銀宵――海虹外伝――



 故郷では味わえない、潤いを含んだ空気が、小さく開けられた小窓から、風となってその肌をかすめた。思わず目を閉じて鼻に意識を集中してみるが、目隠しをされているのに目を閉じた自分を嗤う程度の余裕があることに気づいて、ひっそりと微笑む。青臭いとでも言いたい匂いが、ほんのりと感じられた。水を含んだ空気があることを彼女は察知していた。屋根のある荷車のようなものに押し込められてから、既に数日が経過している。食事は与えられているが、自身が匂う気がするのは如何ともし難い。それに、水浴を許されたところで、監視つきであるのは明白だったし、知らぬ者に肌を見られるよりはマシだと自分を慰めていた。親友である勇ましい人物は、きっと近くまで来ているに違いない。荷車を牽く動物の足音は、馬か驢馬。駆け足でないのは、目撃者に不審に思われるのを避ける為かも知れない。僅かな情報が、彼女にとっては全てであった。足音、車輪の音、荷車のきしむ音、風の音、水の音、外から差し込むほんの少しの光、そしてそれらの匂い。持てる力と知識の全てを総動員してもここから逃げ遂せるかどうかは判らない。寧ろ、再度捕まって更に厳重な警備をつけられる可能性もある。ただでさえじゃらじゃらとした鎖が腕と足にしっかりとつけられているのだ。逃げ出す機会があれば、それはただ一度きり。その機会を逃してはならないが、焦ってもいけない。焦りは計画を破綻させる。銀色の髪の花嫁は、じっと時を待っていた。
「……」
 床板の隙間から、何やら囁くような声が漏れ聞こえる。思わずびくっと身を硬くしたが、相変わらず荷車は動いていて、変化はないようだった。しかし、その声は彼女に力を与えてくれた。思わず力強く肯きかけて、慌てて堪える。少しでも不審に思われれば、脱出が難しくなる。岳家の姫君は、ごくり。と唾を飲み込んだ。

 奇妙な邂逅から一夜が過ぎた。勝手についてくることになった風維王についてはともかくとして、その従属物である月鬼日鬼をどうにかせねばならない。このまま連れていけば足手まといになるばかりか、岳孔昭を救出することさえ出来なくなる。細い顎に指を添えて何事かを考えていた虞炎玉は、ふと顔を上げた。
「この従属物どもを少々訓練しなおす。異存はないな?」
 それは許可を求める言葉ではなく、決定を伝えていた。ぎょっとした顔の維王が「待て!」と言い出す前に二匹を連れ出す。
「これは海一族の秘儀なのでな。お前はここで待て」
 反論の余地を与えずにやりと笑い、彼の「愛玩動物」二匹を引き摺るように歩いていく。真っ直ぐな焦茶色の髪が、馬の尻尾のようにゆらゆらと揺れて遠ざかるのを、維王はただ見つめることしか出来なかった。
 暫く後に二匹を連れて炎玉が戻ったとき、維王はそのただならぬ様子に驚いた。炎玉自身は何も変わったところはない。だが。日鬼と月鬼は、まるで様変わりしていた。いや、その体に傷や汚れがあった訳ではない。ただ、顔つきが明らかにそれまでの二匹と違って見えた。ごくり。と音を立てて唾を飲み込んだのは、その空気に当てられたような気がしたからか。維王が近寄ると二匹もまた駆け足で主に駆け寄ろうとしたが、炎玉の鋭い命令にぴたりと止まる。それは、訓練された動物の動きであった。維王がそれまで何も訓練していなかった訳ではない。一応一通り出来ることは試し、また専門の訓練家に預けるなどもしてみたが、預けて半日で匙を投げられるのが常であった。それがこの変わりようは……。
「必要最低限の訓練だけはしてある。まあお前の命令にも絶対服従するかどうかまでは判らんが」
 ぬけぬけと言った炎玉に、恐らく悪気はないのだろう。しかし「お前の命令にも」というのは、「炎玉の命令になら絶対服従する」ということなのか。主でない者に二匹が従うというのだろうか。丸く大きな碧眼が見ひらかれているのを、炎玉は興味深げに見ている。
「どうした?」
「いや、その……」
 二匹は焦茶色の髪の主の両脇にそっと立った。まるで彼女が自分たちの主であると主張するように。
「とりあえず私の命令には絶対服従するように躾けてある」
 真っ直ぐな焦茶色の髪が、風にそっと揺れた。その薄い唇が短く鋭く、用件のみを告げる。
「遅れを取り戻す。出立するぞ。支度をしろ」
 その紫色の瞳が、挑むような光を帯びるのを、眩しいものを見る目で維王は見つめていた。

