良宵


十一


 久しぶりに海邑に戻った虞縞玉を出迎えた中には、初対面の者もいる。縞玉がこの海邑を去って、既に七年が経過しているのだ。場所は変わらぬ。ただ、中に居る人の姿が変わるのだ。幼かった者も目に見えて成長している。そこに戸惑いを憶えるのは、七年前の記憶が鮮やかに脳裏にあるからに他ならない。
「縞玉大哥」
 声を掛けてきた人物に、思わず縞玉は目を細めた。記憶が正しければ、もう十九になるのだな。と改めて思う。
「青玉だね。随分成長した」
「お久しぶりです」
 柔らかな微笑みは変わらない。変わったのは体格と声である。海碧玉よりは少し小柄でほっそりとしてはいるが、がっしりと逞しい体つきになった。語尾に微かに籠もったような響きがあるのは相変わらずだが、より深みのある声は、懐かしい人を思い出させる。
「叔父上に、随分似てきた」
 破顔した海青玉を見て、律儀さも。と心の中で添えてみる。今回、縞玉は海邑に戻るつもりはなかった。旅の途中で寄ることになるかも知れないとは思ったが、海黄玉と鮑黒玉の「濡場」に遭遇しなければ、少なくとも今日帰邑することはなかった筈である。部屋の支度や急ぎの宴の用意などを整えてくれたのは、恐らく青玉であろう。
「世話をかけたな」
 軽く添えられた労いの言葉に、「いいえ」と言葉を返す。その表情が不意にやわらかくなった。
「?」
「縞玉大哥、お茶をどうぞ」
 軽やかな鈴が立てる音のように、玲瓏たる美声が縞玉に降り注いで、思わず振り返る。碧みを帯びた瞳がまんまるに見開かれた。あでやかに微笑んでいたのは、巫女の証である白い衣をまとった海紅玉である。抜けるような白い肌は、満月の如き輝きと瑞々しい透明感に溢れ、艶やかな薄紅色の頬と、控えめに結い上げた漆黒の髪がそれを彩る。聡明さを秘めた茶色の瞳は陽光を受けて明るい輝きを映し、肌よりも白い歯並みが紅唇の内側に微かに見えて、まさに明眸皓歯という言葉そのものであった。装飾もなく質素とさえ言えるその装いは、寧ろすらりとした肢体の線を最大限に引き立たせこそすれ、損なうものではない。すっきりと伸びた背筋は無理も気負いもなく、しなやかで芯の通った精神を感じさせる立居振舞は、無駄のないものでありながら、優美でさえあった。そう、かつて縞玉が愛した巫女、海白玉そのままに。
 紅玉が差し出した茶碗を取り落としそうになって、それに驚いた子供の悲鳴で縞玉は我に返った。
「紅玉……か!」
 容貌は似て居ない筈である。所作の一つひとつをとっても、それぞれに違う。それとも巫女姿が縞玉に亡き人の思い出をもたらすものなのか。
「白玉大姐に匹敵する巫女になったな」
 越える、とは表現したくなかった。縞玉にとってはかの人は最高の巫女だったのである。
「いいえ。まだまだ私如き、白玉大姐の足元にも及びませぬ。どうかご指導ご鞭撻を」
 細腰を落として軽く膝を曲げ、上体を少し倒すようにして優雅に頭を下げた。伏目がちにした瞳は露を含んだ薔薇の蕾にも似て、ほんのりと色づいているかのようである。謙虚さはすぐ上の兄譲りだろう。
「螢璃<けいり>の器……」
 それは、縞玉がこよなく愛用した器だった。海邑では建物を作る際に使った石の破片や粉を元に様々なものを作る。その一つがこれであった。陶磁器の持つあたたかな感触と、硝子の透明感とを合わせ持つ淡い黄緑色の器。粉状になった石を水と練り上げて成型し、乾燥させた後に窯で焼くのである。この技術を開発したのは、かつてこの海邑を作りあげた初代邑主海求南と、その盟友陳以南だったと言う。
「憶えていてくれたか」
 そう呟いたのは、茶をすすってからである。それは縞玉がいつも好んで飲んでいた茶葉だった。
「お帰りなさい、大哥」
 青玉はにっこりと微笑み、その後ろに控えめに佇む紅玉もまた、懐かしい者を迎える目をしていた。
 虞縞玉は七年ぶりに帰邑したのである。

