良宵


二十一


「そろそろ縞玉大哥は着いたかな?」
 木の根元に寝そべっている海青玉が誰にともなく呟く。久しぶりに妹と湖畔に佇んでいた。
「叔瑤叔母様はお元気かしら…」
 海叔瑤が海邑を離れたのは数年前のことである。丁度虎玉が成体となる頃で、護衛をかねて虎玉を連れて行ってくれるよう叔母に願い出たことを、二人は昨日の事のように良く憶えていた。
「虎玉もきっと大きくなったろうな」
 声に出したのはそれだけだが、すぐ隣に居る兄が同じことを考えていることに気付き、少女はほんの少し幸福な気分に満たされた。
「淋しい? 三哥」
 覗きこむと、少し目を見張った青玉の顔が見える。
「……まあ、な。紅玉もだろ?」
 同意を示すように微笑む。少年は目を閉じた。白く雪を被った山が微笑む顔の向こうに見えて、少し目に眩しかったからかも知れない。湖を渡る風がその裾を軽く持ち上げて、揺らめかせる。少女は茶色の双眸を兄に向け、両手の指を軽く組んでそっと唇にあて、軽く首を傾けた。



二十二


 稽古を始めて数日が経過していた。
 数年のブランクがあったとはいえ、それなりに鍛錬を重ねてきた身である。虞縞玉は昔の勘を徐々に取り戻していた。多節棍はもう少しかかるかも知れぬが、それも時間の問題と思われた。
「それでは問題がなければ明日にでも模範試合を」
 長老海天祥がそう言ったのは、言わばお墨付きである。縞玉が模範試合にと選んだ武器は方天戟である。長さは海碧玉の身長より少し長い程度で、打撃力は強化されてはいるが、怪我のないよう刃は砥いでいない練習用のものである。二つの月牙と中心の刃を満足そうに見つめた。
 海翠玉が選んだのは鞭(べん)。所謂「ムチ」ではない。金属製の棒で、打撃による破壊を狙った武器である。その断面は刀剣などのように平たいものではない。もし打撃部の中程で切断してみたら、それが四角形を押しつぶしたような、微妙に加工させた形を成していることが判るだろう。鍔があり、一見すると剣にも似ているが、斬る為の刃がない。柄部分が翠玉の指先から手首の付け根までの長さで、全長は彼自身の腕の長さより少し長いようである。打撃部はその効果を最大限に引き出す為に竹に似た節がある。接する面を減らしているのだが、扱い自体は刀剣に近いため、両手を使う必要がない。方天戟と扱いを比較すれば、より単純ではあるが、長さがない分、不利といえるかもしれない。
「黒玉が確か……方天戟の扱いは上手かったな」
 数年前の祭礼であっさりと翠玉に敗れて以来、鮑黒玉は余人の追随を許さぬほどに稽古を重ねたのだった。勿論、祭礼の時には他に目的があり、それはかなえられたので含むところはなかったにせよ、まっすぐすぎる攻め方を反省したのである。それは黒玉自身の性格そのものであったが、模範試合ならともかく実戦で通用するとは思えなかった。正直すぎる性格が改善されることは望めないにせよ、武器の扱いに長けることは海一族にあって悪いことではなかった。

