良宵


二十六


 広間には、虞縞玉が子供達に囲まれていた。試合以来すっかり海翠玉とともに子供達の英雄である。その取り巻きの中から黒髪黒瞳の少女が、顔を覗かせた。
「紅玉おばさま!」
 縞玉の隣に席を確保していた碧玉の長女海漣容が、近づいていく二人に気付いて明るい笑顔を向けた。海青玉と海紅玉は、縞玉の反対側に並んで腰を掛けた。
「本当にいつも一緒だな」
「手を携えていけ、というのが父の遺言でしたからね。紅玉を守れ、と」
 そう言って傍らの巫女に目を向けると、彼女は茶色の双眸をそっと伏せた。その頬がいつもより消え入りそうな色になっていることに、縞玉は気付く。
「縞玉叔父様、ずっとここに居てくださるのよね?」
 つぶらな瞳を一心に縞玉に向ける少女は、青年の左腕にしっかりとしがみついていて、まるで小さな恋人のようである。片方の眉を跳ね上げて、黒い瞳の少女を見つめる。あと十年くらいしたら紅玉みたいになるかもしれない。いや、ちょっと無理だろうか。
「いや、為すべきことがあるからね」
「そうなの……」
 淋しそうな顔をしながらも、逞しいその腕にしっかりとしがみついて、少女はこっそりと頬擦りをした。

 その時、何かを感じて振り向いたのは、紅玉である。
「三哥……」
 その声にただならぬものを感じた青玉が、静かに立ち上がった。
「縞玉大哥、申し訳ないが子供達を」
「ちょっと待ってくれ、もしかして……」
 縞玉が皆まで言い終えぬうちに、それは出現した。黒い光を漲らせた塊である。
「鏡を!」
 そう叫んだのは、青玉だった。



二十七


 海天祥は、書斎で独り佇んでいた。長い歳月を送る間、見送るのにはもう慣れた。だが、今回は堪えたようである。海白玉という名を持つ孫娘の、凛とした表情を浮かべる度に、その身に負ったものの大きさを想起せずには居られない。孫は見事に散った。残される人々の嘆きを知りつつも、その役目を終えて。この身がこの役目を終える日はいつだろう。もう誰かを見送らずに済むのなら、その方がましに違いない。
「天伶……。わしは長く生き過ぎたな」
 その黒瞳は憧憬を持って、遠くはるかなものになった過去を見つめていた。しかし次代の長がいまだ決まらぬ今は、長としてのつとめを果たさねばならぬ。
「あと少し…。あと少し待っていてくれ」
 とんとん。とんとん。
 その書斎の扉を叩く者があった。
「天祥おじいさま…。青玉です」
 一瞬の間をおいて居住まいを正し、表情を厳かなものに瞬時に変化させる。
「来たか。…入れ」
「はい」
 黒髪黒瞳の少年が、一人で入ってきた。その顔の上に、亡くなったその父親の面影が重なる。あれから五年が経過しているのだ。
「今年でお前も十二歳だったな」
「はい」
 素直すぎるほどにまっすぐな曇りのない瞳が、正面から天祥を捉える。
「紅玉は巫女として立派に成長した。若すぎる年齢ゆえに不十分なところはあろうが、年月がそれを補うであろう。おまえも長候補の一人として、日々己を鍛錬せよ。至らぬ妹を守り導けるように」
「はい、肝に銘じます」
 どこまでも明るい、闇を知らぬその瞳に、長老はほんの少し危惧を憶えた。いつか、その闇に足を掬われるのではないかと。



