銀宵――海虹外伝――



 洛家の次男坊が無理難題をつきつけられている頃。虞炎玉はお荷物三つを抱えて、歩みを進めていた。現在向っている先にあるのは峡家本拠地、峡邑である。予定より大分遅れていることに苛立ちを感じているが、その荷物を置いていく訳にはいかなくなった今、荷物を抱えた状態で少しでも早く進めるように努力することが最善の策と言える。その足取りが軽いとは言えなかったが、自分に課せられた役目を放棄出来る筈もない。
「休憩を……」
 本日何度目かと数えたくなる休憩を申し出る灰色の髪のお荷物をじろり。と見る。炎玉一人であれば、これほど頻繁に休憩せずに済んだ筈だった。元々体力がないのかも知れない。風維王よりも小柄な炎玉が息一つ切らせずに歩いていることを見れば、如何に体力がないかが知れる。もっとも、炎玉は同じ体格の女性と比較すると格段に体力がある方だから、紺碧の瞳の主にそれを求めるのは難しいことかも知れない。炎玉自身は比較的幼い頃から一人で海邑の外を歩くことが多かったし、旅も何度となくしてきた。風一族の嫡子である維王は、殆ど一族本拠地の邑から出たことはないだろう。それは、彼の身分を考えれば普通のことではある。武門であることも手伝って、一つの武器と一つの楽器を習熟することが義務づけられていた海一族では、ある程度の体力も自然に培われる。その中で育ってきた焦茶色の髪の持主からしてみれば、この体力のなさは驚異的とさえ言えた。維王の白い額には汗がびっしょりと流れ、前髪もべとべとになって額に張り付いている。後ろは縛っているので多少は楽かも知れないが、息が上がって目がうつろになっている様は、炎玉の許容範囲を大幅に超えていた。
「見苦しい! しゃんとせんか、しゃんと!!」
 紫色の瞳の持主は、すんでのところで蹴りを入れるところであった。しかし、ふと何かに気づいたように立ち止まり、目を閉じてあたりに意識を集中する。
「炎玉……?」
「黙れ」
 はっきりきっぱりと拒絶した言葉のあとも、暫くの間炎玉は目を閉じたまま何かを考えているようだった。その血色のいい瞼を縁取る焦茶色の睫がかすかに震えるのを、維王は何か見たことがないものを見るような目で見ていた。ぽーっと見ている間に、ふっとその睫が薄く開き、遠くの空を見るような眼差しが次第に近くを見るものに変化していく。
「来るぞ」
「え?」
 声を上げると同時に、炎玉は走り出した。咄嗟のことに動けず暫くそのまま立ちつくしていた灰色の髪の主も、慌てて走り出す。その次の瞬間、全てのものを薙ぎ払うかのような凄まじい雨が、あたりを白絹の帳のように隠した。降り出すより一瞬早く、炎玉はぎりぎりで木の陰に隠れることが出来たが、三瞬くらい遅れた維王はものの見事に濡れ鼠になった。寸前まで雨雲のようなものは見当たらなかったから、恐らく通り雨だろう。と炎玉は呟くように言って、乾いた布を風家の嫡子に放って寄越した。維王自身の荷物は、木陰への退避が間に合わなかったのである。少し離れたところに一旦置き去りにしてしまい、慌てて取りに行ったものの、それまでに結構濡れてしまっていたのだった。傍に控えていた月鬼と日鬼は、体をぶるぶると震わせて水気を飛ばし、二人から少し距離を置いて座っている。
「そろそろ日が暮れるな……」
 次の町まで移動して宿を取るつもりで居たが、それは少し無理なようだった。次の町までの間に森を抜けなければならず、そこは日が暮れると少なからず危険な場所として知られていた。もっとも、野宿には慣れているし、一人であればこの森も越えてしまったかも知れないが。お荷物を連れて無事に抜けることが出来るかと考えたら、それは少々難しそうだった。