 翌日。夜に篝火を焚いて行うのが正式な試合である。略式の模範試合なのだからという者もいたが、「久しぶりに帰邑した者だからと言って扱いを粗雑にしてはならぬ」と天祥が鶴の一声でけりをつけた。海姓伝来の大音声である。同じくらいの声量が出せるのは藺天化くらいだろうが、そんなことで張り合っても無論意味はない。審判は天祥が務めることになった。舞台には念のため防護柵が作られている。
 碧玉に先導されて現れた縞玉は、碧色と焦茶色を組み合わせた胡服を身にまとっている。筒状の袖は体にぴったりとしていながら、動きを制限しない。また、その素材自体がしっかりと織り込んで作ってあり、多少の武器は通さず、略式の鎧にもなりうるものであった。下肢を包む衣装もまた同様である。巫女が試合用の衣装にと前夜までに準備したものだった。
「お心に適うものか、判りかねますが…、良かったらお召し下さい」
 控えめにそう呟いた目蓋は、ほんのりと桜のような色を帯びていた。先日の衣装もぴったりと合って着易かった。ありがとう。と告げると、にっこりと微笑む。その微笑に心の奥底の面影を重ね合わせることくらいは、許されるだろう。
 縞玉と同様に、反対側から青玉に先導されて翠玉が来ていた。翡翠の羽のように艶やかな緑に黒を配した衣装は、勿論彼の妻である藺水玉の手製である。舞台中央に二人は適当な間隔を置いて、向かい合った。
「虞縞玉と海翠玉との模範試合を執り行う。いずれが勝ちを得ても敗者は不名誉にならぬよう、全力を尽くせ。以下のものは退場となる。一、足以外の体の部分が舞台に着いたもの。片膝を意図的につくことだけは認めよう。二、得物を三回相手に奪われたもの。三、気絶したもの。なお、相手に多少の怪我をさせることはやむを得ぬが、相手の命を危うくするような行為が行われた場合、即座に中止し退場となるので双方注意するように」
 位置につき、お互いに礼を行う。両者が頭を上げ、得物を持ったことを確認して、天祥が合図を発した。
「はじめ!」
 ざっ。両足をやや広めに開き、二人の青年は身構えた。

 颯、颯、颯。風を切る音が響く。方天戟で攻撃を仕掛けるのは縞玉、鞭で月牙の脇の要所を、押さえるように応戦しているのは翠玉である。懐に飛び込んで来るようなその動きは、海一族の者には慣れない。身を翻しては柄を打とうとするが、まっすぐに見える攻勢は意外な程に巧妙で、柄に届く前にゆらりとかわされる。ぐずぐずしているとその反撃が別方向から飛んでくるのだ。翠玉にとってはやりづらい相手と言えた。だが、武挙で首席になった碧玉と互角の実力を持っており、海一族も含めて、既に敵の少ない彼にとっては、またとない好敵手でもある。この模範試合の持つ意味は、双方にとって小さくはないと思えた。その動きは迅速を極め、敏捷さでは並ぶもののない水玉でさえようやく追いつける程度である。縞玉の体がゆらりゆらりと、翠玉の疾風のような攻撃を避ける様は、小さな子供達にとって最早神技に近い。目を丸くして見つめている子供たちの面(おもて)には、二人に対するあからさまな尊敬の念さえ感じ取れた。
 かん、かん、かん。得物が激突する音は衝撃の強さのために鈍さはないが、決して軽くはない。それぞれ小さな子供程度の重量がある。
 双方、若干まだ余裕はあるようである。うっすらと笑みを浮かべているのは、お互い何がしかの間合いを計っているようにも見える。翠玉が空いている左手の指を二本軽く交差させるのを見て、縞玉がにやっと笑い、やや不器用に片目を閉じて見せた。
「はっ!」
 鋭い気合とともに、両者が武器を高く宙に放り投げた。と見る間に、それぞれ場所を移動していた。縞玉は後ろに向けてトンボを切り、翠玉は防護柵の一番上を蹴って前方宙返りをした。回転し終えた二人の青年が再び舞台に足を着けた時、既に得物が入れ替わっている。地面に置かずお互いにも触れず、それを交換していたのである。
「お二人とも、あんなに重いものを…?!」
 観衆がどよめいた。それが静まるのを待つ間もなく、再び風を裂く音が響き、激闘が始まっていた。だが、その勝敗の行方よりも、まるで芝居か軽業のような動きに人々は魅了されつつあった。青玉と紅玉の優美な剣舞では味わえない、野生的とさえ言えるこの試合は、一族には目新しいものだった。場所を入れ替え、攻守を入れ替えしつつ、独特の呼吸を持って打ち合う様は、既に双方忘我の境地に入っているようである。次第に汗が流れ、目に入るのも厭わずに二人は打ち合いを続けている。
 方天戟に捻りを加えて打ち込み、それを押さえる鞭を一旦は受けて柄の部分で返す。屈んで避けると次に来るのは下肢を狙う攻撃。まるで体重のない者のように身軽に飛び、殆ど間一髪に避けて再び地上に降り立つ。鞭が方天戟を打ち返し、その中央の隙間を引っ掛けようとする。といった具合である。
 そうして更に三百合ほど打ち終えたところで、天祥が鉄扇を投げて二人の武器をまとめて弾き飛ばした。鉄扇自体の重さは然程でもない筈だが、それは柵に届く少し手前で地面に突き刺さって止まる。打兵器と長兵器は弾かれた直後に一旦宙を舞い、次の瞬間鈍い音を立てて転がった。
「そこまで! 両者引き分けじゃ。久しぶりに楽しいものを見せて貰った。勝敗などは却って無粋だろうよ」
 両者は一瞬転びそうになり、慌てて体勢を整える。唖然としたのは七十二歳にもなる老爺に、あっさりと得物を弾き飛ばされたからかも知れない。二人は顔を見合わせ、笑った。
「この顔が相手でも、大丈夫だったようだ」
 そっと翠玉が縞玉に笑いかけた。
「そうだな。本人じゃない」
 何かを吹っ切ったような微笑みは、篝火の灯りに照らされていた。



