トム物語



 川崎さんのアルバイトは、トラック運転手でした。その免許は日本国内のものなので、外国で車を運転することは出来ません。国際免許という特別な免許が必要なのです。でも幸いにレンタカーを借りるつもりで川崎さんは日本でその手続きをとってありましたので、強盗犯の車を運転することが出来ました。そこで、強盗が暴れないよう適当にガムテープで止め、トムくんが犯人の番をすることになりました。犯人の胸のあたりにちょこんと座ったトムくんを見て、川崎さんは吹き出しそうになってしまいましたが、トムくんはとっても真剣な顔つきです。犯人が目を醒ましたら、うなり声をあげておどしてやるつもりでした。だってこの犯人のせいで、トムくんの素敵なおうちの扉が壊れてしまったんですもの。トムくんが怒るのも当たり前ですね。
「カーナビは…ないか。じゃあ地図で行くしかないが、場所が判らんな…」
砂地をずっと走ってきて、民家はどこにも見つかりません。強盗がこんなところへ運んだのは、川崎さんが逃げ出しても助けを求めるところがとっても少ないからでした。それでも、舗装された道をずっと走っていけば、どこかへはたどりつくでしょう。
 川崎さんはそう思いましたが、ガソリンの残量計を見て困ってしまいました。あまり余裕がないのです。土地鑑がないし、どのくらい行けばいいのかも全然判りません。途方に暮れてしまいました。夜になると沙漠はとっても冷え込んでしまいます。毛布も何もないのに、沙漠で夜を越すことが出来るでしょうか? それに犯人だって、このままにしておくわけにもいきません。
 夕陽が地平線の彼方に沈んでいきました。その時、川崎さんはひらめいたのです。ロサンゼルスは西海岸にある都市です。西へ向かっていけば、いつか海に出るでしょう。そうすれば、ロサンゼルスと他の都市を結ぶ道路にも出られる筈ですし、そこから正しい道を探すことだって出来るかも知れません。
「チビ助。行くぞ」
 ハンドルを握ると、川崎さんは西へと車をすすめました。そして、暫く行った先で一軒の家を見つけました。
「この時間にこんな身なりでは怪しまれるのがオチだが…。背に腹は変えられないな。チビ助、見張りをしててくれ」
 そう言って川崎さんは灯のともる小さな家に向かいました。
 とんとんとん。
 丁寧に、でも音が聞こえるようにしっかりと叩くと。中から現れたのは、金色の髪に褐色の肌を持つ、あどけない少女でした。
「こんな時間にごめんね。ロサンゼルスへ行きたいんだけど、道が判らないんだ。教えて貰えるかい?」
 川崎さんはゆっくりと少女に聞きました。その背中へ、深く沈んだ声が響いてきました。
「何の用だ?」
 振り向くと、黒髪に黒い肌のがっしりとした男の人が立っていました。もしかしたら、この金髪の少女の、お父さんでしょうか。
「あ、道が判らないので教えて頂きたいんです。ロサンゼルスへ行くには、どう行けばいいですか?」
「旅行者か?」
 ぎろっとした目で川崎さんを睨みながら聞き返します。「ええ」とにっこり笑って肯き、事情を説明しました。その途端、「もしや」という顔で、車の方へ駆け出しました。その様子にちょっと驚きながらも、川崎さんは慌てて後について行きます。
 後部座席に気絶したまま横たわった犯人を見て、男の人は愉快そうに笑声をあげました。
「こりゃいいや! おれはジム。あれは娘のリズだ。で、あいつは俺の弟でトム。悪いことばかり憶えて家出しててな。迷惑かけちまってすまなかった。よければあんたの名前を聞かせてもらえるか?」
「川崎眞人です」
「マヒト? 呼びにくい名前だな。まあいいや、今日はここに泊まっていけ!」
 そう言って川崎さんに右手を差し出しました。二人は握手を済ませると、後部座席から気絶したトムをひっぱりだし、トムくんも連れてジムのおうちへ入りました。