 宴は、日が落ちてからであった。本来は客人になることはありえない縞玉だが、七年ぶりの帰邑となれば宴を張るのも当然かも知れない。青玉は宴の采配をしており、紅玉は当然ながらそれを手伝っている。くるくると良く動くのに忙しないという印象を与えぬ紅玉をぼんやりと見つめながら、縞玉は杯を重ねていた。久しぶりに語り合う海碧玉は、同じ女性を愛した人物である。もっとも、碧玉はそれを知らないだろう。縞玉がかの巫女に申し込みをしていたことを知っているのは、数える程しかおらぬ。宴が一段落して、余興に、と碧玉が剣舞を申し出た。その剣技を披露する人物として碧玉が選んだのは男女二人、青玉と紅玉である。巫女は、指名を受けて少し躊躇うような様子を見せたが、青玉が微笑みかけ、耳元へ何かを囁いて刀を取ると、それを受けるように肯き、静かに細身の剣を取った。衣装はそのまま、広間の中央に歩みを進める。紅玉を見つめていた縞玉の目が、僅かに細められたようである。
 二人は中央で縞玉に向かって揃って一礼すると、それぞれの利き手に得物を取る。青玉はいつもの穏やかな笑みのまま、紅玉はその茶色の双眸を伏せる。両者の得物の刃がかちんと音を立てた。それが始まりの合図であった。さっと左右に別れ、それぞれの得物を律動的に走らせる。流れるような動きは、触れ合うようでいながらかすりもせずに、それぞれが優雅な曲線を描いていた。片方が上段に振りかぶれば片方は下段に。甲が下段へ構えれば乙は上段へ。一が鋭く風を薙ぎ払えば二は緩やかに風を撫でる。仰け反った紅玉の上を青玉の刀が過ぎ、青玉の飛んだ足元を巫女の剣が突く。それは朱鷺が相手を求め、その朱鷺色の羽を広げて舞う姿にも似ていた。青玉も紅玉もお互いの動きを知悉しているようで、閉じた目を開けることもなければ、水のような流麗な動きを一瞬たりとも止めることもない。青玉の袖が翻り、紅玉の裾が閃いて風に舞う。
「紅玉!」
 青玉が巫女の名を低く叫ぶと、前置きもなくその紅唇が開いた。情感たゆたう上品で豊かな声は、族人に、そして縞玉に、もう一人の懐かしい巫女を思い出させた。それに重ねるように青玉も口を開く。高く低くもつれ合い絡み合うような双声は、見事に調和し競い合い高めあう。時に強くときに弱く、互いを補い合う螺旋を描いているようだった。空を切る袖のあとを薙ぎ払う刀が、それを裂くことなく次の動きに移る。歌声の響くその間にも刀剣の舞手は変わらずに剣舞を続けていた。風を切る刀剣の音が二人の歌に共鳴し、不思議な空気の波が渦を巻いて演者を包む。押し出すような言葉が、縞玉の唇から漏れた。
「……」
 その呟きは、誰の耳にも届かずに空気に溶けていった。次第に剣を取り巻く風の渦が緩やかになり、徐々に凪いでいく。緩やかに最初と同じ位置に立った二人は、最後にもう一度刀剣をかちんと合わせ、縞玉に向かって再び一礼をした。その頭が上がる頃、観衆の喝采とどよめきが波のように広がっていた。
「腕を上げたな!」
 喜んで二人を迎えたのは、指名した碧玉である。縞玉に見せたいというよりは、寧ろ碧玉本人が見たいと思ったのだろう。と周りは思ったが、目の保養となったことは事実であるので、誰も口にはせぬ。紅玉は控えめに微笑み、青玉は「いえ、まだまだ…」と謙遜の意を示した。
「縞玉大哥は如何ですか? 良かったら翠玉二哥と模範試合でも?」
 その一言で振り向いたのは、三人だった。