二十三


「黒玉。あなたに、渡したいものがあるの」
 白い巫女はそうやって微笑んだ。何かしら、と喜んで問いかけて、これは夢なのだと気づく。醒めたら夢であることはすぐ判るのだから、せめて夢の中でだけでも現実だと思っていたいのに。と不思議なことを考えていると、親友が弾けるように笑った。
「黒玉らしいわね」
 在りし日のままの姿は、ただ只管に嬉しかった。会いたかった。と語りかける間もなく、突然巫女が真顔に戻る。
「時間がないの。場所はね……」
 夢の中でまで耳打ちする必要がどこにあったのかは判らない。ただ、少しずつ意識が遠ざかって、巫女の声が聞こえにくくなっているのに気づく。
「え……、どこ?」
 親友の姿は突然かき消え、辺りは白い霧のようなものが立ちこめている。ぼんやりとした光が遠くから射していた。赤い髪の娘は巫女の名を呼びながら、その深く白い霧の中をどこまでも走り続けた。泣きじゃくりながら。

 柔らかな日差しが窓から降り注いでいる。温かい太陽の掌の感触を感じながらまどろんでいたが、もう少し積極的な動きをする掌があるような気がして、ふと黒玉は目をあけた。隣に目を閉じた幼い黄玉が眠っている。「大姐…」と呟きながら赤い髪の娘の体をまさぐっていた。最愛の姉を亡くして間もない幼児であると思うと、胸が締め付けられる思いがする。白玉と遊ぶ夢でも見ているのかもしれない、とそのままにしておいた。止めるのも哀れに感じたからである。しかし、幼児が触れてくる場所として些か不適当であるような気がした。腰のふくらみかけたあたりに小さな左手が伸び、太腿の付け根に右手が徘徊している。その次には胸の頂辺りに小さな唇が接近していた。流石に白玉でも乳を含ませることまではすまい。軽く身をずらし、黄玉から逃れて寝台から降りる。それで気付いたかのように、黄玉が寝ぼけたような声を出す。
「大姐…?」
「起こしちゃった? ごめんね、黄玉。もう少しあなたは寝ていなさい。まだ早いから」
 五歳の幼児にそう優しく言うと、立ち上がった。その瞬間、寝衣の下につけていた下着が全部外れていることに気付いた。
「あら…? 外れてる」
 深く気にせずにそのまま着替えた。暑い時には服がはだけるのは良くあることだ、と思ったからである。
「あ、俺が外してあげたの。夜にね、大姐がうーんうーんって言ってたから、苦しいのかなって思って」
 黄玉が無邪気にそう言ったので、黒玉はほっとしたと同時に、自分は何か悪い夢でも見ていてうなされたのだろうかと少し心配になった。
「そうだったの。ありがとう、黄玉」
 黄玉は白玉が亡くなった五歳から九歳まで、黒玉の寝台で一緒に眠っていた。本人は黒玉の護衛もしくは害虫駆除剤のつもりだったかも知れない。いくら注意しても赤い髪の娘の部屋にやって来るのをやめないので、諦めかけていたが、十歳になる頃にようやく自覚が現れたものか、黄玉は自分の部屋で休むようになったのだった。暫くの間寝台が寒く感じられたが、それまでは就寝中に寝衣をはだけてしまう癖があったのに、黄玉が隣に眠らなくなった途端にその癖がなくなったので、良かったのかもと思わぬ効果に我知らず微笑んだ。

