流鳥物語〜ぼくの旅〜


十二


 白い氷の世界が、何となく日毎に大きくなっている気がする。気温はどんどん下がっていて、吐く息は白い。見渡す限りに白い山と、白い氷の塊がどこまでも続いていて、手前の平原みたいな白いまったいらなところには、ペンギン族の足跡と、トボガンの跡らしきものが見えた。記憶に残っている太陽を手がかりに、ぼくはまた歩きはじめた。大きな氷の山をいくつも越える。しっかりと歩いて、でもときどきはトボガンで、どんどん進んだ。その時だった。
「『夏日』が終わったな!」
「ああ、もうコロニーへ戻らなくては」
 そんな声がふと聞こえて、ぼくはそちらを振り向いた。少し離れたところに、ペールさんと同じ模様のペンギン族が見えた。丁度、ぼくのことは向こうからは見えないみたい。少し高い位置だからかも知れない。でも夏日ってなんだろう?
「すっかり日が短くなっちまったな」
「夏の暑さに慣れた体にはひときわ冷えたこの空気が堪えるぜ」
「ま、コロニーに着けばお楽しみが待ってるんだからよ」
「それもそうだ!」
 口々に語り合う様子は、わいわい賑やかで、とても楽しそう。気心知れた仲間って感じがとてもする。そのときだった。そそり立つ、それが見えたのは。
 白い、だけどそれだけでなくて、その中にほんの少しの青を含んだみたいな色は、冷たいことが一目で判るのに、何故か温かい感じがした。その崖は、間違いなく氷で出来ているみたい。でも、ただ冷たいだけじゃない何かが、ある気がしたんだ。そこに、太陽が横から光を差し込んでる。ガラさんの居たあの島と比較したら、細くて弱々しい光。だけどその光も、この最果ての氷の島では、大切な宝物。その宝物の光に照らされてきらきら輝くその崖は、とても大きくて、逞しくて、そしてすごく懐かしい感じがした。太陽のひかりで少し溶けたところからは、透明な氷の、細長い棒が出来ている。
「父岩だ……」
 ぼくは、何時の間にかそう呟いてたんだ。でも、父岩って何だろう。何でぼくはそんな言葉を知っているんだろう。そして、なんでぼくの目から涙があとから後から零れてくるんだろう。訳が判らないまま、鼻がずるずるーっ。ってなって、涙が止まらない。そして、まるで引き寄せられるみたいに崖のすぐ傍にたどり着いたとき、ぼくは漸く気がついたんだ。そこが、どこかということに。
 崖の下に広がっていたのは、とても広大なコロニー。多分、ぼくが生まれた場所だと思う。とても懐かしい匂いのする場所。そこには、何千何万っていうものすごい数のペンギン族が居たんだ。ペールさんと同じ種類の、あの大きなペンギン族が。賑やかに鳴き交わして、お互いに優雅な挨拶をしてる。お辞儀をしているペンギン族は、黒い顔に黒い背中と黒くてしっかりした足、嘴にはとても鮮やかなオレンジが入って、首と咽喉元にとても綺麗なレモンイエローが見えた。形はキンさんを一回りか二回り、大きくした感じ。色合いも良く似ているけど、キンさんやロイさんみたいなスマートな体と比べたら、もっとどっしりしていて、ずんぐりむっくりっていう感じがした。ぼくは、どきどきしながら、一歩を踏み出した。コロニーの中へと。
「あのっ…」
 ぼくが声を上げる前に気付いたペンギン族も居たみたいだけど、大半はぼくの声に気付いて振り向いてくれた。
「ぼくは、故郷を探して遠くから旅をしてきました。ここは、もしかしてぼくの故郷ではないでしょうか」
 一気にそれだけ言ってしまうと、あとは相手の反応を待つしかなかった。ぼくが海に飛び込んで魚を五匹くらい口に入れるくらいの時間が静かに過ぎた。そして、次の瞬間、ものすごい地響きがしたんだ。ぼくが驚いたって当然だと思う。でもそれは地震とかじゃなかったんだ。
「お、お前っ! もしかして、あの<白い希望>かっ?!」
「<白い希望>だって!」
「何ですって?」
 忽ちに辺りは喧騒に包まれた。でもぼくが<白い希望>って呼ばれてるの? ぼくは<白い変なやつ>とか、ずっと旅の途中で言われていたのに。
「ぼうや! ぼうや!!」
 遠くから、沢山のペンギン族の波をかき別けて、やってくる影があった。体はぼくより一回りくらい大きい気がする。とても豊かでしっかりした体をしていて、すごく安心出来そうなペンギン族だ。あれ、でも「ぼうや」って、誰かとはぐれてしまったのかな?
「ぼうや!」
 すぐ近くで優しくて温かくて、それでいて綺麗な、とても懐かしい声がして、ぼくは抱き締められていた。すごく強く。でも単純に痛いんじゃなくて、とってもとっても心配していてくれたんだってことが、良く判る抱き締めかただった。そして、このコロニーに来た時にも感じた、懐かしい匂いがぼくを包みこんでくれる。それから、優しくフリッパーをぼくの頬に添えて、そっと顔を覗きこむ。どきん。って胸が高鳴った。
「ああ、ぼうや。無事だったのね」
 涙で顔はぐちゃぐちゃだったけれど、その涙は、すごく心に染み入ってくるような、温かい涙だった。でも、匂いとか、腕の感じとかは記憶にあるけれど、でも実感としての記憶は戻ってないんだ。それがものすごく申し訳なかった。
「すみません、ぼく…。記憶がないんです」
 はっとしたような、哀しげな目がぼくを包みこむように見つめてくれている。ああ、却って心配かけちゃったかな。でも、記憶がないのに、適当に合わせるなんて、ぼくには出来なかったんだ。
「ただ、ここの太陽のことだけ憶えていて、それだけを頼りに、ここまで旅をしてきました。失礼だけど、あなたはぼくのお母さんですか?」
「おお。おお」
 涙で言葉に詰まっているみたいだったペンギン族の後ろから、慣れた様子でパートナーらしきペンギン族が現れた。とても優しい眼差しに、力強い体。穏やかで、どっしりしてる。
「そうだ。ここはお前の故郷だよ。そして、お前は私たちの子、<白い希望>だ」
 そういって、そのペンギン族……ぼくのお父さんは涙を零しながら、お母さんごとぼくをしっかりと抱き締めてくれた。ぼくはお父さんのフリッパーの確かさと、お母さんの胸の温かさに、また新たな涙がこみあげてくるのを感じていた。こうしてぼくは、無事に長い長い旅を終えて、故郷に帰りついたんだ。

