トム物語



 満点の星が優しい煌きを地上にさりげなく届けている夜、トムくんは眠っていました。夢の中でトムくんは、あの懐かしい黒猫ミィに会いました。
「久しぶりだね。元気だった?」
 ミィは色っぽく微笑んで、答えません。どうしたんでしょう。いつものミィなら「何いってんのよ、当たり前じゃないの」と元気よく答えてくれそうなのに。
「トム、あたし、あなたのとこへ行くよ」
「えっ?」
 どういう意味なんだろう?とトムくんは不思議に思いました。そのトムくんの頬にミィがそっと口付けしました。その瞬間、トムくんは飛び起きました。
 目覚めると、さっきと同じリズの膝の上でした。リズのふわふわした金色の髪が揺れるのを見ていて、トムくんはシェリーちゃんのことを思い出していました。慌しい毎日が続いて、ゆっくり話をする時間も取れなかったのですが、シェリーちゃんは今頃どうしているでしょうか。チャーリーやティム、ミケ母さん達が気を配っていくれている筈ですが、そうは言っても結婚してまもなくの愛妻と遠く離れていることは、いろんな意味でとっても不安でした。
 川崎さんがうとうとしているリズの肩にそっと上掛けを載せてあげました。
「マヒト、少し呑まないか?」
「ああ」
 ジムがグラスを片手に、川崎さんを誘いました。トムくんはリズの膝をそっと降りて、川崎さんに駆け寄ります。椅子に座った川崎さんの膝の上に飛び乗ってちょこんと座ると、目線はテーブルよりほんの少し高い位置にありました。
「そろそろ旅の目的を聞いていいか?」
 がっしりとした太い腕をテーブルの上に載せて、ジムはじっと川崎さんを見つめました。
「こいつを書くことさ」
 川崎さんはそう言って、トムくんの載った膝をほんの少し持ち上げました。
「どういうことだ?」
「俺は童話作家で、こいつは俺の書く話の主人公なんだ。もともとはトラック運転手のアルバイトをしていて、作家になるのが夢だった。こいつはそんな俺の目の前に現れて、夢と希望を与えてくれ、叶えてくれた。ただ、物語というのはなかなか思いつくものじゃない。それで新しい環境で頭をリセットして、ヒントになる何かを掴みたくてここに来たんだ。来ればそれでいいと思った訳ではないが、とっかかりをつかめる予感がしたんだ」
 川崎さんを見つめたまま、ジムはグラスを置きました。
「俺はヨセミテのガイドをしてる。一緒に行って見ないか?」
 暫く考えて、川崎さんは答えました。
「こいつを、中に連れて行けるか?」
「中には難しいな。取っていいのは写真だけ、足跡さえも残していくなという土地だ。ましてや、野生生物は様々な感染症やウィルスを持っている可能性がある。チビには危険だ」
「それでも俺はこいつと行きたい。この広いアメリカで、見るもの全てをこいつと共有したいんだ。こいつが入れないというなら、俺は行きたいとは思わない」
 ジムは呆れたような顔をしました。
「そういう奴は珍しい。…判った、チビが行けるようなところを考えよう。俺もそういう頑固な奴は嫌いじゃない。それに」
 立ち上がって、眠ったままのリズの顔に掛かった髪をそっとどけて額に優しくくちづけをしました。
「チビが入れるなら、リズも入れるということだ」
 二人は微笑みを交わして、グラスをかちん。と合わせました。トムくんはそんな二人を見ながら、いつしか川崎さんの膝の上で深い眠りに包まれて行きました。