「明日払暁に発つ。それまでゆっくり休め。明日の休憩が四回を越えたら私はお前を置いていくことにする。異議は認めん」
 突き放すようにそう言って、炎玉は夜営の支度を始めた。

「青玉!」
 黒髪黒瞳の青年が、少し離れた所から声を掛けて駆け寄ってくる。族兄の一人、海翠玉であった。
「二哥、お疲れ様です。お手数をお掛けしてすみません」
 爽やかな笑顔に白い歯。それが躍るような陽光に煌く様は、いっそ眩しい程でさえある。
「いや、大したことではない。だが、あれで良かったのか? あんな中途半端で」
「大丈夫ですよ。段取りは済んでますから、後は炎玉三姐が片をつけてくれます」
 その言葉に、翠玉の顔が少し強張る。
「いや、まあ炎玉のことだから大丈夫だとは思うんだが。あいつ、またやり過ぎないか……?」
 それには、思わず微笑むしかなかったらしい。しかし、小首を傾げつつも請け合ったのには彼なりの考えがあってのことかも知れない。
「岳姫が関わっていますし」
「そうだった」
 炎玉という人物はありとあらゆる意味で少々問題があるが、友情に篤いということについて異論を挟むものは、少なくともこの海邑においては皆無だった。その炎玉が「親友」と呼ぶ相手を蔑ろにする筈がなかった。
「まあ多少派手にやってくれるかも知れませんが。役目を忘れるような方ではありませんから、大丈夫ですよ」
「そうだな」
 二人は顔を見合わせて笑った。その次の瞬間、風が吹いた。と思ったら、それは鳥の形をしていた。
「鷹玉!」
 青玉が左手をそっと差し伸べる。かなり勢いがあった筈だが、鷹玉はその左腕にしっかりと捕まった。左足だけをそこから一旦外し、青玉に向けて首を傾げる。
「ありがとう」
 通信筒を外して手紙を抜き取る。内容をざっと読んで翠玉に渡したところで、巫女の衣装をまとった海紅玉がお盆を持ってくるのが見えた。鷹玉用の水と餌、そして二人分のお茶もある。
「お疲れ様でした」
 雲なす黒髪は控えめに結い上げられて、首の細さを強調し、その白い肌は陽光に映えて一層際立って見える。飾り一つ付けず紅一つ落とさぬが、その艶麗さは隠し遂せるものではなくなりつつある。やがて、この巫女が海の新しい長と共に伽都豫へ行くことがあれば、それは海一族にとって波乱を招くものになるかも知れない。そんな未来を予測しつつも、口に上せることは躊躇われた。
「ありがとう」
 その言葉に、巫女の頬が上気して薄紅に染まり、瞳が微かに潤いを帯びる。伏せられた長く黒い睫が色濃い影を落とすと、その白い面差しの陰影が更に深いものとなった。
「紅玉も十七か」
 感慨深げに、翠玉が視線を落とす。大きすぎる力の代償であるかのように、二十歳まで生存し得なかった姉で巫女だった海白玉のことを思い出しているのかも知れない。それを思い出したのは、一人だけではなかったらしい。
「白玉大姐ほど完璧な巫女にはまだまだですが」
 はにかむように小首を傾げて見せると、その面影が懐かしい人のそれと重なるようだった。恐らくは、その黒髪と、同じ恰好がもたらす効果だろう。
「いや、大姐も喜んでいるさ。こんなに立派な巫女になってくれて、と」
 白玉がもし長く生きられる運命を持っていたら、紅玉は巫女にならずに済んだかも知れない。だが、それを口に出してしまうのは憚られた。
「そろそろ漣容を巫女にという声が上がっているようです」
