銀宵――海虹外伝――



 上空を鷹がゆったりと旋回している。厚手の上衣を頭から被った旅人は、それに気づいて、つと左手を高く差し伸べた。その腕に、慣れた様子で鷹が舞い降りる。足には小さな通信筒が付けられていた。旅人は鷹をあやしながら、足についたそれを取った。通信文を読み、すぐ傍にあった岩に腰を下ろして、返事を書く。鷹が旅人の肩や頭の上を楽しげに飛ぶが、作業の邪魔はしない。その行動を理解しているからだろう。通信筒に書いた返事を入れ、封をする。鷹は素直に足を差し出した。通信筒を括りつけて、顔や首の辺りを一頻り撫でてやると、嬉しげな声を上げて、力強く羽ばたく。次第に遠ざかる鷹を見ながら、旅人はまた歩きだした。

 乾いた風が、冷たい音を立てる。どこまでも続く赤い岩と、その岩が風によって削られたために作られた赤く細かい沙とが、見渡す限りどこまでも続いていた。旅慣れぬ者であれば、そこで前途を儚んで絶望に打ちひしがれてもおかしくはない。だが、そこは沙と岩以外何もない場所である。そのままそこに留まれば、それは即ち死を意味する。旅人は、生き続けることを望むのであれば、立ち止まる訳にはいかなかった。
 岳家の婚礼行列の先頭に立つのは、碧瞳の青年である。赤銅色の髪はその頭布に隠されて、今は見ることが出来ぬ。洛家の当主の第二子である彼は、岳家の当主の娘である女性を妻に娶ることになっていた。旅は順調であった。花嫁が不在であることを除けば。そう、この婚礼のもう一人の主役である岳孔昭は、岳家での儀式の直前に拉致されていたのである。気分が重くなるのは是非もない。花嫁の身代わりを立てて岳邑を出発したが、花嫁の行方は杳として知れなかった。
「孔昭。疲れてはいないか」
 花嫁の幌に向って時々声を掛ける。岳邑を出た直後は花嫁衣装だったが、現在は洛家から持ってきた衣装をまとっている「替え玉」は、控えめに幌を開けて姿を見せ、静かに首を横に振った。いいえ。という声が風に運ばれてきたような気がするが、密やか過ぎてそれが現実なのか幻なのか、俄かに判断がつかぬ。洛家の公子は胸のうちで唸った。あの虞炎玉がこれほど完璧に替え玉をこなすとは。と。炎玉は花嫁である岳孔昭の親友である。背格好が似ている為に今回の役目を引き受けることになったが、容姿も性格もまるで正反対であった。寧ろ正反対であったからこそ二人は親友たりえたのかも知れない。
「あと少ししたら、駱駝に乗り替える」
 表情がまるで見えない洛家の衣装は、花嫁の姿を隠すには好都合過ぎた。静かに首が肯くのを確認した花婿は、前方に目を向ける。行く手に沙河の渡し場が見えた。
 沙河は、洛邑と岳邑のほぼ中間に位置する、伽都の方向から流れてくる河川である。沙の多い土地ゆえ、天井川で水量は多くはないが幅はそれなりにある。川沿いに南下するのが、伽都への通常行程であった。洛瓊琚は一旦対岸の様子を観察し、行列に停止命令を出した。
 渡し場には、既に駱駝が用意されていた。駱駝は沙の多い地方で主に乗用若しくは貨物用に使われる乗り物で、南方ではあまり見られない。わざわざ乗り換えることを告げたのは、それが「替え玉」炎玉の実家がある海邑では、まず利用されないことを彼が知っていたからである。「花嫁」はしずしずと近寄って来、花婿の手から手綱を取った。駱駝の顔をそっと撫でた様子には、怖れは微塵も感じ取れない。駱駝は大人しくその場にしゃがみ、花嫁が横様に乗るのを待ってゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫か」
 目深に被った頭布は、表情さえも見えなくしてしまう。先程と同じように、慎ましやかに肯くのを見、更に言葉を続けた。
「順調にいけば、夕刻に其華に到着するだろう」
 形の良い唇の端が、心持ち少し笑う形を作っているように見えた。

 沙漠も終わろうとしているあたりにあるその小さな町は、規模としては大きくはないにせよ、適当な賑わいを見せていた。繁華街もあるようで、酔った男たちが肩を組んで陽気に歩いていく姿が、何組か見られた。そこを、小柄な旅人らしき姿が小走りで過ぎていく。大きめの皮革の衣は沙漠の熱も光も通さない丈夫なもので、装飾はないが品物は良さそうであった。頭部をも覆うそれは目深に被られていて、人相は良く見えないが、背格好から言って大人の男とは思えない。
「ようよう、いい衣装じゃねーか」
 どこにでもいそうな輩は、ここにも居たらしい。面倒臭げに頭を軽く振って、相手が次の言葉を繰り出すのを待たずに、その爪先が地面を蹴った。「俺にそれを寄越せよ」と言い掛けた唇が驚愕の形に動く前に、男は地面に倒れ込んでいた。傍目から見れば酔ってそのまま倒れ込んだと思われそうな、平和な寝顔である。小柄な旅人は楽しそうに鼻で笑って、その場を立ち去った。