 記憶がないぼくのために、後からお父さんとお母さんが説明してくれた。子供を待ち望んでいたのに、お父さんとお母さんはなかなか繁殖に成功出来なくって、ぼくの兄さんや姉さんたちは、雛とか卵のうちに死んでいたんだって。そして、去年。初めて換羽出来るまでに成長出来た子が、ぼく。両親が少し驚いたのは、ぼくの換羽した羽が白っぽかったこと。今まで、そういうペンギンは居なかったんだって。
「でもね、わたしたちは生まれた子が、そこまで成長してくれただけですごく幸福だったの」
 もしかしたら、周りからはいろいろ言われたかも知れない。でも、換羽出来るまで、両親はぼくを一生懸命力を合わせて育ててくれた。そして、換羽してすぐ飛び込んだ海で、調子に乗ったぼくは沖合いまで出掛けて、そこで大きな波に巻き込まれてしまったんだ。記憶を無くしてしまったのは、その時頭をぶつけたからじゃないかなって言われたけど、そうかも知れない。だって、お父さんやお母さんの声を聞いたとき、とても懐かしい気持ちがして、訳が判らないままに、熱い涙が目から零れてきちゃったんだ。
「<白い希望>……」
「良く帰ってきてくれたな」
 ぼくは泣かないぞって思ってたんだ。でも、お父さんやお母さんの、涙でくしゃくしゃの素敵な笑顔を見てたら、今までの旅のこととか、いろんなことが次から次へと頭に浮かんできてしまって、気付いたらぼくもわんわん泣いていたんだ。これくらいは、許されるかな。許してもらえるのかな。

 「夏日」が終わろうとしてる。太陽が空にある時間は目に見えるほど日毎に短くなっていく。ちょっとずつ夜が延びていって、そして「冬夜」が。これから、長くて暗い冬が始まるんだ。でもその前に、ぼくらの種族の恋の季節があって、卵が生まれる。そうしたら、お母さんたちはお父さんに卵を預ける。とてつもなく寒いから、預けるのには時間をかけないよう素早くしなくちゃいけない。ぼくが魚を二匹飲み込む程度の時間には終わらないと、卵が死んでしまうんだ。
「あなたには繁殖はまだ早いけれど、お父さんの傍で、見守っているといいわ。その経験は、あなたにはきっとかけがえのないものになる」
 そう言い残して、お母さんは海へと向った。それからすぐ、太陽が全然見えない「冬夜」がやってきた。他の殆どのペンギン族は巣を持って、そこで抱卵するけれど、ぼくたちに巣は要らない。卵を足の上に載せてお腹の体温であたためながら、皆で身を寄せ合う。だって、巣があったら皆で集まって暖を取ることなんて出来やしないもの。「最果ての氷の島」の寒さは半端じゃない。ぼくたちは吹き荒れる白い氷の風の中で、一心不乱にハドリングし続ける。黙々と歩くのは、体温と体力とを少しでもキープするため。無駄な動きや言葉はエネルギーの無駄遣いだもの。そうして、お母さんたちが海から帰って来る頃に合わせるみたいに、卵から雛が孵る。この頃になると、太陽は殆ど見えない。「冬夜」だ。「夏日」っていうのは一日のうちの殆どが太陽が出ていて、温かい時期のこと。だから「冬夜」はその反対で暗くて寒い夜が続いている。その暗い夜の終りを告げ、灯を灯すのは、雛の誕生。ピロロロロ。って、賑やかな声を出すのは、淡い灰色の、生まれたばかりのふわふわの雛たち。ぼくもこんな風な色だったのかな。ああ、そういえばペールさんが雛の色とぼくの色が似てるって言ってたっけ。とすると、今のぼくにも似ている色なのかも知れない。
(注:ハドルとは密集体形のこと。密集体形を取ることをハドリングといい、極寒の南極大陸で子育てをするエンペラーペンギンに見られる行動)
「弟はそろそろかな」
 お母さんはまだ帰ってこない。ぼくはお父さんの隣で卵の様子を見つめていたんだ。
「おやおや、弟って決めているのかい」
「妹でもいいね。元気に生まれて元気に育ってくれたら」
 お父さんは目をぱちくりさせて、それからにっこりと笑ってくれた。
「その通りだ」
 すごく優しくて、温かい笑顔だった。ちょうどその時。お父さんの足元の卵、つまりはぼくの弟か妹の入っている卵がこつん。って割れて、けたたましいって言いたいくらいに元気な声が響いた。小さな嘴が卵の殻を必死に突いてる。
「初めまして、ぼくの弟」
 ぼくは雛を覗き込んで、にっこり笑った。お父さんが「兄弟ご対面だな」ってそっと笑った。その時だった。ぱああああっ!って明るい光が、地上を一閃した。それはぼくが憶えていたあの懐かしい太陽そのものだった。長い長い、「冬夜」が終わった。父岩の向こうに、お母さんらしい影が見えたとき、ぼくは全てを思い出すことが出来たんだ。
「ああ! お父さん、お母さん! ぼく、ここで本当に生まれたんだね!」
 卵から漸く這い出したぼくの小さな弟が、何だか嬉しそうに小首を傾げてぼくを見て、にっこりと笑った。
 ねえ、ペールさん。ぼく、ようやく本当の故郷にたどり着いたんだ。ぼくの旅は、ようやく終わったんだ。