二十八


 和刀の鍛えられた刃は鏡のように滑らかで、しかも鏡よりも明瞭に本体の像を映し出す。鞘から少し出た和刀の鋼が紅玉の少し薄い唇の形をはっきりと捉えていた。和刀で黒く鈍い光を発する塊に対抗する紅玉は、表情こそいつもの穏やかな様子ではあったが、流石に声に少々焦りが出ている。
「三哥、『鏡』をお願いします」
 青玉は「鏡」を取り出し、紅玉の前に立った。黒いそれは二つの「鏡」にはさまれて、身動きが取れなくなっていた。鞠の大きさになり、次第に小さくなっていく。
 颯。
 巫女は妖刀でそれを斬り、捕縛した。親指の爪程の大きさの、珠になっていた。

「恐らく、これがそうだと思う」
 焦茶色の髪をした青年は、その黒光りした珠を掌に載せた。叔母叔瑤の、既に消えうせた筈の「先見」の力が反応する程の物体である。どれほどのものと思ったが、紅玉の破邪の力の前には為す術もなかったのかも知れぬ。
「それが何なのかは判らない。ただ、叔瑤叔母上に『捕獲せよ』と命じられた」
「これは……一体何なのでしょうか」
 縞玉は頭を振った。
「森へ行けと言われたのだが。よもやここに……」
 足を引き摺る海黄玉と、それを支えるようにして鮑黒玉が現れた。黄玉を気遣う赤い髪の娘の様子が、それまでとは少し違うようである。
「あれ、それって」
 場にそぐわぬ素っ頓狂な声を上げたのは黄玉である。その声に怪訝な視線を向けて、思わずぎょっとする。
「どうしたんだ?」
 黄玉は包帯だらけだった。手当てをしたのは差し詰め黒玉だろう。
「多分、それだと思うんですけどね。さっき天祥おじいさまの書斎で黒い光に襲われまして」
 流石に黒玉が、とは言えない。
「たまたま槍玉三哥と稽古中で方天戟持ってたものですから、それで跳ね返すことだけは出来たんですけど、退治までは出来なくて」
「そのとき、跳ね返したのは黒玉大姐?」
 やわらかく尋ねたのは紅玉である。
「ええ、俺は手が塞がってたものですから」
 塞がってた理由に思い当たって、一同はじっと「それ」を見つめた。視線が集中したことに、思わず赤い髪の娘が後ずさりする。その視線の中に、黒い珠が入った。
「これ……!」

「えっ、縞玉叔父様。もうお帰りになってしまうの?」
 隣で黒瞳に哀しみを滲ませているのは、漣容である。
「ああ、探すべきものも見つかったし、叔母上にも報告しなければならない」
「でも黄玉おじさまの婚儀までもう少しなのに……」
 片方の眉をひょいとはねあげて、漣容を見つめる。
「本来は婚儀に立ち会うべきなんだが。ちょっと理由があってな。急がないとまずいんだ」
 目を潤ませて少女は薄茶色の髪の青年をじっと見上げ、身を寄せた。その手に縋り付いたのは、一抹の淋しさを憶えたからかも知れない。縞玉は黒い頭を優しく撫でた。
「また帰ってくるさ。……ありがとう」
 縞玉は片目を閉じて、微笑んでみせた。

 虞紫玉が縫い物をしていた。
 赤い衣――黒玉の為の婚礼衣装である。婚儀はもうそろそろだが、まだ縫い終えていない。本来なら慌てていてもおかしくないはずだ。しかし一向に焦る様子はない。
「紫玉」
 低く響く夫の声を聴いて、紫玉は顔を上げた。
「主…(主人をあらわす言葉。ここではあなた、という程度の意味)」
 縫い物の手を休めて微笑むと、夫の後ろから目を赤くした愛娘が現れた。
「お母さま…」
 漣容はその瞳に涙を一杯に溜めていた。
「縞玉を途中まで送って来る。……すまんが、漣容を頼む」
「はい」
 赤い衣装を傍に置き、小さな体を抱き取る。少女は涙を耐え切れなくなっていたようだ。母の胸に縋る。
「お帰りになっちゃった…」
 その黒い髪をやさしく撫でて、母は微笑んだ。
「精一杯お見送りしたのでしょう?」
「うん」
「後悔しないようちゃんとご挨拶は?」
「出来た」
「良かったわね……」
 そういって少女の頬を柔らかく包みこんだ。
 母の胸で泣いていた少女がようやく泣き止んだ時、日は既に傾いていた。はっと気付いて漣容は慌てた。
「お母さま。黒玉おばさまの婚礼衣装……」
「ええ。今縫っているわ」
「間に合わなくなってしまうわ。ごめんなさい」
「大丈夫よ。婚礼はもう少し先ですもの」
「でももうあと何日もないでしょう?」
 それには答えず、微笑みを深くした。漣容は不思議そうにじっと母の顔を見つめていた。



