トム物語



 トムくんは、ふるさとのまちへ帰りました。
 旅に出て、丸二年が過ぎています。小さかった猫たちは、二年見ない間に大分大きくなっていて、トムくんと同世代の友達も、結婚適齢期(おとしごろ)なので、トムくんがいない間に、結婚しちゃった猫も、たくさんいました。
 シェリーちゃんは、何故か結婚していませんでした。みんなの憧れ、マドンナのシェリーちゃんなら、小さいころからたくさんのプロポーズがあった筈です。それなのに、結婚していないとは、どういうことなのでしょう。
 実は、シェリーちゃんは、トムくんを好きだったんです。トムくんのことが好きだったんだけど、トムくんはプロポーズの鰹節ひとつさえくれず、すっかりトムくんに嫌われている、と思い込んでいたシェリーちゃん。そして二年前、トムくんが自分にだけ何も告げずに行ってしまったことにショックを受けて、落ち込み、他の猫を寄せ付けないようになってしまっていたのでした。
 さて、シェリーちゃんのことはさておき、トムくんはどうなっているでしょう。実は、トムくんは、今、他のメス猫たちに追い掛け回されている毎日です。もともと人気があったのですが、旅に出て、いろいろ知ったせいでしょうか。前より凛々しく、男らしくなったトムくんは、結婚適齢期ともあって、メス猫にとりまかれ、追い掛け回されるようになりました。シェリーちゃんに会いに行きたいのですが、それもままならず、トムくんはかなり苦労しているのです。
 トムくんもシェリーちゃんも、本当はお互いに好き合っているんです。でも、お互いに勇気がなくて、打ち明けることが出来ないでいるのでした。トムくんは帰ろうと決心した時、もしまだシェリーちゃんが結婚していなかったら、プロポーズしよう、と思っていたのですが、さすがに、本猫を相手に言おうとすると、足がすくんでしまって、家の前まで行くのが精一杯なんです。だから、シェリーちゃんの家の門の外から、シェリーちゃんの部屋を見つめるのが、トムくんに出来るほとんど唯一のことでした。そんな時、向こうからつかつかと歩いて来る猫がいます。
 旅に出る前からの恋敵だったチャーリーが、トムくんに向かって言いました。
「トム! おい! 決闘しよう!」
 チャーリーはシェリーちゃんがトムくんを好きだってこと、実は知ってるんです。でも、ただシェリーちゃんを渡すのは悔しいので、決闘を申し込んだのでした。
 結果は、最初からわかっていました。旅に出る前、五分五分の力を持っていた、トムくんとチャーリー。あれから二年、旅をしたトムくんの方がきたえられていて、強くなっていたのです。それでもチャーリーは、トムくんと戦おうと思いました。憧れのシェリーちゃんに思われていながら、旅に出ていったトムくん。その後のシェリーちゃんの落胆ぶりを見ていたチャーリーは、二人の行き違いがなくなれば、きっと二人は一緒になれるだろうと思っていました。そんなトムくんに、せめて、爪のひとつでもお見舞いしてやりたかったのです。
 決闘の時間と場所はすみやかに決定し、二人は一週間後の土曜日の日暮れに向けて、トレーニングを開始しました。
 その話は、もちろんシェリーちゃんの耳にも入りました。シェリーちゃんは、チャーリーに決闘の理由を聞いて、止めさせようとしましたが、トムくんがシャーリーちゃんを好きだ、と聞いて驚いてしまいました。だって、シェリーちゃんの前で、トムくんはそんな様子をかけらも見せなかったんですから。チャーリーに決闘をやめさせようと思っていたのに、自分が関わってると聞いて、シェリーちゃんは吃驚です。
 でも、男が一度決めたこと、シェリーちゃんに止められる筈もなく、一週間が無情にも過ぎ去っていきました。
 そして決闘の日。夕暮れの川原で、チャーリーとトムくんは、向かい合いました。その時です。
 シェリーちゃんが飛び込んできて、二人を止めました。身をていして二人の決闘をやめさせようとするシェリーちゃんに、さすがのチャーリーもトムくんも驚き、戦いをやめました。そして二人は、それぞれシェリーちゃんにあらためてプロポーズをしました。鰹節もお魚もないプロポーズになってしまったけど、シェリーちゃんはそんなことは気にしていませんでした。
 シェリーちゃんはだまって二人のプロポーズを聞き、まずチャーリーのほっぺたにキスしました。そして、トムくんの唇に、自分の唇を重ねました。



