白虹



 翌朝、まだ暗い内に白玉と紅玉の二人は神殿で巫女の仕事を始めていた。今日から紅玉は巫女見習の待遇を受け白玉の下で修業するのである。少し眠い目をそれでもしっかりと開けて丹念に神殿を掃き清める姿は、年齢に似合わぬ落ち着きを感じさせた。白玉は手馴れた様子でてきぱきと、しかも優雅にこなしている。
 日が昇る頃、青玉が現れた。海一族は直系男子から長を選ぶことになっているが、早くも次期長の候補の筆頭として名前が挙がっているのは、この敬虔さも一役買っているのかも知れない。
「大姐、紅玉。おはようございます」
 昇る朝日を背負うように現れた彼の表情は見えなかったが、声を掛けられた二人には青玉が微かに笑っているのが感じられた。
「早いわね」
 眩しそうに目を細める白玉と、隣に佇む紅玉の掌に、青玉は少しはにかみながら、今しがた摘んで来たばかりの草花を載せた。
「今日から巫女見習が始まると思ったから…。大姐、紅玉を宜しくお願いします。紅玉、大姐みたいに立派な巫女になれるよう励みなさい」
 十歳の少年はそう言って巫女に深く頭を下げた。彼なりの誠意と感謝、激励が込められているのを感じて、少女達は温かい気持ちになっていた。
「ありがとう、三哥」
 嬉しそうに頬を染める紅玉を見て、白玉は小さな紳士に微笑みかけた。
「青玉、ありがとう。朝食が出来ているから、皆で頂きましょう。大哥達を起こして来てくれる? 昨日みたいにではなく、優しくね」
 恥ずかしそうに肯いて青玉は駆け出して行く。紅玉は貰ったばかりの草花を両手で抱え、その後姿を静かに見つめていた。

 朝食を終えて翠玉以下の子供達が家塾に向かうと、碧玉と白玉は二人になった。久しぶりにゆっくり見る従妹は更に艶やかさを増していて、些かならず眩しかった。細くしなやかな体を優美に飾る衣は、黒絹のような髪と真珠めいたつややかな肌を引き立たせはしても、損なうことはありえない。どこから話を始めたものかと思う碧玉は無意識に顎のあたりを撫でていた。まだ濃いとは言えないが、髭が生え始めている。
「……武挙の前日のことだ。出先から陳の伯父上の館へ戻る途中、ならず者どもに襲われかけている旅人らしき姿を見かけた。甲高い声はまだ若い女かと思えたが、薄暗い通りに引きずり込むような輩がやりそうなことは決まっている。それで救い出すことにした。激しい抵抗をしたと見え、服はボロボロで全身傷だらけだったので、俺の着ていた上衣を与えて介抱し、宿を訊ねて何とか娘を送り届けることが出来た」
 流暢にとは行かなかったが、ゆっくりと語る碧玉の声は穏やかだった。
「その日はそのまま伯父上の館に戻ったんだが、翌日俺が留守の折にわざわざ尋ねて来たらしい。部屋に戻ると土産物の山が出来ていた。娘の父親は引退して随分経つが、高官だったようだ。俺は挨拶もせずに帰ってきたのに何故か居所も名前もバレていて、毎日のように物が届けられるようになった。一月後の発表まで伯父上の館に居候するつもりだったが、流石にこれではかなわない。俺が居なくなれば来なくなるかも知れないということで伯父上と相談し、途中旅をしながら帰ることにしたと伝えた。それで大丈夫かと思っていたが、今度は伯父上に対して物が届けられるようになった。伯父上も辟易したと見え、その元高官――令狐殿に会いに行った」