二十九


 黄玉の婚儀は翌日に迫っていた。黒玉の婚礼衣装は紫玉が作ることになっている。いつぞやの「お返し」であるが、その時の悪戯については、後日紫玉からしっかりと「返礼」があった。
 その日が近づいて些か神経質気味になっていた黒玉だったが、流石に前日ともなると腰を据えざるを得ない。座り心地の良くない椅子に腰掛けている気分を味わっていた。やることが何もないのが一番辛い。前日に化粧をしても意味はないし、衣装を着けたところでその前にもう一度入浴することになるだろうし、今更剣の稽古をする気分にもなれない。とすれば久しぶりに白玉の墓に行くのが最善の選択であるように思われた。
 館から少し離れたところにある墓は、一族のそれである。姓ごとに区画整理されていて、一目でわかるように工夫されていた。いつか黒玉もまた、この墓に入るのだろう。白い墓標のみで飾り気のない墓は、余分な副葬品を許さない。巫女としての衣装はもとより死装束であるが、その衣装のまま弔われることを黒玉の聡明な親友は望んだようである。花以外の副葬品を厳しく断ったので、葬礼の折、紅玉は小さな身で花を探して歩き回ったという。優しかった大姐に、せめて許された花だけでも贈りたかったのだろう。しかしそれは生花を摘む。命を摘む行為なのだと気付いて、少女は泣いた。結局、白玉は何も望まなかったのだと気付いて。命を摘み取ることを望まなかった優しい姉が、命を維持するためでなく死んだものを飾るためだけに、生きている花を手折ることを望むはずがなかった。しかも飾られたとしても、その花を見る者はいない。命の抜殻なのである。それは、生者の単なる自己満足でしかなかった。
 黒玉がたどり着いたとき、先客がいた。長い髪が珍しく解かれ、風になびいている。力強さよりもまだしなやかさの勝る体格は、少年のもの――黄玉である。その背に流れる黒髪を見て、黒玉は胸が締め付けられる気がした。巫女白玉と、同色そして同質の、真っ直ぐな髪である。
「大姐」
 人の気配に振り返った黄玉の声に、はっとした。
「こちらに来ていたの」
「……月下冰人(男女の縁を取り持つとされる仙人/仲人役のこと)にご挨拶をと」
「そうね……」
 白玉は幾つもの縁を取りまとめた。海碧玉と紫玉もそうである。長くはない生涯を一人身を貫いて生きたが、それは巫女にとって幸福であったかどうかについては、本人が判断を下すべきことだろう。
「大姐、後悔してます?」
 そう訊く少年の声はいつになく頼りなげだった。まもなく夫になる少年は、まだ十二歳なのである。いつもの余裕のある態度からは考えもつかない。黒玉と同じ寝台に眠らなくなってから、急に背丈も伸びて、日毎にがっしりしてきていた。見慣れた小さな少年が求婚を機に見る見るうちに青年へと変わりゆく様を目の当たりにして、置いてけぼりを食らったような気分を味わっていた黒玉は、ようやく少年の進む速さに追いつけた気がした。
「していると、言って欲しいの?」
 ちら、と少年を見遣る。その表情はずっと白玉の死を哀しんでばかりだったかつての少女のものではない。唇に含んだ笑みは明るい色彩を帯びて、蒼い瞳が陽光を受けて輝くようだった。その笑顔に少年は力を取り戻した。
「言わせませんけどね」
 そう言って許婚の腰のあたりに手を伸ばす。その素早さは避ける間もない程だった。文字通り「口封じ」である。情熱的な口付けに思わず陶然となりかけ、慌てて場所を考える。
 ばしんっ。
 乾いた音がして、黄玉はその場に座り込んだ。
「……いってぇ!」
 押し殺したような悲鳴をあげる。
「ちょっと待って下さい、それは何ですかっ! 一体どこから……!」
 白く細長いそれは、良くしなっていて、手で掴み易いように手前には皮革が滑り止めとして巻かれている。何よりそれを構えた黒玉は……。
「……良く似合いますね」
 痛みを堪える目尻からは、ほんの少し涙が零れているようである。
「ああ、これね。張扇というんですって」
 先日発見された黒漆の箱の組紐の中央に、黒い珠がぴたりと嵌った時、その組紐ははらりと解けた。黒漆の箱は中に黄色の布が敷かれ、その中にこれが入っていたのである。夢で「渡したいもの」の所在を告げられていたことを思いだしたのは、黒い珠を見た時だった。黒漆の箱を開くと、黄と黒の組紐でそれが封印されていた。扇に良く似た形をしているが、扇よりも良くしなり、何より大きさが二回り程も違う。
「これを見た時、判ったのよ。白玉、私の為に用意していてくれたんだわ」
 ありがとう、白玉。私の苦労を考えてくれてたのね。と感動する赤い髪の娘は、それでそれは微笑ましいのだが。どこか何かが違うような気がした。
「で。処構わず迫るのは、やめなさいね」
「そうですね。これから夫婦になるわけですし、公明正大な理由も出来る訳ですから、大姐を閨(寝室)から出さないでおけばいいんですよね」
 満面の笑みを浮かべた少年との婚儀を、赤い髪の娘は本当に後悔しそうになった。