十二


「黒玉には、黄玉が。黄玉には、黒玉が…」
 呟いていたのは、藺槍玉だった。十一歳の少年には、多少難しい言葉かも知れない。三つ上の姉藺水玉がいつか言っていたことを思い出す。
「私には、翠玉二哥が必要なの……」
 その琥珀色の、くりくりとした丸い瞳には、熾火のような揺らめきと、朝露のようなきらめきとがあった。いつも華奢で可愛らしい姉が、少し遠く感じられたときだった。
「僕には、理解出来そうにないけど、いつか判るのかな…」
 姉と同じ琥珀色の瞳を硬く閉じると、勝気な虞黛玉の顔が浮かんできた。
「僕には、黛玉四姐が、必要かも知れない」
 暫く黒玉と黄玉が去っていったほうを見つめていたが、やがて星空へ視線を転じた。宵の明星は既に稜線の彼方に消えて、漆黒の闇に銀色の砂粒のような星が響きあうようにまかれていた。
「紅玉! 仕事は?」
「三哥。今、丁度終わりましたわ。お迎えに来て下さいましたの?」
 明るい声が響き、咄嗟に槍玉は身を隠した。そうする必要は全くなかったのだが。様子を伺っていると、巫女の紅玉とその兄青玉が連れ立って歩いてくるのが見えた。神殿の階段をおりながら、青玉が妹を振り返り、労わるような優しい眼差しを向けている。まだ年端もいかぬ身で、一族の重責である巫女の任は堪えがたいものであろうが、相応しくあろうと日夜励んでいることを族人は心得ていたし、間近にその姿を見知っている青玉は、時折その様子を見に神殿へと足を運んでいた。兄の労わりが嬉しかったものか、桃の果実にも似た愛らしい頬に、ほんのりとした明かりが灯ったようだった。茶色の双眸はそこはかとなく潤いを帯びて、十歳の少女とは思えぬ艶やかさを醸し出していた。
「じゃあ、行こう。……おいで」
 柔らかく微笑んで、青玉は妹に左手を差し出した。少女は一瞬ためらいかけつつも、おずおずと右手を載せる。二人は仲良く手をつないで館へ帰っていった。その後姿を見つめて、槍玉は重い吐息をついた。

 その夜、黒玉は自室で白玉のことを考えていた。
「白玉、何のために…? 何故?」
 隣には黄玉が眠っている。もう五歳になるのだからと一人で眠るようにと言っても、ここがいいと主張して譲らない。ならば私が部屋を変えると言ってもまたそこに来てしまうことも目に見えていたから、それ以上言葉を重ねる気にもなれなかった。考え詰めてはまた眠れない夜になってしまう。溜息をついて横になろうとした。ふと黄玉に目を向けると、黒曜石の瞳がじっと見つめていたことに気付いた。
「お、黄玉…」
 眠ってなかったの、と言い掛けて気付いた。この子は、そういう子なのだと。外見は寧ろ翠玉の方が似ているかも知れぬ。しかし、その中身は。黄玉が一番良く似ていたのだ。懐かしい親友、白玉に。その姉に。
「大姐」
 あどけない微笑みを向けて、黒玉の首に手をかけ、そのまま一緒に寝台に倒れこんだ。一瞬、その小さな唇が触れたような気がした。黒玉は、なにかがぷつん。と切れたように意識を失っていった。



十三


「模範試合なんて…。私はもう何年も武器の類に触れてないぞ」
 それに翠玉だって迷惑だろう。と。少々慌てたような縞玉の言葉は、嘘ではないだろう。武器の鍛錬を積むことが義務づけられているのは十代の少年のみであり、海邑を出て七年が経過している。勿論行った先で鍛錬は多少積んではいるだろうが、海邑の中で鍛錬を積むようにはいくまい。
「勘を取り戻す必要があると思いますし、少し時間をおいて…というのは如何でしょうか」
 縞玉は突発的に海邑に寄らねばならなかっただけで、すぐに旅に出ると言っていた。しかし模範試合となると、数日滞在せねばならぬだろう。黄玉が何を考えているのか、黒玉には見当もつかなかった。半ば諦めたような顔で、縞玉は呟く。
「判った。翠玉、異存がなければ相手をしてくれるか?」
「……この顔が相手でも宜しければ」
 一瞬言葉に詰まる。翠玉は白玉のすぐ下の弟であり、恐らく申し込みの話を知っている数少ない人間の一人である筈だ。そして何より、その容貌はかの巫女白玉に良く似ている。年端も行かぬ子供だった頃には間違えかけたことが何度もあった。
「何を言ってるんだ?」
 碧玉の言葉に、思わず縞玉は噎せかけた。

 宴を終えて、縞玉はあてがわれた部屋へ戻ろうとしていた。後片付けを終えた黒玉と出くわしたのは、その時である。余程何かを考え込んでいたのだろう。縞玉とぶつかって初めて存在に気付いたようである。
「あ……、ごめんなさい」
 慌てて頭を下げ、そのまま走り去ろうとしたが、何もない床面に躓いて転びそうになった。
「大丈夫か?」
 縞玉の、碧玉ほどではないが逞しい腕が黒玉をしっかりと抱きとめた。赤い髪の娘は思わず頬を染め、軽く肯いてさっと身を翻す。
「また転びそうだな……」
 呟いた声に呼応するかのように、再び黒玉が躓いているのが見えた。
「……意外に佳い体をして……」
 はっと気づいたように言葉を止めたのは、白玉の魂に呟きが聴こえなかったかを気にしたのかも知れない。