 旅を続けるうちに、維王はこの焦茶色の髪を持つ人物が驚く程に旅に慣れていることを思い知ることになった。しかも、水場まで把握している。既に通ったことがあるのか?と訊ねると初めてだという返事が返ってきたのだが、水場を把握していたことについては「何故その場所を迷うこともなく知っているのか」を確認することが出来ずにいた。旅慣れぬ彼は足手まとい以外の何ものでもないことを自覚せざるを得ない状態になってはいたが、しかし何故か感謝の気持ちを上手く表現出来なかった。無論、今まで育ってきた環境がそれを妨げていることもあるだろう。一族の皆は嫡子であり次期当主となるであろう彼に傅き、彼の喜びを最上とする仕え方をしていた。己一人の立場になるまで、それが当然だと思っていた。嫡子という身分は彼にとって生まれたときからついてまわっているものだった。維王はその身分についてまわっている特権を享受していたし、恐らく彼に仕えていた人々もまた、そうであったに違いない。だが。邑を出て、一人になってみて。初めて自分が一人であるということを真に理解したのだった。
「この間の話だが」
 不意に炎玉の声がすぐ傍から響いた。背後に回られていたことに気づかなかった維王は、思わず飛び上がった。
「ななな。何だ!」
「そんなにびくつくな。取って食う訳ではない。峡家でこの国を揺るがす陰謀がどうと言っていたな。私は別に峡邑を目指している訳ではない。ただ、親友を追っているだけだ」
「親友?」
「ああ、拉致されてな」
「それはもしや…岳家の孔昭姫のことか?」
 岳家の姫君と、炎玉との個人的な交流を、彼が知っているとは思えない。だが、情報として知っている人物が、近辺に一人くらい居てもおかしくないような気がした。
「……知っているのか?」
 思わず言葉に詰まったのは、仕方ないだろう。否定も肯定も出来なかったのは、嘘をつき慣れていないせいではない。ただ、どのくらいまで維王その人がこの件の全容を理解しているかを計りかねたからである。
「いや……、ただ」
 そこで一旦言葉を切る。紫色の瞳が鋭くそちらを見遣ると、思いつめたような紺碧の眼がそっと伏せられて、揺れているように見えた。
「俺は、ある陰謀の話を立ち聞きした。岳家の姫君を攫う、と」
 躊躇うような色があったのは、何か仔細がありそうだったが、それについてはあまり追求しても意味はないかも知れない。と詮索を避けた。
「その、密談をしていた者の心当たりは?」
「峡家の当主の弟と、それから俺の伯父だ」
「……なるほど」
 未然に防ごうと努力したが、結局この迷子属性の為に期日までに岳邑に到着出来なかったのだろう。誰かにうっかりと口を滑らせていいことでもなし、己が伝えねばと思ったその心がけは確かに殊勝と言えるが、事実事件を未然に防ぐことが出来なかったあたり、配慮も行動力もかなり不足している。と炎玉は頭の中で灰色の髪の人物を査定した。
「やはりお前はここから去れ。後は私が何とか決着をつける」
「なんでだ! 俺がいることによって未然に防ぐことも……!」
 追いすがるように声をかけても、紫色の瞳は冷ややかに彼を見ているだけである。事情を詳細に知らぬうちは同行を許すほかは無かったが、ある程度の概要が判れば、却って足手まといになるばかりだった。
「その逆になる可能性の方が高い。そして、現に私はお前のためにここで数日足止めを食らっている。お前の目的が私の足止めであるなら、もうこれで十分だろう。本来なら、もっと先に進んでいても良かった筈だ。お前の要らん従属物が追加されて更に遅れている。親友に追いつくのが一日遅れると、解決が二日遅れることになる。それは私の望むところではない」
 極めて冷静に下された判断は、維王を完全に拒絶している。それは彼にとっては耐え難いことであるが、炎玉の分析が間違ってはいないことは、明白であった。
「お前が自分を子供ではないと言うのなら、分別あるところを見せて、聞き分けろ」
 止めのような炎玉の台詞は、かなり深い衝撃を与えた。その童顔ゆえに道中ではいつも子供と間違われていたせいもある。事実、初対面で維王の実年齢を当てることが出来るものは皆無だった。しかし重ねて言われた言葉が、彼に逆噴射のような圧力を加えたのかも知れない。
「厭だ」
 短く、それだけを言うと、泣きそうな顔が情けなさそうに炎玉をじっと見つめる。縋るような目が、少女のように可愛らしい。いや、或いは子猫か子犬のそれかも知れない。
「ったく。もう」
 吐き棄てるように呟かれたのは、或いは自分を納得させるためだったのか。
「仕方ない。なら、遅れるようなことがあればそのまま置いていくことだけ覚悟しろ」
 それだけ言って、背を向ける。焦茶色の髪がそっと風になびいて、維王の胸元に届くかに見えた。
「感謝する…! 炎玉姫」
 維王の仕返しのような呼びかけに、思わず体勢を崩しかけた炎玉は、振り返らずに「炎玉でいい」とだけ返す。少しだけ見えた頬が、ほんのり色づいて見えたような気がした。

 その馬車が到着したのは、その夕方のことだった。それを待ちかねていたように、館から人影が飛び出す。赤いくすんだ髪に黒い瞳の人物は、少壮といえる程度の年齢に思えたが、些か落ち着きには欠けるようだった。扉が開かれるのを今か今かと待ち受けていた彼は、開けられると同時にその中へと飛び込んだ。あまり大きくはない荷馬車の中には椅子らしきものも机のようなものもない。ただ、あるのは僅かばかりの藁束と、それから毛布である。それらには使われた形跡があったが、そこに居るべき肝心の人物は見当たらなかった。
「居ないではないか!」
 苛立ちをそのまま部下に向けて叱責する。その予想外の怒声に驚いた部下は、慌てて中を見、そして驚愕のあまり呆然と立ち竦んだ。
「居…ない? 何故?」
 そこに居るべき人物は荷馬車の中から、忽然と姿を消していたのである。まるで縄抜けでもしたかのように、鎖も、手枷足枷もそのままにして。

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