「ところで、気になってたことがあるのよね」
「何です?」
「碧玉大哥や翠玉二哥が妓楼に通ってたことは知ってるけど、黄玉は行ってないわよね?」
「ええ」
 同じ年のものより若干成長が早いとは言っても、十二歳である。登楼しようとしたとて、妓楼の女将が入れるはずもない。
「随分扱いに慣れてない? あなた」
 ひた、と視線を据える。蒼い瞳に剣呑な光が立ちこめるのを、黄玉は惚れ惚れと眺めていた。
「しっかり見学しましたからね」
「見学…?」
「大姐、忘れてませんよね? 碧玉大哥の婚儀のとき、俺に伝言させたでしょ?」
 紫玉の衣につけた紐を引くように、との伝言を碧玉に伝えさせたことをふと思い出す。水玉と二人で作った婚礼衣装には悪戯が仕掛けてあった。
「そんなこともあったわね」
「俺、あのとき大哥の部屋で見てたんですよねぇ、ずっと」
 肯きかけて、思考が停止する。
「……え」
「だって、大姐があんなこと言うなんて、何か企んでるってことでしょう? ついついその行く末を確認したくなっちゃって、大哥の部屋にこっそり忍び込んだんですよ」
「……」
「なかなか大哥は帰って来なくて、そのうち眠っちゃったんですけどね。夜が更けて大哥が戻ってきて紫玉大姐と話し始めて、俺も丁度目が醒めて。いつもだったら見つかってたろうけど、大哥はかなり酒が入ってたし」
 血の気が引いた。自分が蒔いた種がもたらしたことではあるが。
「官能的だったなぁ、あの夜の紫玉大姐。赤い衣がふわっと散るように広がって、羞恥で顔を真っ赤に染めて身を隠す大姐を、大哥がやさしく抱き上げて寝台に横たえて…」
 その仕草を臨場感たっぷりに実演したり、聞いている方が恥かしくなるような形容を、恥かしげもなく言える辺り、黄玉は大物になれる資格が有るのかもしれない。
「……三歳の幼児がじっくり観察するようなものじゃないわよ」
「ええ、実践はそのあとかなり練習しました」
「…誰と?」
「他にいるはずないでしょう? 黒玉大姐、あなたですよ」
「?」
 暫く考えたが真意を理解できずにいる黒玉に、丁寧に少年は話した。婚儀の前に隠し事があっては良くないですしねぇと微笑む黄玉に、黒玉の怒りを込めた張扇が再びが炸裂した。
「あなたって子は……!!」
「痛ってぇー!! 大丈夫です、ちゃんと最後だけは残しておきましたから」
「ってそういう問題じゃないでしょ!」
「でもあれだけ触れられてて目醒めない大姐の方も変ですよね。寝衣を全部脱がされようが、全身隈なく撫でまわそうが口付けしようが全然起きないし」
 少年の述懐はもっともである。大地震で目醒めない人はたまにいるが、自分の体を撫で回されて目を醒まさない人は少ない。褐色の頬に朱を上らせて怒りを露にする様を、黄玉は久しぶりに見て懐かしくなっていた。
「熟睡型なのよ。悪かったわね。って誤魔化さないで!」
「いやー、初めてで不安だったものですから」
「私だって初めてよっ!」
 言ってからしまった、と思った。にんまりと笑う少年の顔を見ることが出来ない。
「そりゃそうですよ。寄って来る害虫全部しっかり退治してましたからねぇ」
「?」
「言ったでしょ? 逃げ道を塞いで追い詰めて、最後の出口で両手を広げて待ってるって。俺からはそう簡単に逃げられませんよ、大姐」
 きらり、と光るその黒い瞳を見て、やっぱり黄玉は白玉の弟だと黒玉は改めて思った。その小憎らしい笑顔に、ふと赤い髪の娘は閃いた。