 昼間、折角の機会を逃した黄玉は、宴のあと湖へと足を運んだ。ぽっかりと浮かんだ月は間もなく満ちる。その満ちた時が彼の婚礼の夜となるはずであった。
「黄玉……」
 碧玉が若い頃好んで昼寝をしていた木の根元に、黒玉は座り込んでいた。
「はい」
 思いもかけず返事が返ってきたので、黒玉は誰かの悪戯かと周りを見渡した。本物の黄玉が近づいてくるところが目に映り、慌てて笑顔を作ろうとするが、戸惑っているような顔にしか見えなかった。
「大姐」
 息が掛かるほど近くに腰を下ろした。客人の歓迎で皆の注意がこちらに向いていないことを見澄ました様子である。黒玉が宴の席を抜けたのは全く違う理由ではあったが、黄玉には十分だった。
「焦ってはいませんよ。ずっと待っててもいい。でも叶うなら、俺に本音を下さい」
「……」
「碧玉大哥を、愛しておられたでしょう?」
 黒玉は息が止まるかと思った。
「大哥が一番愛していたのは、白玉大姐だった。同姓だから結婚出来なかったけれど。黒玉大姐はそれを知っていたから気持ちを隠していたんでしょう? 意地っ張りだから素直になれずに、いつも毒舌ばっかりだったけど。でも碧玉大哥に対するとき、毒舌を吐きながらもその蒼い瞳は一番輝いていた。だから俺は気付いたんです。あなたが、誰を思っていたかを。碧玉大哥は鈍感だし、紫玉大姐も気付かなかったようだけど」
 知らずに、その蒼瞳から涙が溢れてきていた。
「黄玉、やめて……」
 両手で顔を覆い隠したのは、涙に濡れた顔を見られたくなかったせいなのか。その両手を優しく、でもしっかりと掴んで黄玉は黒玉の唇に口付けた。驚くほどに優しい声で、赤髪の娘の耳元に言葉を注ぎ込む。
「責めていませんよ。俺に応えようとしてくれていたからこそ抵抗しなかったことを知ってるし、俺はまだまだ大哥から見れば未熟者です。比べてくれたっていいですよ。俺はそれを自覚してる。そして大哥を越えて、大哥から必ずあなたを奪うって決めてる。それに大姐、あなたは俺の前なら自分を曝け出せるはずです。……だから、あなたを俺に下さい」
 泣きじゃくる黒玉の涙を、吸い取るようにして舐める。満天の星と月の輝く湖畔で、黄玉は静かに黒玉の裾を割った。
「……」
 その瞬間、黒玉は少年の腕に倒れこんだ。暫くその感触を楽しんでいる様子で抱きしめていたが、ふと赤い髪の娘の体が力を失っていることに気づき、黄玉は身を離してその顔を見詰めてみた。泣き疲れていたのかも知れぬ。黒玉は涙のあともそのままに、眠っていた。
「やっぱり、もうちょっと先か………」
 苦笑いしてそう呟くと、力を失ってだらんと下がった両腕を、自らの首にかけようとしたが、上手くいかなかった。背中に回した右手を黒玉の脇の下に添え、赤い髪の娘を横様に抱き上げて館へ向かった。寝台にそっと横たえ、黒玉の襟元に手をかけ、くつろげる。鎖骨の下と、褐色の豊かな胸の下、規則正しく鼓動を打つそこにやや長めに口付けし、その跡を確認して微笑んだ。
「途中で寝たお仕置きですよ」
 寝室の鍵を確認し、黒玉の赤い髪の香を楽しみながら、黄玉は眠りについた。