十一


 切り立った、そびえたつような岸壁を、その朝トムくんは生まれて初めて見ました。抱きかかえているのは、トムです。一週間程一緒に暮す間に、トムは少しずつ三毛猫族のトムくんに触れることが出来るようになっていました。リズの応援やジムの拳骨もそのお手伝いをしていたことはもちろんです。川崎さんは少し離れたところでジムと何やら話をしていました。もしかしたら今日のコースを話し合っているのかも知れません。
 川崎さんがジムに約束した一週間はまたたく間に過ぎ、トムくんと川崎さんは徐々にジムのお家での生活に慣れていきました。もうすぐ旅立つ二人の為に、今日はジムが案内役を買って出てくれたのです。いつもはふわふわのワンピースに大きなリボンのリズも、場所が自然豊かな国立公園とくれば、歩きやすい恰好に着替えなければいけません。そういう訳で今日は皆ジーンズにコーデュロイのシャツ、セーターにコートといった服装です。
 トムくんは猫用バスケットに入ったり出たりですが、リズとトムが作った素敵な名札を首に下げていました。万が一離ればなれになったとしても大丈夫なように、です。トムくんはコーデュロイのシャツの肌触りがとてもお気に入りで、今日は寝ぼけながら何度もトムのお腹にほお擦りしていました。そのトムくんが寝返りを打ったりする度にびくびくしているのはやっぱりトム。でもね。最初は気絶してばかりでしたが、少しは頑張ったんです。今はもう、震えてはいてもちゃんとトムくんに触れることが出来るんですよ。
 最近はトムくんの温かさに気付いて、寒い時はトムくんを抱っこしようとします。でもそういう時はしゅるんと逃げて、リズや川崎さんのところへ行ってしまうのでした。トムくんの、三毛猫族にしてはちょっと長めのしっぽでぺしんって叩かれると、トムは思わず悲鳴をあげそうになってしまうのでした。
「大分慣れたな」
 ジムがトムくんを抱きかかえるトムを見て、ニヤリと笑いました。トムは情けなさそうな顔で兄を見つめましたが、ジムは全然お構いなしです。
「チビちゃん、これから暫くおトイレもご飯も駄目よ。大丈夫?」
 トムくんの顔を覗きこむようにリズが聞きました。「うん(注:もちろんリズにはにゃ〜あとしか聞えません)」と答えるトムくんに、リズはうっとりしています。
「あ〜ん、チビちゃん可愛い。クリスマスプレゼントにチビちゃんが欲しいなぁ」
「だ〜めっ(注:にゃにゃ〜あと聞えているはずです)」
「……なんだか、会話になってるなぁ」
 小さな女の子と猫の掛け合い漫才のような会話をトムはしみじみと不思議そうに眺めています。
「チビは人間の話が理解できるぞ」
 横合いから川崎さんが声を掛けました。
「内容も判ってるし、頭も切れる。もし何か悪さをすることがあれば必ず理由があるんだ。おまけにこいつの忠告はかなり役立つ」
 猫とは思えない、という言葉をどうやらトムは飲み込んだようでした。
「だから」
 ニヤリと川崎さんが笑いました。
「あの時、お前の足に噛み付いたのさ。猫の前足でも掴みやすいし、足を痛めれば逃走が難しくなる。いざつかまれてみると振り払うのが難しい。おまけに服や靴下に覆われているから、怪我をしてもそのあと生死に関わるような事態にはなりにくい。体液が触れないから感染症の可能性も低くなる。それに相手に対するショックを与えることが出来る。普通の猫は自分の身を守ることだけ考えるから顔や手を爪で引っ掻くだけだろうが、チビの反撃は一味も二味も違うぞ」
「チビちゃん、本当に賢いのねぇ。あ〜ん、ますます欲しくなっちゃったわ! ねえマヒト、チビちゃんを頂戴!」
「駄目だよ、リズ。さっきチビもそう答えたろ? それにね、こいつにも家族がいるんだ。可愛いお嫁さんがね。だから、チビ一猫をここに置いていく訳にはいかないんだ」
「じゃあマヒトもここに残ればいいわ!」
「おいおい、そしたら俺はチビのついでかい?」
 おしゃまに軽くターンして、後ろ姿を見せたリズが、振り返りながら笑いました。
「そんなことはないわ。わたし、マヒトもチビちゃんもトムおじさんも大好き! ずっとここに居てくれたらいいなぁって」
 トムはきょとんとした顔でリズを見つめました。今までそんなことを言ってくれる人なんて、居なかったのです。
「リズ、本当かい?」
「もちろんよ、トムおじさん。だって三人が来てからパパは毎日すごく嬉しそうだわ。いつも優しいけど、ママが死んじゃってから、ずっと淋しそうだった。でもマヒトやトムおじさんと話をしたり、チビちゃんと遊んでるパパは、とっても楽しそうだもの。ねえ、トムおじさんはずっとここに居てくれるのよね?」
 リズのビー玉みたいな緑色の瞳がきらきらと輝いて、トム顔を映していました。トムの目が次第に潤んでいくのに気付いたトムくんは、そっと川崎さんの肩へ飛び移りました。
「チビ?」
 トムはその場にしゃがみこみ、激しく泣き出しました。
「トムおじさん、どうしたの? どこか痛いの?」
 リズが心配して駆け寄ります。そこへ丁度戻ったジムが肩を軽く叩くと、トムはその腕にしがみついて、泣きました。兄の大きな体をしっかり抱きしめて泣く姿はまるで少年のようでした。
「ようやく、だな。お帰り、トム」
 低く豊かなジムの声は弟に深く響きました。トムくんはそんな兄弟をじっと見つめていました。