三十


 翠玉は妻の水玉と空を眺めていた。地平線近くに月がぽっかりと昇り始めている。明日は満月、黄玉の婚儀が予定されている日だ。しかし。
「大姐も罪な人だな…」
「何が?」
「いや」
 結婚して五年が経過しているが、小柄なせいか水玉は今も少女のように瑞々しく、可愛らしい。二人の間にはまだ子が生まれていないが、夫婦仲の睦まじさに影を差すものではない。翠玉は姉の巫女白玉に似た白い顔に苦笑まじりの笑顔を浮かべた。
「お預けを食らっている犬は哀れだなってことさ」
 そう言って翠玉は妻の肩に手をかけ、屋内に戻った。

「支度は?」
 爽やかに心地よい低音が響いて、巫女はそちらを振り向いた。語尾に微かに籠もったような響き。紅玉の好きな声である。
「一応、準備万端に整えてありますが」
「大姐のことだから間違いはないだろうが、な」
「はい」
 微笑む茶色の瞳には、明るい光が差し込んでいた。
「これから天祥おじいさまのところへ……」
「はい」
 星の光を集めたような明るい巫女の瞳に、微かな違和感を憶えながら、青玉は長老の下へと足を向けた。
「来たか」
「やはり?」
「流石に白玉。ここまで当てるとはな」
 力の漲る黒瞳には、老いの影は感じ取れない。二人は礼儀正しく長老に頭を下げ、退出した。その後姿を見つめながら天祥は思う。青玉の父が、今在ったならと。