 縞玉が叔瑤のもとへ去って、暫くのちに、碧玉夫妻も海邑を離れることになった。一月あまりも海邑に滞在する羽目になったのは、憔悴のあまり碧玉が体調を崩して、公務に復帰出来る状態ではなかったためである。乳飲み子の長女漣容と、体調が思わしくない夫とを抱えて紫玉には大変だったことだろうが、徐々に落ち着きを取り戻していた。白玉に嫉妬したくても出来ぬ身を、最初は辛く思っていたようだが、乗り越えたようだった。今は亡き巫女の願いを、理解しえたと思ったからかも知れぬ。
「白玉は、碧玉大哥の連れ合いとして私を認めてくれていたように思えるの」
 そう呟いた紫玉の頬は、ほんのりと温かな色になっていた。肯きかけて、ふと気付く。
「あら、少し熱があるんじゃない?」
 手を当てようとした黒玉を軽く制して、柔らかく微笑み、頭を振ってみせた。
「大丈夫」
 満たされたような微笑みだ、と黒玉は羨ましい気持ちを憶えていた。
「それよりも黒玉、あなたも素直におなりなさいね?」
「え?」
 何に、といいかけて、一応悩んでみる。思い当たることはなかった。
「全てを曝してそのまま受け入れてくれる人って、なかなかいないものよ?」
 碧みがかった瞳に光が差し込んで見えた。



二十四


 目を開くと金色の光が視界いっぱいに広がっていた。と思ったら藺水玉の髪であった。覗きこまれているのに気づいて、縞玉は思考とともに頭をめぐらせ、起き上がろうとしたが、鋭くずきんという激痛に襲われて、頭を抱えた。見れば体には毛布が掛かっており、近くには料理と酒樽が転がっている。水玉はそれらを片付けていたようだ。ふと気付くと、少し離れたところに碧玉も毛布を被り大の字になっている。他にはそういう醜態を晒しているものはいないようだ。
「縞玉大哥、お目覚めになったのでしたら、とりあえずこれを……」
 思わずうっ。と身構えたのは仕方ないだろう。言葉とともに水玉が差し出したのは、濃い茶色をした液体である。口元に近づけると、なんとも言えない匂いがする。効用は勿論百も承知だ。一瞬躊躇ったが、飲まなければ多分この頭痛からの復活は時間が掛かるものとなることだろう。一口含んで、思わず口を押さえた。凄まじい苦味が襲ってきた。噴出しそうになるのを辛うじて堪える。口に入れた分だけ苦痛をこらえて飲み込むと、そのあとには不思議な甘味と爽涼感があった。
「……全部飲まないと駄目だよな?」
 涙目になるのを必死に耐え、そう訊く。いや、訊くまでもない。普段は自分でも調合しているのだ。もっとも、いつもは人に飲ませるだけだったのだが。水玉は再び少女のようににっこりと微笑んで肯いた。今の縞玉にはまるで悪鬼の微笑みである。ええい。とそれを呷り、思い切って飲み込むと、気力を失ったように再び床に倒れこんだ。

 黒玉がお茶の用意をしていると、漸く宿酔から復活した碧玉がやってきた。
「面倒かけてすまんが、茶を貰えるか?」
 肯いて、早速用意し差し出す。その茶を一口含んで長い息を吐く族兄を、黒玉は久しぶりにゆっくり見た気がした。
「大哥」
「ん?」
「幸福?」
 一瞬間があいた。
「ああ」
 躊躇ではなかったようである。
「白玉と結ばれていれば、と思わなくもなかったが、俺は紫玉には何の隠し事もなく自然体でいられる。女の側にとってみれば、それは時として辛いものかも知れないが、紫玉は許してくれる。白玉は違うだろう。それこそが、あいつが、俺の連れ合いとして紫玉を選んだ理由だと思う。最初は見えてなかったが、ようやくこの頃判ってきた。ここまで辿りつくのに九年もかかっちまったが」
 黒い髪を軽く振る。
「あいつに、俺と歩み寄る時間があったなら状況はまた違っただろうが、あいつにはそれがなかった」
 その面を軽く影がかすめたようだ。
「ま、要は俺にとって紫玉が必要だったってことだ」
 黒玉には、黄玉が。黄玉には黒玉が。そう呟く白い巫女の姿が頭を過ぎる。
「お前にも、必要な存在がいるだろう」
 そう言って、にやりと笑った。その笑顔に、もう黒玉はつんとなる感覚を憶えなかった。