 暖かな中にも爽やかさを感じる、早朝。
 カリフォルニア、ロサンゼルス郊外に住むジムの家では、「お小言」が響いていました。
「よそ様に迷惑かけてばかりいないで、しっかりしろ。せめてお天道様の下に居られるような仕事をするんだ。暮らしがたつまではここにいればいい。だから二度とそんな悪事に手を染めてくれるな」
 トムくんはそんな兄弟二人を見つめていましたが、やがてジムの娘リズの手に抱き取られてしまいました。ついうっかり夢中になっていて、逃れるタイミングをなくしてしまったのです。
 川崎さんは、そんなトムくんの様子をスケッチしていました。三毛猫族であるトムくんは、アメリカではとっても珍しいので、リズはずっとトムくんを抱っこしたかったようです。手加減してくれないリズの抱っこは、最初、トムくんにはちょっと辛かったのですが、川崎さんが教えてあげると、リズはトムくんが苦しまないような力の抜き方を憶えて、少しずつ二人は仲良くなっていきました。
「待たせてすまなかったな。朝飯にしよう」
 げんなりした様子の弟トムを従えて、ジムが三人のところへ戻ってきました。
「マヒト、ところでその猫は『チビ』っていう名前なのか? どういう意味なんだ?」
「いや、この猫の名前はトムだ。『チビ』っていうのは愛称だな。『ちいさい』という意味だ」
 その話を聞いたジム、トム、リズの三人は吃驚して言葉もありません。そうですよね。猫嫌いのトムと三毛猫族のトムくんが同じ名前なんですもの。しかもトムくんはとても勇敢な猫、そして人間のトムは川崎さんからお金をとりあげようとして、トムくんに吃驚した臆病者だったんですから。
 トムは口をパクパクさせています。ほんのちょっと早く吃驚から立ち直ったジムが、トムくんを抱き上げました。
「いい名前だ。それに勇敢でいいやつだな」
 そう言ってトムくんにほお擦りしました。
「トム、お前はこのトム…まぎらわしいな。チビって呼ぶか。チビと一緒にいろ。食事やトイレの世話もお前がやれ」
「えーっ、パパ、私がしたいわ。こんなに可愛いんですもの」
 そう駄々をこねるリズの金髪をやさしくなでて、トムくんを右手で抱えると、左手にリズを抱き上げました。
「お前はそのお手伝いだ。叔父さんが出来ないことを、手伝ってやるんだ。いいな?」
「ほんとう? パパ。ありがとう!」
 リズの嬉しそうな笑顔に、「いやだ」という言葉を飲み込んでしまったトムは、こそこそと逃げ出そうとしましたが、それに気付いたジムが、トムの肩にトムくんを載せました。
「うぎゃあああっ」
 あっという間に白目をむいて気絶してしまいました。肩に載せられたトムくんは、崩れ落ちるトムの下敷きになる前にすとんとジムの肩に飛び移ります。それを見ていたリズが嬉しそうにトムくんに手を伸ばしました。
「先が思いやられるが…。まあ、こいつにはいい薬だろう。それにチビは頭もいい。こいつの臆病を少しは変えられるかも知れん。すまんがしばらく滞在してくれないか、マヒト」
「そうだな。一週間くらいなら」
 こうしてトムくんと川崎さんは、ジムの家のお客様となりました。



 秋の温かい陽射しの中、シェリーちゃんはうたたねをしています。最近は天気がいいせいでしょうか。やたらと眠くって、最近シェリーちゃんはまるで「眠り猫」みたいです。
 昨日、チャーリーの奥さんのミカが無事赤ちゃんを産みました。シェリーちゃんと、それから何匹も子猫を産んでるミケ母さんがお手伝いです。
 ミケ母さんが「とても安産だった」って言ってるし、チャーリーもいるから大丈夫でしょう。ミカはぐったりしたようすでしたが、それでも満足そうな優しい笑顔で子猫たちを見つめていました。
 今頃はお乳をあげながら二猫でちいさな猫たちの名前を考えているかも知れません。
 トムくんが川崎さんに連れられてロサンゼルスへいって、もう五日でしょうか。ここ一ヶ月ほどはずっと準備に追われてあわただしい毎日で、シェリーちゃんはトムくんとゆっくり話す時間もありませんでした。でもいなくなってしまうと、何もやることがなくなってしまって、今更ながらにトムくんの存在の大きさを実感するのでした。
 まだ行ったばかりなのに。
 ふとシェリーちゃんが玄関を見ると、誰かが外に居るみたいです。
「どなた?」
 声を掛けると、影は吃驚したみたいに慌てて走って行ってしまいました。外を見回しても誰もいません。
「だれだったのかしら?」
 不思議に思いましたが、しかたありません。
「どこかと間違えたのかも知れないわね」
 そういって中に戻りました。
 数日後、シェリーちゃんはミカのお見舞いに行きました。まだ目が開かないちいさな猫たち。一生懸命お母さんに甘えて、お乳をもらっています。
「本当に可愛いわねぇ」
 溜息とともに呟くと、ミカが子猫たちから視線を外してシェリーちゃんを見つめました。
「そういうあなたも、もうすぐでしょう?」
「えっ?」
 驚いたようにシェリーちゃんが見返すと。
「じきよ。すぐだわ」
 そういって、ミカはにっこりと優しく微笑みました。
 そうかしら?という言葉は飲み込んで、シェリーちゃんはおうちに帰りました。トムくんが帰ってくるまで、まだ少しあります。一猫でのお留守番は淋しいし、心細いなぁ。
 そう思いながら歩いていると、おうちの前に知らない猫がいました。
 つやつやした毛並みの、黒猫族の女の子です。
「あの…?」
 挑むような瞳が、大きくきらきらと輝いていて、まるで黒い宝石みたいだわとシェリーちゃんは思いました。
「あなたの体を貸して欲しいの」
「えっ?」
 その時、女の子の姿がぼやけていき、やがて消えてしまいました。吃驚していると、女の子の居たあたりに黒い種みたいなものがふわふわと浮いているのに気付きました。
 ぱくん。
 シェリーちゃんは見つめているうちについその種みたいなものを一呑みしてしまいました。すごく温かい、ふんわりしたお布団の上に寝そべっているみたいな気持ちに包まれました。
「気がついた?」
 目を開けると、ミケ母さんがすぐそばにいました。どうやらシェリーちゃんは眠っていたみたいです。
「夢……?」
「大事な体なんだから、無理はしないのよ」
 ミケ母さんは優しく微笑みました。シェリーちゃんはほんわりした気持ちになりながら、もう一度心地いい眠りに入っていきました。

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