝台に休んでいたのは、白玉の身代わりをつとめようとしていた訳ではない。親友が恋しかったからだ。黄玉が眠ってしまうと、小さな少年に背を向け、枕に顔を埋めてひっそりと声を消して泣いた。血は同じ。でも白玉とは違う。それを判ってはいても、それでも白玉の面影を見ていたかった。失ったものの大きさは他人には計り知ることは出来ぬ。その形も大きさもそれと示すことは出来ない。ただ、かけがえのないものを失ったということは、一族の者に共通の認識であった。一緒に語り合えた筈の虞紫玉も、今は夫とともに白玉の居ない隙間を埋めていることだろう。
「黒玉大姐」
 声を押し殺していたが、起こしてしまったろうか。はっとして涙を拭い、笑顔を作ろうと試みながら振り向くと、黄玉が身を寄せてきた。
「一人で泣かないで」
 紅葉のようだわ、と白玉が評していた小さな両手を黒玉の頬にあて、潤んだ瞳を向ける。
「そうね……一緒に泣きましょう」
 白玉の面差しを宿した少年を抱きしめて、泣いた。その耳に、そっと黄玉が囁く。
「白玉大姐がね、ゆってたの。黒玉大姐は淋しがり屋だから、黄玉が傍に居てあげてねって。だから、俺、ずっと傍にいるからね。泣く時は俺が一緒だからね」
 小さな体に回した手に、力を込めた。一晩中泣き明かした翌朝は、瞼が真っ赤に腫れた。誰もそれを咎めない。笑わない。鮑黒玉は、ようやく一歩を歩き出せた気がした。
「ずーっと、ずっと。一緒だからね」
 黄玉が繰り返し囁く言葉がいつまでも耳に残っていた。黒玉は翌日の夜からぐっすりと眠れるようになった。時々は親友を思い出して、ほろりと泣く夜はあっても。
「白玉……」




 黄玉の婚礼は、あっという間に決まった。反対者が居なかった訳ではない。寧ろ多すぎたが故に急いだと言える。反対する殆どは黄玉の花嫁候補世代の娘を持つ家からである。
「早すぎるのではないかしら? だって青玉三哥だってまだでしょう? それより七つも下の黄玉が先で、しかも花嫁が一回りも上だなんて」
 候補から微妙に外れるが、海青玉と同年で独身の虞黛玉などはそう言ったものである。
「年上女房というのは羨ましいが、ちょっと上過ぎやしないか?」
 黛玉の視線を伺いつつ、藺槍玉が虞紺玉に言うと、にっこり微笑んで応えた。
「君も年上を貰うつもりがあるなら、そんなことを言うものではないよ」
 一瞬慌てた様子を見せたものの、黛玉の耳に届いていなかったと見た槍玉がほっと吐息をついた。
「紺玉三哥には敵わないな」
「それに」
 チラリと妹の後ろ姿を見るようにして、紺玉は意味ありげな笑いを浮かべる。
「結構いい組み合わせだと思うな」
 海翠玉はすぐ上の姉である白玉の喪があけて間もなく藺水玉と結婚していたが、それに続くと思われた青玉はまだ相手を定めておらず、黄玉に先を越されると決まってもそれについては特に気にした様子はなかった。
しかし海姓兄弟よりも他の人々に与えた衝撃の方が比較にならぬ程大きかったようである。海姓兄弟は白玉と黒玉の深い繋がりを知っているし、黄玉が幼い頃から並々ならぬ関心を寄せて黒玉に接していたことも知っていたが、一族内ではちょっとした波風がたった。その渦中にいて、一番悩んでいたのは求婚された当の黒玉である。

 鮑天興が黄玉の求めに応じてから三月後に、婚礼が執り行われることになった。婚前交渉自体は別に一族の中で忌むべきものではないが、それでもその直前は二人とも軟禁に近い状態に置かれたのは、風評の内容と、若すぎる花婿の花嫁に対する並々ならぬ情熱を込めた大胆な行動によるところが大きかったようである。二人きりで会うことは許されず、必ず同席者がいること。各自の部屋へ行く場合は扉は開けっ放しにし、扉の外から見える位置に両人が床に足を付けていること。などが課せられた。青玉のような律儀者ならいざ知らず、それをいちいち守っている程几帳面な黄玉ではない。
「黒玉大姐、いきましょう」
 神殿にふと現れて、強奪するように黒玉を連れ去ったのは、挙式の数日前である。
「お、黄玉?!」
 片手で軽く黒玉を持ち上げて、にっこりと微笑む。艶やかな毛並みの黒馬は力強く、二人を乗せて駆け出して行った。
