銀宵――海虹外伝――



 乾燥した風が、頬をたたく。数日水浴びさえも出来ずにいた肌は、少々埃にまみれて気持ちが悪いが、その代わりに汗は殆どかいてはいない。厚手の衣は日除けでもある。頭をも保護するように出来ているそれは、目深に被らねば意味が無い。鼻のあたりまで隠れてその瞳を見ることは出来ないが、小ぶりの顎は血色が良く、形から言ってまだ幼いと見えた。慣れた足取りで岩山をひょいひょいと歩いていく様子は、小柄な割に強靭な体力を秘めていそうである。背格好だけを見て年齢を判別するのであれば、十代前半くらいかも知れない。今まさに南中しようとしている太陽は、ぎらぎらした日差しを注ぎかけていた。岩場を乗り越えて軽く吐息を一つつくと、一瞬立ち止まる。
「一年ぶりか……」
 声は高く、凛とした響きがあった。まだ変声期を迎えていない少年か、或いは少女かも知れない。突風がその頭部の布をさっと払うと、後頭部の上方で一つにまとめられた焦茶色の真っ直ぐな髪が風に翻って流れた。その二つの瞳は、透き通った宝玉のように鮮やかな紫である。切れ長できりりとした目には厳しさが窺え、細く尖った顎は繊細ながらも意志の強さを感じさせた。頭を軽く振って、風に飛ばされた布を元に戻すと、そのまま歩き始める。行く手には岳家本拠地、岳邑が見えはじめていた。

 岳家は、伽国七族の家柄である。海家と同じ武門の家で、従って立場的には非常に近い。伽国東北部に位置する本拠地岳邑は大陸東部の平野が北部の沙漠地帯と接するあたりに存在していて、あまり大きくは無い岩山がいくつか点在している。若干乾燥気味の気候で、海邑のように水の豊かなところに住み慣れた者には少々湿度が足りなく感じられた。四季はあるが、降雨量は少々少なめである。旅人はその岳邑に足を踏み入れた。慣れた足取りはここでも迷うことなく、邑の中の一番大きな建物へと向った。岩石を切り出して作られた、岳家の館へと。
 小柄な人影を見つけた岳家の子供たちが、声をあげる。甲高い歓声は明らかに客人を歓迎していた。あまり変わらぬ背丈の者達が飛びかかると、ただでさえ小柄な人影はその中に埋もれてしまいそうである。
「こらこら、待て」
 苦笑しつつ旅人が倒されると、騒ぎに気づいたほかの者たちも皆駆け寄ってきた。その紫色の瞳と焦茶色の髪がむきだしになる。
「炎玉! 来てくれたか」
「嬉しいよ。ありがとう」
 岳邑には普段よりも少し華やいだ雰囲気がある。炎玉と呼ばれた旅人は、飛びかかってきた子供たちをようやく押しのけて、にやりと笑い、「そりゃ、招かれた宴に来ない方がどうかしてるだろ」と軽く片目を閉じた。
「炎玉!」
 銀色の風が流れた、と見えたが、それは髪であったようである。真っ直ぐなその銀髪は腰まであって、束ねてはいない。子供達に飛びかかられて尻餅をついていた炎玉の腕に、そのまま飛び込んでいく。
「ちょ、ちょっと待て! 孔昭!!」
 飛び込んできたしなやかな体を抱き止めるのは流石に難しかったらしく、焦茶色の髪の主は強かに後頭部を地面に打ちつけた。
「痛ッ!」
「あ…。ごめんなさい」
 幸い、双方とも怪我はなかったようである。
「痛たた…。相変わらずだな、孔昭」
 体勢を立て直すと、痛みに顔をしかめつつも、相手に気を遣わせぬためか、軽く笑った。
「痛かった? つい嬉しくなってしまって。ごめんなさい」
「構わぬ」
 ぱたぱたと埃を払って立ち上がり、微笑みを交わす。仲睦まじい様子は傍から見ても良く判った。
「来てくれて、ありがとう」
 感謝の気持ちが滲み出るような、温かい笑顔である。
「何の。お前の婚儀とあってはな。相手が洛家の次男坊というのが少々気に入らんが、お前なら奴の性格矯正くらいは出来るだろう」
「炎玉ったら」
 二人は顔を見合わせて、楽しげに笑い声を立てた。