 明るい光が窓から差し込んでくる。開いた目には、見慣れぬ風景が映りこんできた。そういえば昨夜は宿を取ったのだと思い出す。前夜が徹夜であったせいもあり、夕刻早目に宿を取ったのだが、入浴を終えてすぐ眠ってしまったらしい。眠りにおちた前後の記憶が途切れているのが少々不安ではあるが、牀の上に横たわっているようだから、恐らく自分で横になったのだろう。と身を起こした。辺りを見回して、思わず頭を抱える。この部屋は本来花嫁と二人で過ごす為に取った部屋だった。なので、牀は大きめであるが、代わりに横になれるような椅子などはない。はた、と花婿は思い当たった。炎玉。一緒にこの部屋に入った記憶まではあるが、今ここには居ない。まさか逃げたとは思わないが、取るものもとりあえず、慌てて部屋を飛び出す。隣は孔昭の侍女用の部屋である。ふと思い出して扉を叩くと、音もなく開かれる。彼を迎え入れたのは普段の姿の炎玉であった。宿屋は貸切にしていたが、花婿が入ると即座に扉は堅く閉ざされる。
「何だ、朝から騒々しい。しかも上半身裸というのはどういうことだ。淑女の前ということを弁えろ」
 淑女に相応しい怒声かどうか、というよりは怒声そのものが淑女という存在に相応しいかどうか、を突っ込む余裕は既に無く、その内容に我に返って改めて自身の体を見る。下履きは辛うじて下半身を覆い隠してはいるが、上半身は何も纏ってはいない。淑女に悲鳴を上げられても文句は言えず、宿屋の建物の中で、自分の部屋の外を歩きまわるに相応しい格好とは到底いえない。
「良く眠っていたようだからな。起こさずそのまま寝かせて、私は侍女の部屋で一緒に休むことにしたんだ。文句はなかろう?」
 替え玉であるだけの炎玉に、一緒の寝室で休むことまでは流石に強要出来ない。洛家での正式な儀式前であることも、寝室を別ける口実に出来るだろう。
「ところで、花婿殿」
「……何だ」
 苦虫を二箱分ばかりまとめて噛み潰したような表情に思わず炎玉は笑みをこぼしかけた。
「今回の拉致の一件、もしかしてお前の兄が関わっているのではないか」
 鋭く切り込んでくる言葉は、紫色の瞳の持主その人自身のようである。だが、それは彼自身も危惧していることでもあった。
「鈴が……」
「現場にあった、あれか?」
「……洛一族の者は誰も持っている。そして、あの鈴の音で、我々は互いが一族かどうかを判別出来るようになっている」
 そう告げると、再び考えに沈みこむ。その思惑がどのあたりを回遊しているか定かではないが、現場にあった鈴が彼の心に重い影を落としているのは間違いないだろう。一族からの妨害など本来あってはならないことだが、後継としての兄を求めぬ一部の者は、第二子ではあるものの、後継の資格を持つ彼を強く推していた。そして、その一部の者は今回の婚礼を快く思っていない。何故なら、この婚儀によって、花婿は洛一族当主の座を継ぐ機会を永遠に奪われるからだ。
「孔昭は全てを知っていて嫁ぐと言った。私はあれの気持ちを大切にしたい」
 今回の婚儀は、後継者の座を兄に譲りたい瓊琚の為のものと言っても過言ではなかった。後継者候補から外れる方法を考えていた彼に、この婚儀を提案したのは花嫁自身である。これは、お互いに好意を持っていた前提がなければ言いだすことは出来なかっただろう。孔昭自身も本来自分から結婚を申し出るような娘ではない。
「巻き込むべきではなかった」
 堪えるように呟いた言葉に、やりきれなさが滲む。
「婚儀を完結させねば、計画の意味がない。孔昭の思いやりを無にするな。旅程は先に提示してあったものよりもゆっくりと行こう。時間稼ぎをしつつ、孔昭を探すんだ」
 起こってしまったことは最早仕方ない。あとは、この儀式を完結させることと、拉致された花嫁を一刻も早く救出することが重要であった。空に鷹らしき影が舞っている。その影を認めて、炎玉はにやり。と笑った。花婿は朝食を摂ったら出立すると告げ、部屋に戻った。

 石造りの館の窓は、採光を考慮して少々大きめにとってある。そこからは、外にある鏡湖が良く見えた。日差しは明るいが、暑いという程ではなさそうである。太陽に照らされて、湖面はまるで何かを誘うかのようにきらきらと輝いていた。几帳面なほどすっきりと、しかし無理なく背筋が伸びた姿勢で本を読んでいた青年は、ふと湖に目を向けた。と同時に、何かが窓から部屋へ飛び込んでくる。
「鷹玉、お帰り。ご苦労だったね」
 鷹の足に括りつけられた通信筒を手際良く取ると、暫く鷹の相手をしてやる。首や頭のあたりを撫でると、鷹は嬉しげに目を細めて、青年に頬ずりする。楽しそうな声をあげて甘える様は、たいそう微笑ましい。
「三哥」
 控えめで涼やかな声の後に、軽く戸を叩く音。それから、ゆっくりと扉が開かれた。雲なす黒髪を控えめに結いあげ、白い衣を身に纏った女性が、静かに部屋へと入ってくる。飾り気はまるでない装いであるが、ほんのりと桜色に染まった滑らかな頬には厭味のない円やかさがある。透き通るように白い手には小さな盆、その上には茶器と小さな器が二つ。
「ああ、ありがとう。助かったよ」
 青年の微笑みを受けて、茶器はそのまま机の上にそっと置き、小さな器から中身を出して鷹に与える。更にもう一つの小さな器には水が入っていた。これも鷹に与える為のものだろう。嘴から飲むことを考慮してか、少々鋭い形状をしている。
「お疲れ様、大変だったでしょう。ありがとうね」
 そういって兄と反対の方から手を差し伸べて、体を撫でる。鷹は二人に交互に甘えながら、餌と水とをゆっくりと平らげた。
「お前にはもうひと頑張りして貰うことになりそうだ。大変だが、頼んだよ」
 青年がそういって咽喉のあたりを柔らかく撫でると、鷹は満足気に一声上げた。

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