十四


 縞玉は、白玉の夢を見ていた。いつでも誰にでも優しい微笑みを与える、海一族の巫女。手に入らぬことを承知しながら、手を伸ばした瞬間、拒絶され、やがて消えていった白い乙女。その死に顔は生前と同じく微笑んでいた。何を思って逝ったのだろう、と縞玉は今更にして思う。一人で淋しくはなかったのだろうか。怖くはなかったのだろうか。何故いつも微笑んでいられたのだろうか。それを知っていながら。それを考えながら、縞玉は決断した。
「父上。お許しいただきたいことがあります」
 虞家家長虞叔鍾の前で改まった願いを伝えるのは、これが初めてだった。顔を上げ、息子の顔をじっと見つめる。何かを堅く決めた様子であるのは、傍目からも良く判った。
「何を望むのだ?」
 暫時躊躇うような仕草をしつつも、意思は決まっているようである。促すようにちら、と視線を走らせると、ようやく意を決したように口を開いた。
「勝手を申します。……遊学させてください」
 叔鍾は言葉を失いかけた。辛うじて息をつくのと同時に、唇から言葉が吐き出された。
「何故だ? 白玉の死が原因か?」
「それもあります。が、私は少し頭を冷やす時間が必要です。まずは医生(医学生)として学問を修めたいと思います」
「……期間と場所は? もう決めたのか?」
「はい」
 そう言って縞玉はその場所の名前を挙げた。
「かなりの覚悟がいるぞ?」
「はい、承知しております」
「判った。励んで来い。だがあまり待たせてくれるな。……必ず帰ってこい」
「ありがとうございます」
 叔鍾の目尻が、静かに光ったようだった。



十五


 黒玉が目覚めると、半裸だった。そこまでは、寝苦しい夜にはたまにないこともない。問題は、褐色の肌に残る赤い痣のようなものだった。寝ぼけた目でふと自分の姿を見ると、唖然とせざるを得ない。黄玉か、と思い当たって昨夜のことが脳裏に甦る。湖畔で少年と話していたことまでは記憶があった。しかしその後のことがすっぱり消えている。自分で動いて寝台に辿り着いた訳ではなさそうだから、運んだのは黄玉だろう。とすればこれもまた彼の仕業であるに違いない。眠ってしまった自分を呪うしかないが、後で一言苦情を言うくらいは許されるかも知れない。着替えようと立ち上がって、思わず目が点になった。
「…黄玉。なんでこんなところに」
床に黄玉が転がっていた。多分最初は自分の隣に眠っていたに違いない。寝台から落ちたか、落とされたか、それとも降りたか。何れにせよ放っておけるはずもない。手を伸ばして黄玉を寝台に載せようとする。
 ぱしっ。
「えっ?」
 手首を捕まれて、抱きすくめられた。思わず振り返ると黄玉がにっこりと笑っている。振りほどくことも出来ず整えていなかった服が剥ぎ取られる。褐色の両手首を服から抜き取ると、そのまま黄玉は体の後ろで交差させ、手際良く結んだ。まだ完全に目が醒めていない黒玉には抵抗もままならない。
「ちょ、ちょっと…」
 目を白黒させる赤髪の娘を寝台に載せる。首筋、肩、二の腕の内側、鳩尾、腰骨、太腿の内側と少年の唇と舌と指とが濃密に撫でて行き、小さな薔薇のような、新しい花を娘の体に咲かせていく。
「お仕置きです」
 朝日が窓から差し込み、黄玉の背にかかった。表情が見えなくなった顔の中で、潤いを持った瞳が一層艶やかさを増して、黒玉の体を舐めまわしているようだった。
 黒玉を抱き寄せ、ぐったりしかけている娘の肩に唇を這わせる。その身をやさしく反転させて今度は背中に鮮やかな花を咲かせていく。意識が泥土の中に沈んで行く感覚を味わいながら、黒玉はその豊かな胸に伸びた、黄玉の白く細い指を見つめていた。その手が徐々に下へ移動していき、下腹部の臍の窪みをかすめていく。もう一方の手は娘の体をしっかりと支えていた。
 とんとんとん。と扉を叩く音に続いて、虞紫玉の声がした。
「黒玉、朝食よ。起きていて?」
 冷水を浴びた気分だった。鍵をかけた記憶はない。この状況はいくら婚儀を控える者同士であっても褒められたものとは到底思えなかった。
「大姐、応えないで」
 首筋を、滑らかなものがゆっくりと撫で下ろす。こんな状況では見つからないように声を殺しているのが精一杯で、他の事など考えることも出来ない。それでも。身をこわばらせつつも黄玉の執拗とさえ言える愛撫に、徐々に体が反応していく。少年の唇がまた鮮やかな花を褐色の肌に散らせて行く。歩き去る足音が響いたあと、今度は複数の足音が近づいてくることに黄玉は気付いていた。
「黒玉が返事をしないの。熟睡してるのかしら。鍵が掛かっているし」
 扉の外で再び声がした。紫玉が誰かを呼んだのかも知れない。
「おーい、黒玉。黄玉が居ないんだが、まさかこっちに来てないよな?」
 良く響く低音は碧玉である。黒髪を振って、仕方ないという風情で少年は顔を上げる。
「……居ますよ」
 溜息をついて、黒髪の少年は名残惜しげに滑らかな肌からゆっくりと手を離した。

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