 雨が降っています。
 トムくんは、シェリーちゃんと家の中に居ましたが、食べ物がないので、さがしに出かけようとしていました。
 早いものです。トムくんとシェリーちゃんが結婚して、二ヶ月。まだまだ新婚さんのお二人さんです。あ、そうそう。あれからチャーリーがどうしたかっていうと、じつは、あの後すぐ結婚しちゃって、一ヶ月になります。早くも奥さんは、チャーリーのベビーを身ごもっています。シェリーちゃんにフラれ、雨にもフラれ、落ち込むチャーリーをはげまし、元気づけてくれた、優しい猫でした。
 トムくんとシェリーちゃんも、お祝いとして、チャーリーの大好きな鰹節を贈りました。
 さて、そのトムくんとシェリーちゃんなんですが……。
 朝、トムくんはシェリーちゃんを家に残し、食べ物をさがしに出かけます。うまく見つからなくて、トボトボ歩いて帰ろうとすると、家の前に、鰹節やら、キャットフードやらがおいてあったりするのです。
 一度や二度なら、不安ではありますが猫好きの人がたまたま置いて行ってくれたのだとしても、そんな日が、ここ一週間続いています。昨日や今朝なんかはトムくんが出かける前に、家の前に置いてあったほどです。
 トムくんは不思議に思い―――数分間、そこで待ってから、中に食べ物を入れました。
「あなた。あら、そのおさかな、どうなさったの?」
 すっかり主婦業が板についたシェリーちゃんがトムくんに聞きました。
「また家の前に置いてあったんだ。いったい誰がおいていくんだろうな。うちとしては嬉しいけど、いったい何のためにこんなことをするんだろう?」
「ええ、ほんとね。何の理由があってこんなことを…。それに、誰が…?」
 猫はもともと、とても鼻が利きますが、トムくんが嗅いでみる限り、猫駆除の為の餌とも思えませんでした。それらしい薬の匂いはしないのです。
 二人はここのとこ、「考える猫」してます。そして、思いついたアイディアは、やはり「見張る」ということでした。そして、今までより一時間早く起き、一時間遅く寝ることにしました。
 次の朝、二人はいつもより一時間早く起きて、外を見ました。家の前には、もう鰹節がおいてありました。トムくんは外へ飛び出し、辺りを見回しました。そして、トムくんが見つけたのは、弟のティム。以前、シェリーちゃんにフラれてしまった猫のひとりです。
「ティム、お前が…?」
「やあ、兄さん。おはよう」
「あ、おはよう…じゃない。この鰹節はお前なのか?」
「うん、おれだよ」
「じゃ、きのうもおとといも、お前……?」
「え? きのうって?」
「……いいから、ちょっとこい」
 トムくんは、弟のティムに今までのことを話しましたが、どうやら今までの食べ物の送り主とはちがうみたいです。照れたようにティムはいいました。
「義姉さん(シェリーちゃん)にフラれてから、おれ、しばらく旅行してたんだけど、昨日帰ってきて、んで、兄さんたちに結婚のお祝いやってないなーと思ってたんだ。今朝、近くに用事があったから丁度いいなって思って、玄関の前に置いとこうと思ったんだ」
 ティムはどうやらはじめてここにおいた、という様子……。その時でした。トムくんは、シェリーちゃんの叫び声を聞きました。
「あなた!」
 シェリーちゃんの声のする方に走っていったトムくんは、そこに一人の作家の姿を見ました。そう、今までトムくんの家の前に食べ物を置いて行ったのは…やっと長年の夢が叶って、作家になった、あの懐かしい川崎さんだったのでした。
「川崎さん!(注:猫語なので、人間には「ミャミャニャニャミャー」と聞こえます)」
 トムくんは叫び、川崎さんは振り返りました。
「チビ助!」
 二人ははっし!と抱き合いました(?)。
 トムくんはそれからシェリーちゃんを呼び、川崎さんの前に二人で並びました。
「そうか、お前の嫁さんか……」
淋しそうな声で、川崎さんが言いました。
「チビ助、俺について来ないか?」
 川崎さんはトムくんを愛おしそうに見つめていました。



 秋の気配が漂うロサンゼルスの空港へ川崎さんとトムくんが到着したのは、二人が再会して一ヶ月と少し後のことでした。日本から遠く離れたカリフォルニアは、空気がとても乾いているようにトムくんには思えました。トムくんは、川崎さんが用意してくれた猫用バスケットの中で少しまどろんでいました。無理もありません。猫が受けなければならない動物検疫で、半日ついやしたのですから。