二十五


 巫女は調べ物をしていた。場所は勿論長老海天祥の部屋である。
 幼い頃の青玉はよくこの部屋で本を読んでいた。時にはそのまま眠ってしまうこともあったが、それを半ば期待して少年の隣にいつもいたのは、妹の紅玉である。何か怪我をした動物を見つけては、この部屋に駆け込んで治療の為の方法を探したり、餌の与えかたを学んだ。自然災害があれば、それを防ぐための知恵をここから得ようとした。何かいい方策を思いつけば実験を行い、失敗すれば再び新たな発想を求めてここを訪れ、徐々に実験の規模を大きくしていったその姿は、紅玉の目蓋の裏に焼きついている。その兄を援けたい。そう思ったのはいつだったのか、本人さえも確とは憶えていない。ただ、そう思ったその日の夕焼けと、夕陽に焦がれて急ぎ足で昇ってくるような天狼星の、冴え冴えとした青白い光のことだけは忘れていなかった。
 ぱたん。と書物を閉じた。手詰まりとなっているのは明白だった。
「紅玉」
 爽やかに心地よく響く低音が紅玉を包んだ。語尾に微かに籠もったような柔らかさがあって、振り向かなくとも誰なのかは判る。胸にそっと左手を当てて一呼吸置き、静かにそちらを見ると、青玉が天祥の部屋の扉に佇んでいた。
「三哥」
「疲れたろう。お茶にしよう」
 優しく微笑む兄に、感謝を込めて微笑みを返しながら肯く。二人は広間へ向かった。ぱたん。と音を立てて扉が閉ざされた瞬間、それまで紅玉が開いていた本から、黒い何かが天井に向けて矢のように突き抜けていった。

 黒玉は、目的地もなくただぼーっと歩いていた。何をすればいいか思いつかなかったからである。婚儀のことなど頭からすっぽりと抜けていた。その足がふと止まったのは、不思議なものが見えたからである。色は黒い。それを光と表現することが許されるなら、それはまさに黒い光である。それが海天祥の書斎の扉から細く鋭く伸びていた。
「天祥おじいさま?」
 おずおずと声を掛けた。反応はない。静かに扉をあけ、黒玉は目を見開いた。悲鳴をあげるまえに、赤い髪の娘の意識はそこで途切れた。締め切っていなかった扉が、ぱたん。と閉じた。

 方天戟を使っていた黄玉は、許婚の呼ぶ声を聴いた気がした。呉鉤で相手をしていたのは、藺槍玉である。
「槍玉三哥、すみません。黒玉大姐に呼ばれました」
「はあっ?!」
 見回しても赤い髪をした娘の姿はない。第一、一緒にいるのだし黒玉が呼んでいたなら声くらいは自分にも聞こえるだろう。
「申し訳ありませんが、後日また稽古をお願いします。では急ぎますので」
 言葉だけは馬鹿丁寧に、しかしそのまま槍玉を置き去りにするあたり、尋常とは言えない。しかし黄玉が誰の弟であったかを思い出して、ふと槍玉は尋ねた。
「何があったんだ?」
「俺にもわかりませんが、厄介な事であることだけは間違いないでしょう」
 そう言って黄玉は一目散に走り出した。館へと。