「碧玉大哥みたいな初夜はごめんですからね」
「!」
 馬は苦手ではなかったが、横ざまに、それも誰かに乗せられるのは初めてだった。しっかりと支えてくれる胸に縋りつく姿は、少女のような頼りなさを感じさせて、いつもの毒舌ぶりが嘘のようでさえある。黒馬を走らせてたどり着いたのは、海邑から少し離れた森にある泉だった。清らかな水がこんこんと湧き出し、小鳥のさえずりが心地よく木霊する。泉のふちには洞窟があり、そこは海姓兄弟が幼い頃から遊び場にしてきた場所だった。泉の傍に馬をつなぐと、黄玉は黒玉を抱き下ろす。地面にその足が着く直前、何かを噛み締めるかのように、腕に力を込めていたことに赤い髪の娘は気付いた。
 明るい木漏れ日の中で黒玉に向けて明るい笑みを見せると、まとっていた衣を脱ぎ捨て、少年はざぶんと泉の中に身を躍らせる。水を含んで艶やかな黒髪が光に煌く。柔らかでいながら張り詰めた肌と少年の面影を色濃く顕わす痩身は、黒玉には最早眩しすぎた。はしゃいで泳ぐその姿からさり気なく目を逸らし、脱ぎ捨てられた衣をたたんで膝の上に置いて座り込む。やがて黄玉が泉の中から真顔で静かに手招きするのを見ると、ゆっくりと立上がり、衣を脱いで近くの岩の上に置き、表情を消してゆっくりと冷たい水の中に褐色の滑らかな足を浸した。実りのときを迎えた豊かな体を両の手で隠そうと試みるが、待ち受けていた黄玉は、その内側から手を差し入れて抱きあげ、紙細工の小舟でも扱うかのように泉の中へそっと降ろす。
 黄玉は微笑み、花嫁の顔を確認するように頬を手で包んだ。水音を立てて白い羽が散る。小鳥が飛び去って行くのが黒玉の目の隅に映った。
 少年が覗き込むように唇を寄せ、貪るように二人は唇を重ねた。腰のくびれを支えるように黄玉が次第に力を込めて抱きよせ、自らの膝の上に黒玉を載せる。肉置きのしっかりした臀部の窪みにそっと少年が指を走らせると、堪えるように成熟した体を反らす。その水に濡れた胸の頂を少年がついばもうとした瞬間、がさがさ、と木の葉を踏みしめる音がした。黄玉の頭をかき抱く両手が少年の肩に縋るように掛かり、黒玉は夢見るように目を閉じながら、森に棲む動物だろうかと考えていた。
「誰かいるのか?」
 思考が停止し、黒玉は目を開いた。岩場の向う洞窟の方からやってくる、見慣れぬ衣装をまとった見知らぬ青年―――翠玉と同世代に思えた―――と目が合った。
「きゃあああ!」
 胸を隠し慌てて泉に身を沈める。黄玉は声のした方に目を向け、立ち上がって黒玉を背中に庇った。岩の上からひょっこりと顔を出す。焦茶色の髪、碧みを帯びた瞳の青年である。木漏れ日がその瞳の中に降り注いで、少し紫がかって見える。
「どなたですか?」
「……お前、もしかして?」
「あーっ!」
 それは、実に七年ぶりの邂逅だった。




 葬儀が終ったあと、神殿で白玉のことを考えながらぼーっと過ごしていた時期があった。くるくると良く動く紅玉を見つめながら、幼い頃の白玉の面影を重ねて見る。ふとその紅玉と目が合うと、茶色の瞳が微笑んで、ああ白玉はもう居ないのだと思い知らされた。そんな紅玉を同じように見つめている人影に気付いたのは、暫く経ってからだった。
 虞縞玉は白玉より一つ下だった。その縞玉が巫女を見つめていたことに黒玉が気付いたのは、自分と同じように紅玉を見つめる姿を見かけてからである。
「縞玉大哥」
「ああ、黒玉」
「……白玉に言わなかったのは何故?」
 縞玉は驚いたように目を見開いて黒玉を見、視線を外した。
「皆には黙っていたけど、もう何年も前から申込をしていた。『私はお傍に居続けることが出来ませんから』と」
「……」
 言葉が出なかった。白玉は一人で消えて行くことを選んだのかと。
「せめてほんのひとときでもいいから一緒にと願ったけれど、『大哥はそのあと苦しむでしょう。私は大哥が苦しむようなことを喜んでする女だと思いますか』と重ねて問われた。残されるものの苦しみはずっと続くが、残していかねばならぬものも苦しまねばならぬ。残して行かねばならぬことを知り尽くしているゆえに。それは承知してはいたが……」