 海漣容、それは海姓長兄海碧玉の長女の名であった。巫女候補として上げるには、十歳程度の年齢が望ましい。二、三年程度の修行をして、一人前の巫女になるが、特に海姓の巫女は予見の力を持つ者が多かった。しかし、漣容はその能力についてはまだ不分明とされており、また、海邑不在の碧玉夫妻が手元から離したがらないこともあって、その話はそのままになっている。海邑以外で生計を立てている場合、子供がある程度の年齢に育てば海邑へ子供だけを送り、季節ごとに両親が帰邑するということが多いのだが、こと漣容に関してはその父親である碧玉がかなり強情を張っていると翠玉は聞いていた。
「漣容の意思を大事にしたいという意向だろう」
「はい、私もそう思います」
 もし漣容だけを海邑に戻すとしたら、その時点で巫女候補として上がる確率は倍加する。今は遠隔地に居るせいもあってのびのびになっている。もしかしたら、他の巫女候補が挙がるまで、碧玉はそのままうやむやにしてしまうつもりなのかも知れない。
「ここ二代の巫女の様子を見ると、やはり躊躇われるのも無理はないだろうな」
 薄い唇から溜息が漏れる。先代の巫女白玉と良く似ているその白い顔は、男性にしておくのは勿体無いと言われることが多かった。悩ましげでさえあるその溜息は、今は妻藺水玉一人が独占している。その水玉の母は白玉の前代の巫女海叔瑶であり、早くに夫と死に別れていた。碧玉は先代巫女の白玉に想いを寄せていた時期もあったし、巫女という存在に対していくらかの存念があるのだろうか。
「巫女という役目は役目。ですが」
 適格者が居ないときには、巫女を置かなかったこともあったという。ならば、次世代の巫女を焦る必要はないのかも知れない。だが、巫女という存在に依存してきたここ数代の海一族の体質を変化させるのには、巫女を置かぬことも考慮せざるを得ない、と海姓兄弟は考えつつあった。勿論、今現在紅玉という巫女がいるからこそ可能なことも多々ある。だが、紅玉は先見の力には恵まれなかった。
「いずれにせよ、いつまでも先伸ばしにしておける問題でもないな」
 翠玉がそう言って黒瞳をそっと伏せた。鷹玉は何時の間にか青玉の肩に座ってじっと様子を見ている。
「ええ、いずれは」
 静かだが深い眼差しをして、青玉が肯く。黒髪の巫女は、鷹を肩に載せた青年の横顔をそっと見つめていた。

「謁見はまずい、まずすぎる」
 そうやって王宮の室内をうろうろと歩き回っているのは、もうすぐ幸せな花婿になる予定の青年であった。洛家の衣装に身を包んでいるが、頭髪はそのままである。伽都豫の湿度は少々高めで、洛家の頭布を被っていると、蒸れるのだ。赤銅色の髪は束ねられずそのままだったが、きちんと梳かれているらしく、整えられていた。そのまま半日程もうろうろし続ける勢いである。だが、「花嫁」の痕跡を幾つか見つけたという将来の義兄の言葉は信じていても、肝心の「花嫁」の所在については現在も連絡が来ていなかった。
「どうすりゃいいんだ」
 肩を落として、そこに幾つか置かれていた椅子に倒れこむように座る。妙案が思いつく精神的余裕があろうはずもない。刻一刻とその時は迫る。謁見を希望したくはないが、あのような申し出があった以上届出を出さずには済まされない。せめて岳孔嘉からの確実な連絡が来てからと思っていたが、ここに長く滞在するのもまた、危険だった。八方塞がりとはこのことか。と頭を覆う手を、そっと細く白い手が遮った。
「孔昭……」
 宮殿内は、どこで誰が見ているか判らない。その為道中よりも気を遣っていたが、まるで孔昭自身であるかのようなその態度に、赤銅色の髪の主は、戸惑いを憶えていた。
「そうだな。明日朝、謁見の届出をしよう」
 何事もやって見なければ判らない。明日、孔昭が戻ってくるかも知れないではないか。躊躇いを振り切ったような碧眼に、そっと夕刻の光が差し込んでいた。

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