 翌日の夜。漆黒の天鵞絨(びろうど)の布に微細な銀砂を撒き散らしたような空が広がっていた。満ちた月は山から跳躍したてで、心なしか弾んでいるようである。しかし黄玉の心はその月に反して沈んでいるようであった。
 今夜は「良宵」になるはずだった。ならなかったその理由は。
「婚儀を三年延期するか、今夜婚儀を行って三年の間指一本触れないか、どちらかをお選びなさい」
 そう黒玉が言い切ったからである。
「黙って私の体を良いように弄んだけじめはつけて貰いますからね!」
 弄んだという訳ではないが、断りもなしに体に触れまくったことは疑念の余地がない。当時彼は幼児ではあったが、確信犯なのだ。
「また『お預け』ですか…」
 珍しくしゅんとしている姿を見ると、悪いことをしたかなという気分に一瞬囚われる。しかしいくら幼児だったとはいえ、許されることと許されないことがあるのだ。ここで甘い顔を見せてしまえば、つけあがるに違いない。
「七年待ったなら、あと三年くらい大したことないでしょ」
 目の前からご馳走を持ち去られた犬みたいな表情の黄玉に、やや冷たい一瞥を投げかける。
「また害虫駆除の日々が始まるなんて、うんざりですね。ようやくと思ってたのに」
「お互いの視野と選択肢を広げる機会を作らないとね」
「要りません、そんなもの」
「なんでよ?」
「白玉大姐の預言だったんです。この婚儀は」
「白玉の…?」
「それに、大姐。浮気を危惧してるわけじゃないでしょう? 俺が将来大姐以外の若い女性に目を向けて、大姐を蔑ろにするとか思っているんじゃないですよね?」
「……思ってないわよ」
 本当は、ほんの少し考えていたかもしれない。
「それとも、ご自分の気持ちにまだ不安がありますか? 俺じゃ頼りないですか」
「それも、思ってない……」
 褐色の滑らかな頬が仄かに染まる。黒い光の襲撃を受けて黄玉が自分を庇った時、ようやく気付いたのだった。今、自分に必要な存在を。
「じゃあ何が不満なんですか? 何が欲しいのか言ってくれないと、俺だってお手上げです」
「……」
 何かを期待するような眼差しだった。これくらい察してよ、という声が聞こえてきそうな程の。
「……じゃ、せめて一年にしてください」
「い・や!」
 黒玉はとびっきりの笑顔で微笑んだ。逃げ水のように遠のいていった「良宵」に嘆く少年が、ふと星空を仰いで深い溜息を一つ吐くと。楽しそうな声が響いた。
「三年したら、婚礼衣装を着てあげるわ。それまでは…」
 磨き上げた虎目石で作られた指輪を懐から取り出し、少年の右手の薬指に嵌めた。同じものをその掌に落とし、自分の右手を差し出す。
「大姐、これ……」
 答えるかわりに微笑みを深くした。黄玉は慌ててその褐色の指に、自分と同じように嵌める。鈍い茶色の中に鋭く黄土色が光る指輪を。お揃いになった指を並べて見た。
「欲しい?」
「ええ。でも焦りませんよ、もう」
「どうして…?」
「大姐の気持ちが判らないのが不安だったんですよ、俺も」
 赤い髪の娘は、少年がいつも自信たっぷりに見える迫り方をしていたその裏に、隠していた一面を見て、意外な感に打たれた。
「……あなたでも不安になることがあるのね」
 意味ありげな目で見上げる。心外だと言わんばかりの顔でその視線を受け止める少年は、吐息まじりに呟いた。
「体を手に入れても心が手に入る訳じゃないのは判ってますけどね」
「体も、心も愛してくれる?」
「まるごと愛してます」
 即答したその口調に一瞬の躊躇いもなかったこと、少年がじっと自分を見つめていることに蒼い瞳は少し安堵したようである。
「なら、いいわ」
 黒玉は許婚の首に両手を掛けて耳元に声を注ぐように何事かを囁く。それから素早く少年に口付けをすると、黄玉は苦笑まじりの微笑みを浮かべて、赤い髪の娘をふわっと抱き上げた。白い満月の光が地上に降り注いでいる。
 良宵は、もうすぐそこまで来ているようだった。

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