 目を閉じて、気配だけで黒玉を捜す。広間から海天祥の書斎のあたりまで来た時、入口のあたりに研磨せぬ虎目石が落ちていることに気付いた。求婚の時、黒玉に少年が与えたものである。書斎の扉を開けようとしたが、開かない。重い扉ではあるが、しかし鍵は掛かっていないはずである。何か人為的な作為が感じられて、黄玉は強行突破することにした。大きく深呼吸し整えて、左足に気を集める。
「はっ!」
 鋭い気合の声とともに、分厚い扉は蹴破られた。書斎の床に黒玉が横たわっていた。その真上にあった黒い光のようなものが、その豊かな胸を目掛けて落下しようとしている。
「大姐!」
 方天戟を投げ出して咄嗟に駆け出し、赤い髪の娘を横抱きにしてそのまま一回転した。間髪をおかず、背後の床面に光が突き刺さる。衝撃で黒玉が目を醒ました。
「黄玉?! いったい…?」
「俺にも判りませんが、なんであんなところに寝てたんですか?」
 細かい事情を説明し合う時間はない。床の上に蟠っていた光が新たに動き出そうとしている。その標的は黒玉であるようにみえた。光には闇。しかし黒い光に闇が通用するのだろうか。それにこの状況で闇は作れない。ならば、跳ね返すのが一番効果的かも知れない。
「それは……ちょっと、下ろして!」
「駄目です」
 黒玉を抱えたまま、じりじりと黄玉は位置をずらした。今この黒い光から目を逸らしたら、黒玉が狙われる気がした。その前にこれを仕留めねばならない。耳元に出来るだけ小さな声で囁く。
「大姐」
「えっ?」
「俺は今両手が塞がってます」
「判ってるわよ! だから下ろしてって言ってるんじゃない!」
 黒玉のもっともな台詞は無視して、勝手に話を先に進める。
「方天戟を置いてあるところまで移動します。俺が何とか飛ばしてみますから、あの光を刃の部分で跳ね返して下さい」
 そんな面倒なことをするより一旦自分を下ろした方が早いような気がするのに。と標的本人は呑気なことを考えながらもその胸の中でこっくりと肯いた。それに引かれるように、黒い光が再び迫って来ようとしていた。
 がんっ。ぱしっ。
 黄玉が右足で方天戟を跳ね上げ、黒玉が絶妙の間合いでそれを受取る。その直後、光は娘の胸元に向けて一直線に突き進んできていた。思わず目を瞑る。
「!」
 光は刃に弾き飛ばされた。その衝撃の余波を食らって、黄玉は黒玉をしっかりと抱きしめたまま壁面へ強かに全身を叩き付けられる。少年は二人分の体重分の衝撃も一緒に受け止めたのだった。そのまま床に投げ出されるかと娘は覚悟していたが、黄玉はその腕を緩めたりはしなかった。却ってきつくなったようである。
 かーん、かーん、かーん。 跳ね返した黒い光が当たったと思しき場所から、乾いた音を立てて、黒い塊のようなものが転がる。塊はそのまま静かに書斎の扉の方へ「流れて」行った。だが、二人ともそれに気づいた様子はない。
 衝撃がおさまるとずるずると少年の体は滑り落ちて、床にようやく足が着いた。体勢を崩してよろけ、壁に背を預けたが、許婚はしっかり確保したまま、微動だにしない。
「黄玉、黄玉……!!」
 泣きじゃくって狂ったように名を叫んだが、少年が苦しげに痙攣に堪えるのを、どうしようもなく見ているしか出来ない。
「いやあ! 傍にいるんでしょう! ずっと守ってくれるんでしょう?! 抱いてあげないわよっ!」
 黄玉の体がぴくん。と動いた。
「そりゃ厭ですよ」
「黄玉?!」
 脱力したように黒玉の腕の中に倒れこんだ。娘の耳朶をこっそりと舐め、荒い息を注ぎ込む。
「こんなに長いこと待ってるのに」
 それだけ言うと、ずるり、と身を滑らせた。体を支えている力さえも、もうなかったようである。黒玉は憔悴しきったその顔に頬を寄せた。が、到達直前にしなやかな腕にがっちりとつかまれていて、唇は塞がれていた。
「!」
 片目を閉じて、にやっと笑った少年は、いつもの表情に戻っていた。驚き呆れた赤い髪の娘は、一瞬怒りを忘れかけたが、右手をしっかりと握り直し、その拳で目一杯に殴りつけた。
「いってぇ!」
 それから涙をためた蒼瞳をそっと閉じて、許婚の腕の中に身を投げ出した。

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