「炎玉、来ていたのか」
 銀色の髪はまっすぐに延びて、後ろで一つに束ねられている。些か垂れ目気味の蒼い瞳は柔らかい色合いを帯びて、焦茶色の髪の客人を楽しげに見下ろしていた。満面の笑みを浮かべてやってきたのは、岳孔昭の兄岳孔嘉である。妹と良く似たその銀髪は見事な程で、鬘にしたいという者もいた。胡散臭げに旅人の紫色の瞳が、ねめつけるように孔嘉をじろりと見上げた。身長だけをいうなら、両者を比較すると大人と子供程の差がある。
「相変わらず無駄にでかいな」
 ふん、と鼻息を漏らす。孔昭との微笑ましい様子が嘘のように冷淡な物言いで、炎玉は視線を逸らした。厭なもんを見た、とでもいいたげに。
「そういうお前は相変わらずちっこくて可愛いな。俺の腕の中にすっぽり入るぞ。明日は孔昭も嫁に行くことだし、お前も俺のところに嫁に来い」
 冷ややかな返事をものともせずに肩に手をかけようとするが、一瞬早く手を払われる。
「却下だ。私の男は海邑の者に限る」
 一瞬の間もおかず即答しているあたり、いつものことなのかも知れない。
「それに、岳家の後継ぎが岳一族内から娶らんでどうする?!」
「いんやー? 別に俺は後を継ぎたいと思っている訳ではなし。お前が嫁に来るなら、家なんざどうでもいいさ」
「私はお前のそういうところが嫌いだ」
 つん、と顔を背けるあたり、まるで子供のようであるが、会話の内容を考えれば、結婚してもおかしくない年齢と思える。
「もっと一族に責任を持て! 男とはそういうものだろーが!!」
 立ち上がって拳を振り上げる炎玉に対し、孔嘉は思わずぱちぱちと拍手をした後で、懲りもせずに付け加える。
「じゃ、俺をそういう風に教育しなおしてくれ」
「無駄は嫌いだ」
 不毛な会話が続いているところへ、明日の衣装の確認を終えた孔昭が現れた。
「あ、孔昭。衣装は大丈夫だったんだな」
 明日嫁ぐことになっている娘というものは誰でもそうかも知れないが、幸福感に満たされたような佇まいを見せて、軽く肯いた。上気した頬は潤んだ蒼瞳を際立たせて、婚礼前夜の花嫁に相応しい、甘い憂愁に彩られている。
「花婿は明日到着か?」
「ええ」
「幸福になれよ」
 深い微笑みが少々の不安をも溶かしていくように思える。
「ええ……」
 一人取り残された孔嘉は、ぼりぼりと頬を爪でかいていた。
「なんで炎玉は孔昭にはそんなに甘いのに、俺には冷たいんだ?」
「可愛げのなさが原因だろうよ。だが、私は基本的に男には平等に冷たいんだ。別にお前ばかりじゃない」
「俺一人くらい優しくしてくれたっていいじゃねーか」
 即答を期待していたが、返ってきたのは皮肉っぽい微笑みであった。見惚れる程の魅惑的な微笑みを数秒示したあとで、冷淡に応える。
「男の中で誰か一人、と決めるなら、それはお前ではない」