「白玉らしい、選択です」
「何よりも」
 ふっと遠くを見つめる眼差しをした縞玉は、どことなく狂おしい何かを秘めていた。
「白玉大姐の心は、私の上にはなかった。私はそれでも良かったけれど」




「七年ぶり…か。それにしてもまあ色っぽいところを……」
 邪魔して悪かったな。というのは小声で、黄玉にそっと囁いたようである。そういって青年は再び黄玉と黒玉を見比べた。馬に積んでおいた布で水分は拭ったが、それでも微かに二人に残る情感は如何ともしがたいようである。まだ水気を含んでいる黒玉の赤い髪は、普段よりも少し沈んだような暗い色で、血の色に似ていた。それが軽くゆったりと波を描いて、朱を秘めた項にかかり、そこはかとない艶かしさを醸し出している。黄玉はまもなく妻となる女性を少し庇うように立ち、言葉をつないだ。
「縞玉大哥、予想以上に早かったんですね」
 既に落ち着きを取り戻している黄玉が、族兄に声を掛けた。既に挙式については耳に入っている筈である。しかしそれにしても妙な場所で出会ったものである。
「いや……、多分違う」
 いつになく歯切れの良くない縞玉の台詞に、黄玉の黒瞳が艶やかさを増した。
「大姐、お願いがあるんですが」
 黒玉に向き直って、にっこりと微笑む。
「長旅で疲れている縞玉大哥の為に、馬を持ってきてくれるように青玉三哥に頼んできてくれませんか」
 依頼の体裁をとってもそれは事実上命令に近い。しかも反論出来ない満面の笑み。長くその姉白玉の傍にいた弟は、何時の間にかその技術も身につけていたようである。
「私は別に……」
 そういい掛けた縞玉も、黄玉の視線を浴びて硬直する。亡き姉譲りの強烈な視線である。容貌は然程似て居ないのだが、その黒髪と黒瞳がいやでも白玉を思い出させた。そして、丁度縞玉が知っていた白玉も今の黄玉程度の身長だったのだ。
「やっぱり、お疲れのようですね。大姐、ご面倒をお掛けして申し訳ないですがお願いしますね」
 にっこり微笑みつつ、反論を許さないあたりは白玉にそっくりと言えた。在りし日の親友を思って胸がつんとなるのをこらえながら、黒玉は軽く肯き、馬に飛び乗る。
 遠ざかる馬の蹄の音を聴きながら、少年は族兄に声を掛けた。
「何か、あったんですね?」
 女に生まれていたら、恐らく間違いなく巫女になったであろう少年。その視線はかつて縞玉が愛した少女のそれに似ている。
「流石に巫女白玉に一番近い者、だな」
「今は紅玉二姐が巫女ですよ。かつての白玉大姐そのままに」
 空を振り仰いだ縞玉は、目を閉じていた。かつての白玉の面影を、もう一度心に刻もうとしたのかも知れない。容貌が似ている訳ではないが、黒髪は同じ。服装も同じ。違うのは、その瞳の色。海姓には発現したことのない、明るい瞳。かつての十歳の少女も今は十七歳になっている筈だ。白い巫女の衣をまとった紅玉は、それだけで白玉を思い出させることだろう。
「それで」
 黒玉を前にしては見せたことのない、厳しい表情で、黄玉は族兄を見つめる。
「教えて頂けますね?」
「その為に遠ざけたか。……ま、当然だな」
 関わりを持つ羽目になるのなら、教えざるを得ない。白玉が存命であればそうせざるを得ないだろう。しかし。関わりを持たずに済むのなら、余計な心配は掛けさせたくない。それが生涯を共にすることを決めた、大切な存在であるなら尚更。
「ええ。特に黒玉大姐は無垢の魂を持つ存在ですから」
 その瞬間、思わず縞玉は噴出した。
「お前、黄玉。まさかここで『初めて』……」
「ここは清浄の土地ですからね。少なくとも黒玉大姐を守る誓いをするのには相応しい場所の一つでしょう?」
 じっと黄玉を見つめる瞳に、何とも言えない光が灯る。そうきたか。と心の中で思いつつも、流石に口には出さない。
「で、そろそろ本題に入って下さいよ。何かがあったから、帰ってきたんでしょう? 俺の婚儀の知らせが叔瑤叔母上の所に届く前に」
 言葉も態度も変わらぬ。ただ、その鋭さは柔らかい表情をしてはいても心の中に切り込んで来る。かつて縞玉は同じ感情を何度も憶えた。その姉であった巫女に。
「叔母上の命令でな……」




「縞玉大哥、それは…?」