 旅が終わったんだから、この続きを書くのは、ええと、ペールさんの言い方を借りるなら「野暮」ってことかも知れない。でも、ぼくはちょっと付け足ししなくちゃいけない気がするんだ。弟の換羽が始まって、お父さんとゆっくり話せる時間が出来たときに、「ヒト」の話が出たんだ。お父さんによれば、「ヒト」と「人間」は同じ生物なんだって。そういえば、ぼくたちがハドリングをしてるとき、黒っぽい姿をした生き物が傍でずっと見ていたけれど、あれがそう?ってきいたら、お父さんはそうだよ。って答えてくれた。ぼくは吃驚したんだ。だって、今まで聞いていたヒトとか人間って、ぼくたちペンギン族を迫害してばかりだったから。アイさんたちの話をしてみたら、お父さんは静かに教えてくれた。
「今までヒトはずっとペンギン族だけじゃない、いろんな生物を迫害してきた。でも、きっとそれがいけないことだってことに気付いたんだろうね。勿論、我々ペンギン族の大事な卵を取ってしまうような輩は今でも時々いるけれど、自分たちでそれじゃいけないんだって気付いたことは、とても大切なことだと思うよ」
「でも、アイさんたちは、住処を失ってしまった」
「勿論、そういったことに対してなんらかの援助を差し伸べる必要はあるだろうね。でも、我々ペンギン族が彼らヒト族の趣味や好みが判らないように、彼らも我々の好みは知り得ないだろう」
 それは、そうかも知れない。
「それにね」
 お父さんはヒトの方をチラっと見ながら、ぼくに続けた。
「どうもヒトっていうのは、我々ペンギン族の雛が大好きらしくってね。本来ヒトはもっと温かいところの生き物なのに、わざわざ我々に会いに来るんだよ。そういうのを、邪険に出来るかな?」
 茶目っ気たっぷりにウインクをするお父さんは、とっても素敵に見えた。
「じゃ、もう雛を苛めたり、ぼくらを苛めたりしない?」
「多分、そうだろうね」
 そんなことを話していたとき、すぐ傍から弱々しい声が助けを求めているのに気付いた。でも、辺りに雛は見えない。その時、近くでぼくたちを観察していたヒトが、ぴかぴか光る鋭いものを持って、ぼくたちに近づいてきたんだ。今までずっと近づいて来なかったのに、一体どうしたんだろう? 良く見ると、地面に穴があった。そこから弱々しい声が聞こえる。ヒトは、その穴の周辺部にその鋭いものを突きたてているみたい。見守っていたら、穴が少しずつ大きくなった。そうか、雛を穴から助けようとしてくれているんだ。その傍には、雛のお母さんらしきペンギン族もいる。長い時間をかけて氷の穴が広げられて、無事雛が出てこられた。ずっと怖くって泣きじゃくっていたんだろうな。助け出されるとすぐ、雛は覚束ない足取りで親のもとへと走り出した。
 その足取りはまだまだ頼りないけれど、ぼくたちペンギン族とヒト族との関係も、こんな感じなのかも知れない。ぼくは、助け出した雛を優しそうな表情で見つめるヒト族の向こうに、太陽が昇ってくるのに気付いて、そっと微笑んだ。

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