 久しぶりの湯浴みを終えてさっぱりした炎玉は、孔昭とともに寝所に居た。長旅の疲れを癒すのには温かい湯と食事が一番である。
「んー、落ち着いた!」
 遠慮なく一緒の寝台に飛びこむ。今まではこの岳邑にくればいつでもこうすることが出来た。しかし孔昭が嫁げば、こういうことは出来なくなるだろう。婚礼前夜の花嫁は、親しい同性の友人と一緒に夜を明かす。本来は一族内の同世代の少女が数人ということが多いが、今回は花嫁である孔昭のたっての願いで、炎玉一人だけが寝所にあった。同じ岳一族であれば結婚後も婚家を尋ねることは難しくはないが、海一族に名を連ねる炎玉としては、政治的な思惑が絡む可能性もあり、一緒に夜を過ごすことは難しくなるだろう。普段わがままを言わぬ孔昭のたっての願いを、岳一族の人々が受け入れた結果である。
「お前の兄は相変わらずだ」
 拒んでも拒んでもまだ擦り寄ってきやがる、と呟く。本音を言えば孔昭としては親しい友人である炎玉に兄の妻になって欲しいと思っているが、それには非常な困難が伴う。七族の直系は、同じ一族の中から妻を迎えるのが原則である。伽国では七族それぞれの主姓、七姓の後継者及び当主が、別の七族の家から妻を娶ることは禁じられていた。海一族ではそれが頑なな程に守られていて、主姓である海姓だけでなく海一族に連なる他の四姓も外部の者と婚姻することは極めて稀である。七姓に名を連ねる洛瓊琚に同じく七姓の家柄である岳孔昭が嫁げるのは、家督は既に兄が継ぐことが決まっていて、彼が次期当主ではないからである。例外は伽王の娘くらいだが、岳一族ではなく、王女でもない、つまりはどちらにも該当しない炎玉が、七姓の次期当主(予定)である岳孔嘉の嫁になるのはまず無理である。それでも炎玉が望むのなら、抜け道はあるかも知れないが、炎玉自身が孔嘉をたかって来る蝿か何かのように思っているのだから、実現は不可能に近い。
「炎玉…、あなたは、どなたか思う方がいるの?」
 天井を見つめながら孔昭が訊ねた。そういえば今まで聞いたことがなかったわね。と思い出したように付け加える。
「私は海姓の男と結婚すると決めている」
「前にもそう言っていたわね…。海姓直系といえば男性は四人ということだったけれど、うち二人はもう既に奥様をお迎えなのでしょう?」
 他の一族のことながら、流石に七族直系の姫である。そのあたりの情報は把握していた。
「いや、三人だ。末の弟が先だって婚約した」
「まあ。では、あなたの想い人は青玉様?」
 海邑に住む海姓の男は確かにそれだけであるが、長い時間の間に海邑から出ていった海姓の者もいるにはいる。それらは直系とはいえないが、そういったことを知った上での確認の為の問いである。
「うむ」
 少し恥らうように、寝具を鼻の辺りまで持ち上げる。
「あれは、聡い。そして、優しい。私は、あれを支える者でありたい」
 言葉に籠められた気持ちが、そっと立ち上るかのように白い吐息が闇に揺れた。

 婚儀は、夜である。だが、その朝は夜明け前からいくつもの儀式が執り行われることになっていて、花嫁は休む暇もない。次から次へと儀式をこなす孔昭を横目に見ながら、炎玉はその手伝いをしていた。最終的に花嫁が身に纏うのは赤い衣装であるが、清めの儀式の段階では白い衣を纏う。白は死の色、そして赤は生の色である。生家での娘は死して、婚家で新たな誕生を迎えるという意味合いがあるのだと、炎玉は遠い昔親友である海紅玉から聞かされていた。それ自体は判らなくもないが、巫女である紅玉が身に纏うのは常に白い巫女衣装であったから、それは屍衣ということではないかと思い至って、寒々とした感情が身を貫いたものである。
 白い衣を纏っている孔昭は、清めの泉の水を浴びて、体を震わせている。まだようやく顔を覗かせたばかりの太陽が、その細い肩に暖かな橙色の光を落としている。
「さあ」
 炎玉は乾いた布を花嫁に被せ、滴り落ちる水を拭いた。清めの水浴びが終わったのである。銀色の髪は水分を吸って重く肩に落ちていた。その髪の色は、太陽の光を受けて一層鮮やかに見える。伏せた瞼はほのぼのとした赤味を帯びて初々しく輝き、頬に陰を落とす長い銀色の睫は、しっとりと潤っていた。
「美しいな」
 そっと、しかししみじみと声に出すと、花嫁が身を竦ませる。
「炎玉…恥ずかしいわ」
「美しいと思ったから言葉に出したまでだ。恥ずかしがることはない」
 そう言われはしても、面と向って「美しい」などと言われれば、誰だって気恥ずかしくなるだろう。言う方も言う方といえるが、それはあまり気にしていないらしい。
「二人で、幸福になれ」
 相手に依存して幸福にしてもらうのではない、二人で幸福を掴むのだ。と。それは、幼い顔に似合わず恐ろしく老成した言い方だが、花嫁に対する温かい餞であった。

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