十二


 こんなにも深く静かな闇に包まれた森を歩くのは、トムくんには初めてのことでした。昨日から見ているものは、信じられないくらいに澄んだ空気と水。それから生き生きとした息吹を感じさせる自然。エル・キャピタンの切り立った壁も驚きでしたが、森に満ちる動物の匂いや足音も消してしまう大雪にはもっとびっくりです。トムくんの故郷は雪も殆ど降らない、温かい土地なのですから。もっとも、トムくんには足音なんて無縁なんですけどね。古いお話によると、昔、強い剣を作るために女の人のひげと、猫の足音などが材料として集められたといいます。それ以来、猫には足音が無くなって女の人にもひげがなくなったとか。本当かどうかはともかく、トムくんも足音をたてずに歩くのは、とってもじょうずなんですよ。
「今回はドームには登らない。それから冬は滝が枯れているからそのつもりでいてくれ」
 ジムはそう言いました。ヨセミテで有名なハーフドームやノースドームは、子供には少し辛いと思われるからです。トムくんが一緒で今回はトレイルも使えないし、いろいろと考えなければならないようでした。でもそんなことより、トムくんも川崎さんも目の前に広がる光景に目を奪われていたのです。
「あれがノースドームだ」
 雪の原っぱに、まるでクリスマス・ツリーのように空へ向かってまっすぐ伸びた木々が、たくさんの雪をかぶっていて、そのさらに向うにその大きな岩山はありました。一番高い木よりずっとずっと高いのです。切り立った崖はナイフで削り取ったみたいに鋭くて、雪がまるで白い粉砂糖みたいにドームを飾っています。そんな厳しい岩山にもちゃんと木は生えていて、しっかりと根づいているのでした。来る時に見た、エル・キャピタンもとても急な岩山だったけど、もっと全体的に丸くてなめらかな感じがしていましたが、ノースドームはずっとゴツゴツした印象です。どちらも岩だけど、トムくんの爪は果たしてひっかかるのでしょうか。
「雪に沈んでいるようだな……」
 川崎さんがそうつぶやきました。沈もうとしていく月が西の空に溶け込むように消えていきます。
「チビ?」
 トムくんの目からひとつぶの涙が落ちていきました。
「猫とは思えないな、チビは」
 しみじみとジムが言いました。
「さて、そろそろ朝食にしよう」
 朝から何も食べずにここに来たので、お腹はペコペコでした。

 昼食を終えて、ヨセミテのロッジに戻ろうとしたその時、トムくんは何かの匂いと音を感じたような気がしました。リードを掴んだトムの向こうにジムがいることに気付いて、その肩に飛び乗ります。それを見て、ジムは川崎さんに向かってニヤッと笑いかけました。
「……流石だな」
「もしかして、何かいるのか?」
「ああ」
 その瞬間、夕焼けの空を切り取ったような鮮やかな色が目の前を斬るように通り過ぎていきました。
「野鳥か!」
 トムくんはその羽の色に目を奪われました。日が沈んだ直後の、あの紫と、夜の闇が交じった青をまぜたような色合い。白い雪原に鋭く飛んでいる姿は、まるで絵本の中の一枚の絵のようです。
「地球上では、今世紀中に鳥類の十四%が絶滅する可能性があると言われている。希望的に見ても六%は絶滅するだろうともいう。ウィルスによって激減することもあるが、何よりも生息環境が悪化し、どんどん減少しているんだ。そして、鳥類の激減はそのまま害虫の繁殖に繋がってしまう。だからヨセミテのような場所の保全が必要なんだ」
「渡り鳥の繁殖地が年毎に縮小しているという話も聞くな」
「ああ、モモイロペリカンの話が有名だ」
 木の影を見つめていたリズが声を上げました。
「ジリス? ナキウサギ?」
 振り返ると、リズの視線の先にはトムくんより小さな動物がいました。黒目がちのおおきな瞳を動かして、でもあまり警戒する様子はありません。
「ほら、あまり騒いではいけないよ。餌をあげるのも禁止だ。いいな?」
「ええ、パパ。ごめんなさい」
 にっこりとリズは肯きました。その様子を見ながらジムが提案しました。
「まだちっとは元気があるようだし、インディアン・ロックに寄っていこう」
「確か、アーチ状になってる……?」
「そうだ。岩の上まで登れれば、アーチ越しにハーフドームが見える。もしそこまで行けなくても、アーチは見る価値が充分にある」
 ジムは何となく誇らしげに見えました。

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