「タクシーを拾うか。チビ助、しばらく出るなよ」
 やさしくそういって、タクシーを探して歩き出しました。
 その時、スーツを着た男性が川崎さんのそばへやってきました。
「タクシーをお探しですか?」
「ええ」
 川崎さんがそう答えると、男性は一台のタクシーらしき車の前へ案内して行きました。彼はタクシー運転手みたいでした。トムくんが夢現ながらも川崎さんをみていると、川崎さんはほんの少しだけためらったように見えましたが、思い切って乗ることにしたようです。車のトランクへスーツケースを詰め込み、バスケットは?と訊く運転手に、「これは大切だから」と抱えたまま後ろの席に乗り込み、行先を言ってしまうと、川崎さんは疲れが出たのでしょうか。軽いいびきをたてながら、眠ってしまいました。
 トムくんも、バスケットの中でうたたねです。トムくんには少し大きめのバスケットは、窮屈なのは厭だろうなと考えた川崎さんがペットショップを何軒も回って探した、とっても素敵なトムくんのお部屋でした。トムくんもちょっとおつかれみたいです。浅い眠りの中で、トムくんは故郷の夢を見ました。いろんな猫の、いろんな顔がトムくんの夢の中をかけめぐります。泣いた顔、怒った顔、驚いた顔、笑った顔…。そのままその猫の性格と生き方と考え方を示すような。
 がくん。
 その時です。大きな音をたてて車が急に停まりました。トムくんのバスケットも、川崎さんの膝の上からおちてしまい、その中のトムくんは受身もとれず全身を強く打ち、はずみで「うわっ(注:ただし人間にはニャッとしか聞こえません)」と叫んでしまいました。しかし川崎さんは余程眠りが深いのか、そのままの態勢で眠っているようです。
 バスケットからようやく脱出したトムくんが見たものは、運転手の薄気味悪くわらった顔でした。運転手はトムくんには気づかなかったようです。車を降り、トランクへと歩き出しました。あたりには、トムくんが今まで見たこともないような、たくさんの砂が舞い踊っていました。
 実は、この男は、たちの悪い強盗でした。外国帰りや観光客などのお金を持っていそうな人をねらって近づき、タクシーに乗せ、おどしてさんざんお金を巻き上げるのです。川崎さんが眠ってしまったので、荷物を先に物色しようと考えたのでしょうか。強盗はトランクに積んだスーツケースを開けようとしました。
 川崎さんは、良くいえば質素、悪く言えば無頓着な人なので、服に気を遣ったりする人ではありません。古びて破れたりしない限り、同じ服を何年も着たりします。その他の持ち物も、高級品を使うとめまいがするとかで、安物ばかりを使っていました。いわゆる貧乏性さんなのです。
 スーツケースにはたまたまロックが掛かっていて、荷物を開けることが出来ませんでした。運転手はいらいらした様子でタクシーの後ろのドアに近づき、ドアを開けようとしました。川崎さんを起こし、おどしてお金を巻き上げるつもりなのに違いありません。トランクの隅に隠してあったロープとガムテープを引っ張り出しました。川崎さんは、まだ目覚める気配がありません。
 強盗がゆっくりとドアを開け、川崎さんを車の外に引っ張りだそうとしました。
「このやろう!!(ただし、人が聴いたらニャニャニャア!!でしょうね)」
 運転手の行動に気付いて、川崎さんの足の下にひそんでいたトムくんが、強盗の足にかみつきました。
「ぎゃあああああっ!!」
 驚いたのは、むしろトムくんの方でした。少しは手加減したつもりだったのですが、強盗はそのまま気絶してしまいました。男は猫が苦手だったみたいです。それとちょうどいれちがいに、悲鳴で飛び起きた川崎さんが周りを見、何事が起ったかを推察して、ため息をつきました。
「白タクだったのか」
 白タクというのは、特別な許可を貰わないでお客を乗せ、とんでもないところへ連れていったり、脅すなどして、決められた以上の料金を請求したりお金を巻き上げようとする、悪い人です。川崎さんはそういう人たちのことを聞いてはいましたが、慣れない土地で良く判らずに乗ってしまったのでした。
「運転して行かなきゃならないな…」
 川崎さんは面倒くさそうに、席を降りました。

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