 豊かな白髯を蓄えた、穏やかな老人令狐仲は、碧玉の伯父である陳叔牙を快く出迎えた。最愛の一人娘を救った青年に対しての過剰なまでの感謝の表現は、どうやら他の目的があったようである。叔牙が丁寧に贈答品の辞退を申し出ると、碧玉について様々な情報を得ようとした。
「先の長くない身で、一人娘のことだけが悩みの種でした。わがまま放題に育っておりますが、もし叶うなら、私のこの目がまだ黒いうちに碧玉殿のようなしっかりした青年に嫁がせたいと思っておるのです。碧玉殿はあれ(娘)をお厭いだろうか。陳殿は伯父上と承っているが、碧玉殿は既に結納を交わした娘は居られぬか?」
 陳叔牙も弱りはてていた。武挙に合格すれば碧玉は結納の話が持ち上がっているだろうし、海邑では既に三人の候補が挙がっている筈だった。しかしまだ確定した訳ではない。ここでうっかり「碧玉は現在故郷の邑で縁談が持ち上がっております」などとでも言おうものなら、「ではそれがしの娘も……」と売り込んできそうな気配があって、叔牙は口ごもった。
「……我らの一族では、直系男子は正妻に一族の別姓の娘を迎えることになっております」
 暫く躊躇った挙句、叔牙は呟くように息を吐き出した。
「碧玉は直系男子、帰邑すれば妻候補が三人居て、長老が会議を繰り広げるでしょう。婚儀は来年成人を迎えてからですが……。令狐殿の大切なご令嬢を正妻に出来ぬとあっては……」
 控えめにそう告げると、あっけらかんとした返事が返ってきた。
「いやいや、お転婆で何一つ出来ぬ未熟者の娘ゆえ妾とて構いませぬよ。確かに我が娘は可愛いが、陳殿の一族で棟梁の正妻など無事に務まるまい。寧ろ私は碧玉殿に惚れましてな。あの方なら…と見込んだ次第」
「そこまで見込んで頂いて、誠に恐縮でございます。碧玉が聞けば当惑しましょう。ろくにご挨拶もせぬのに」
 令狐仲は目を瞬かせた。
「ならず者に襲われている娘を救ったあと、その家で長々と挨拶をするような者がいたら、私はその者こそを疑うでしょう。ましてや私は引退したとはいえ元は重職にあった身。政治の泥沼を泳ぎきってこの岸まで辿り着いた身です。私に取り入ろうとする者が居ても不思議ではない。……碧玉殿は娘に父の姓さえ問わなかったと言う。それはゆくゆく娘が恥をかくことがないようにとの配慮と見ました。救われた娘の家では救った者を諸手を挙げて歓迎しましょう。が、同時にその家では娘が襲われた事実は世間の評判になりかねませぬゆえ、隠しておきたいもの。途中つけて来る者がいないか気を配り、無事に家に入ったのを確認して身を翻し、走り去られたとのこと。何も無かったようにするべく、振舞って下さったものと」
 なかなかああは出来ませぬ、と令狐老は首を振った。
「それに」
 老人の目が強い光を帯びた。
「碧玉殿は贈り物から逃れ、またその伯父殿が返しに来られた。それはあなた方のお心根が正しく、美しいものとお見受けいたします。……ご一族の流儀には反するやも知れませぬが、是非とも碧玉殿に我が娘を貰って頂きたい。正妻が駄目なら二番目の妻でも妾でも」
 叔牙も折れざるを得なかった。
「ならば、碧玉と一族の者に話しましょう。ただ、あれは海一族直系を誇りとする者ゆえ、令狐殿の意に添わぬ結論を出すこともあるかと。その節は、まげてご容赦ありたい」
「なんの。無理をお願い申し上げておるのはこちら。一縷の望みが繋がっただけでもありがたいもの。ご苦労をお掛けし、申し訳ない」
 叔牙に杯を傾けて微笑む姿は、仙人のようだった。

「大哥、その娘を助けて下さってありがとう」
 微笑んで白玉は碧玉に新しいお茶を差し出す。憮然とした顔は白玉を見ることは出来なかった。差し出されたお茶に手を伸ばし、もう片方の手で鷲掴みにした饅頭を食いちぎる。
「……声が、お前に似ていた」
 翌日の武挙のことを考えれば、そういう輩と関わるのは極力避けたかった。しかし、碧玉がそれを避けられなかったのは、その娘の声が白玉のそれと良く似ていたからである。実際には白玉がそんな目に遭うことがあるはずもなかったが、碧玉にはまるで彼女が助けを求めているように思えた。
「ありがとう、大哥……」
 白玉は呟いた。もう一度、心を込めて。



「別に…お前に礼を言われる筋合いはない。俺が救いたくなっただけだ」
 微笑む瞳に明るい光を宿しつつ、白玉は軽く吐息を漏らした。
「……一族の外から別口の縁談の話が来ては、翠玉達三人には話せないわね…。長老に筒抜けになってしまって、騒ぎになるのが目に見えているもの。人を救ったのはいいけど、それで面倒を背負い込んでしまう羽目になるなんて……」
 碧玉は憮然とした顔に固定されてしまったようだ。
「俺が望んでそうなった訳じゃない」
「そうね……」
「俺とて判ってはいる。立場も、義務も。だが、せめてもう少しだけでいい、時間が欲しい。俺とお前と、一族を見直す時間が」
 そういって何時になく真面目な顔で白玉を見つめようとした時。
「大哥!! 大姐!!」
 明るい声が居間に響いて、途端に賑やかになった。二人が振り向くと、黄玉、青玉、翠玉の三人が歩いてくるのが見える。その後ろに紅玉の姿が続く。家塾から戻ったのである。早速白玉の膝に飛び乗ったのは勿論黄玉である。海姓の最年少は些かならず甘えん坊だが、末っ子にはいつもそれが許される。
「おつかれさま。昼食にしましょう。紅玉、お茶を淹れるのを手伝ってくれる? 翠玉と青玉はお膳と調味料を運んでね。黄玉、大哥のお膝へいらっしゃい。大姐はこれからお昼の支度をしなくてはね」
「えーっ」
「お腹、空いたでしょ?」
 微笑んで片目を閉じてみせると、黄玉もしぶしぶ肯いた。