「言葉通りだ。白玉大姐には想い人が居たと思う。それが誰なのかまでは判らなかったが」
「そんな…。そんなこと、一言も」
 白玉は、言うべき言葉と相手を選ぶ娘だった。巫女という立場が自ずとそうさせたと言える。
「黒玉にも、か。では一人でその秘密を抱えたまま、逝ったのだな。白玉大姐は……」
 穏やかに浮かべた淋しげな微笑に、赤い髪の娘はふと胸をつかれた。
「一緒にその淋しさを別けあえるのは、黒玉だけだろうが…。小さな騎士殿が控えているからな」
「大哥……」
 笑おうとして果たせず、泣きそうな顔になったことを自覚していた。
「いや、傷の舐め合いをしては白玉大姐に笑われるだけだろう。時間はかかるだろうが、待つさ。大姐が私に相応しいと思った者が、他に居たということだろうから」
「大哥……」
 白玉は、何を思って逝ったのだろうか。縞玉は巫女への思いを振り切るように館へ戻って行った。黒玉は夜の闇に飲み込まれて行く神殿で、立ち尽くしてその後姿を見ていた。その後、縞玉を神殿で見かけることはなくなった。宵の明星が煌いて、波打つ赤い髪を静かに照らしていた。
「大姐! やっぱりここに居た」
「……黄玉」
 寄って来たのは、白玉の小さな弟だった。良く似た面差しの、小さな少年。その顔を見れば胸がしめつけられると判っていてなお、離れることが出来ずにいた。
「もう遅くなったよ。お食事して、お風呂入って、お休みしよう」
 抱え込んだ膝に顔を埋めて、黄玉の顔を見ないようにしながら答える。
「……今日は、哥さま達と一緒にしてくれる?」
「や! 大姐がいいの!」
 そうやって甘えてくる黄玉の手が、黒玉の手を取り引っ張って行こうとする。涙を堪え、顔を背けた。幼い子に言うべき言葉ではないと判ってはいても、もう抑えられなかった。
「お願い、一人にして!」
 びくっと少年は体を震わせ、掴んでいた手を離した。みるみるうちにそのつぶらな瞳が涙で滲んでいくのが気配で判る。
「俺、なにか悪いことしたの?」
「違うわ。そういう訳じゃないの。ただ、今は一人にしておいて。お願いよ」
 罪悪感に包まれながら、黒玉は繰り返す。堪えていた涙は、もう頬を過ぎて顎から滴り落ち始めていた。
「じゃあ、白玉大姐のこと?」
「えっ……」
 泣き濡れた顔を拭うことも忘れて、黒玉は問い返した。
「だったら、憶えていて。俺を大姐の身代わりにして。白玉大姐のこと、忘れないでいて」
 そういって両手を広げて抱きついてくる小さな子供を、拒むことも出来ずに黒玉は泣いていた。
「身代わりって…? 黄玉、何を言っているの。あなたはあなたでしょう。誰も白玉大姐の代わりにはなれないし、誰もあなたの代わりにはなれないのよ」
 五歳の幼児に理解出来るかは判らないが、それは言わねばならぬ。半ば自分に言い聞かせるように語り掛ける。
「ちーがーうーの! 黒玉大姐の涙が乾くまで、俺が傍に居るの。もしずーっと忘れられなくて苦しかったら、ずーっと俺が傍にいるの!」
 白玉……?
 その時、黒玉はようやく気付いた。白玉が、自分に残していってくれたもの、小さくて愛しい存在を。しかしそれは同時に、その小さな存在の何かを縛る結果になるのではないか?と赤い髪の娘が危惧した瞬間でもあった。
「それは……。白玉大姐から言われたこと?」
 だから『私に』拘るの? その言葉を続けることは出来なかった。
「ううん」
 黄玉は元気良く頭を振った。
「大姐はね、こう言ったの。黒玉大姐にとって、黄玉は必要な存在になる。黄玉には、黒玉大姐が必要な存在になるって。意味は良く判らなくていいから憶えておきなさいって」
「……」
「だから俺は大姐の傍に居るの。大姐が俺のこと、要らないって言うまで」
 親友に似た、黒曜石のような瞳が、黒玉をじっと見つめていた。
「要らないなんて…言わないわ」
「本当?! 大姐、大好きっ」
 首にしっかりと抱き付く黄玉の体を受け止める。
 先に私が要らなくなるのは、きっとあなたの方よ、とは言えなかった。切なすぎて。

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