 昼食が済むと、午後は楽と御・射に刀剣、体術である。黄玉は他姓の幼児とともに小一時間程昼寝をする。海一族の者は必ず楽器と武器をそれぞれ一つ以上こなすことが決められており、巫女はそれ以外に舞も修めねばならない。碧玉も午後はそれに混ざって体を動かすことにした。白玉は紅玉に巫女舞を教える。碧玉は刀を取ろうと手を伸ばしかけた。
「碧玉大哥、長老が書斎にと」
 明るく切れのいい声を掛けてきたのは白玉の親友、虞紫玉であった。焦茶色をした長い真っ直ぐな髪を後頭部の頂に近いあたりで一つに束ね、腰まで垂らしている。碧みがかった瞳は光の加減で時々紫色にも見えるが、切れ長で心もち鋭くきりりとした面差しは、白玉の柔らかいそれとは好対照と言えた。口数が少なく、曖昧にしない物言いは若干厳しさを感じさせるが、情に厚い女性であるということを碧玉は知っていた。眩しげに紫玉を見遣った碧玉は静かに席を立った。
「判った。……書斎?」
「はい、天祥おじいさまの書斎に」
「……?」
 立上がると、紫玉の頭は碧玉の鼻のあたりに届く。白玉が立つと碧玉の顎のあたりになるから、少し背が高いようだった。囁くように付け加える。
「叔牙おじさまの家宰と、それから一族ではない方が。令狐さまの家宰と名乗っておられます」
 最後まで聴かず、大股に歩き出した。

 海天祥の書斎は、本の中に埋もれている気分になれる。天井まで棚が続き、それぞれに巻物をはじめとしたいろんな体裁のあらゆる書籍が納められていた。年に一度、全ての書籍を取り出して虫干しをすることが決まっている。老人が書籍の出し入れをするのに危険がないようにと作られた特製の梯子は、真横から見ると直角三角形に近い形をしていて、階段状になっていた。下は可動式になっていて、小さな抽斗が幾つもついている。天祥は一族きっての読書家としても知られていた。
 足を踏み入れた碧玉は、そこに三人程先客が居ることに気付いた。一人は叔牙伯父の家宰(執事)・夏信、一人は藺の長老・天化、残る一人は恐らく令狐仲の使いと思えた。
「来たか」
 海天祥。一族の長である。碧玉には、正しくは祖父の長兄に当たる。碧玉の祖父が若くして逝去したので、父の叔玩は天祥に我が子同然に育てられたのである。弟のみならず妻にも長男にも先立たれているが、いまだ矍鑠たる老人であった。還暦を越えて白髪が優勢になりつつあるものの、豊かな髪と眼光鋭い黒瞳は、気力の充実を感じさせている。
「憶えがあろうが、令狐殿のご家宰顔士犀殿じゃ。ご挨拶をなさい」
 挨拶を済ませ、腰を下ろす。夏信が事情を説明し、天祥と天化が碧玉と顔士犀に丁寧に確認を取る。一連の出来事の確認が終ると、今度は顔士犀が令狐仲の手紙を読み上げた。宛名は海一族の長・海天祥である。それには、ならず者に襲われた娘を救った青年海碧玉への感謝の言葉と、もし彼に異存がなければ二番目以降の妻で構わないので娶って頂きたいという希望が記されていた。
「一族からも三人の妻候補がある旨は、叔牙より説明したようじゃが……」
「我が主令狐仲は是非とも碧玉殿に娘を貰って頂きたいと申しております」
 出来るなら、結婚のことをもう少し先に延ばしたい碧玉だったが、逃げようにも逃げられないようである。深く吐息を漏らして、ゆっくりと確認した。
「海一族直系は一族より妻を迎えるのが定めとなっております。ましてや、令狐殿は元高官の身。官にも就かぬひよっこにご令嬢をとは正気の沙汰とは思えませぬ。しかも二番目以降の妻でもとは」
「主はいたく碧玉殿に感服致しております。家にも娘にも傷がつかぬよう配慮され、しかも謝礼を要求することなく立ち去られた。昨今そのような若者に出会えたことこそ我が家の慶事と…。碧玉殿程の素晴らしい若者なれば妻になりたいと願う娘もまた居ようし、碧玉殿が娘をお厭いでないのなら…と仰せでした」
「……」
「長としては、正妻たるものを一族の中より求めることを望むが、それほど惚れこまれたものを無下にも出来まい。碧玉の希望はどうか、知りたくてな。広間では大事になるゆえ、こちらに呼んだのだ。お前の考えが決まっていれば聴かせて欲しいのだが。もしまだ漠然としているなら、少し時間を与えよう。その間、申し訳ないが家宰殿はこの邑にお留まり願いたい。宜しいか?」
 長老の穏やかな言葉に、二人の家宰は深く頭を下げた。

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