銀宵――海虹外伝――



 峡邑に到着したのは、日も高くなった頃だった。邑をぐるっと囲む高い城壁とその外側に繋がる深い濠が、延々と続いて見える。どこまでも続いていくそれは、まるで何かから守るためのものにも思えた。或いは、何かを封じるためのものにも。入口となるべき城門は四方にあり、勝手口のような小さい門がその間に計四つある。小門は峡邑の住人自身が使うためのもので、八方に大小とりまぜ八つの門がある訳だが、来客があった際に主に使われるのは、北もしくは東門であった。ぴったりと堅く閉ざされた扉の前に立ち、門番に小声で名と来意を告げると、さっと顔色を変えて高く手を振り、緊張の面持ちで叫ぶ。
「開門! 開門!!」
 次の瞬間、重厚な音があたりに響いて扉がゆっくりと左右に開いた。扉は木材からつくられたもので、深い色は長い年月に耐えてきたものであることを偲ばせた。濠の上に掛けられた橋がその扉の先に続いている。水が豊富なここ峡邑ならではの城門と言えるだろう。焦茶色の髪を後頭部中央で一つにきりりと縛った虞炎玉は、しっかりと一歩を踏み出した。風維王がそれに続こうとした瞬間、炎玉が鋭く口笛を吹き、ついで指で灰色の髪の持主を指して命じた。
「拘束!」
 咄嗟に避けることも出来ず、維王はその場に押し倒された。他ならぬ、日鬼と月鬼とによって。門番は堅い表情のままそれを眺め、騒ぎを聞きつけた人々が、城門近くに少しずつ集まりはじめている。
「これはどういうことだ」
 押し殺した声を鋭く吐きだしてもあまり迫力が出ていない。ちらり。と視線をくれたあとで、焦茶色の髪の持主は、峡邑の中心部からやってくる人影に向き直った。
「虞炎玉、海姓五家第四姓、虞叔鋒第二子。伽国武官海碧玉名代として峡家当主に相見を乞う!」
「海碧玉…名代だと?!」
 呟き漏れた言葉にひっそりと微笑んでみせたその顔は、いつになく妖艶ですらあった。
「如何にも。海碧玉は我が族兄」
 先程押し倒されたときに、後頭部を打ったのかも知れない。次第に遠ざかりつつある意識の中で、打つ手を誤ったな、という言葉は、半分も聞き取れなかった。
「虞炎玉殿」
 身なりを調えた従者風の者が、炎玉に声を掛けた。
「お待たせ致しました。どうぞ、こちらへ」
「ご配慮感謝する。ところで」
 視線を月鬼日鬼に押し倒された風維王にやって。
「これも証拠いや証人なのでな。縄で拘束した状態で運んで頂きたい。よろしいか」
「かしこまりました」
「月鬼、日鬼、離脱。ご苦労だった」
 炎玉の命令のもと、月鬼日鬼は維王から身を離し、炎玉の両脇にちょこんと座った。労うようにその手が二匹の首を撫でる。その間に峡家の従者は風家の嫡子を手際良く縛り上げた。適度なきつさは逃れることが出来ない程度であるが、苦痛を与える程のものではない。拷問にかけるならいざしらず、その身柄の確保を最優先とする場合は、丁度良い程度と言えるだろう。

 相見の場として用意された部屋は、木造家屋の一室だった。そこに肘掛のついた幾つかの椅子が置かれている。卓子はなく、がらんとした一室は盗聴防止の為か、或いはその疑いを避けるためのものかと思われた。炎玉がその部屋に入ると、少し間を置いて一人がやってきた。
「虞炎玉殿。海碧玉殿の名代ということでしたな」
「如何にも」
 重々しく肯いた炎玉の視線を受けて、その表情が少し和らいだ。整えられたやわらかな赤髪に理知的な黒い瞳、口髭は髪と同じ赤で、恐らく髭は年齢を少し上に見せる目的の為に蓄えられたものだろう。
「峡硯人だ」
 予想していたのだろう。表情は変えずに、紫瞳の持主はその場に膝を折った。立場としては伽国武官名代だが、峡家当主という身分に対して敬意を表したのである。身分という一点で考えれば、虞炎玉はそれより下となるのだ。
「此度の件、落着致しました」
「流石の手際だな。感謝する。身中の虫については後日またご連絡申し上げるとしよう」
 穏やかな中にも鋭い光を宿した涼やかな黒瞳が、炎玉にはひどく懐かしく思われた。帰邑したら、まず一番にあの瞳を見たい。そして、おかえりなさいと声を掛けて欲しい。と焦茶色の髪の持主は思った。
「さて、今後のことについて協議したいのだが。まずは椅子を」
 その言葉に従って、紫瞳の娘は素直に着座した。

 長い廊下が延々と続く。足音を消す毛足の長い絨緞もまた、延々と続いていた。謁見希望申請を出して三日。正直、待っている時間は拷問にさえ等しい。いや、いっそ拷問の方が楽ではないかと思われた。宮殿の中では誰がいつ見ているか判らない。一瞬も気を抜けない時間が続くのは、旅の途上の方が遥かにましだと言えた。廊下の突き当たりに到着した。少しの間を置いて、重い扉がゆっくりと開かれる。精緻な装飾を一分の隙もないほどに埋め尽くした扉が、ゆっくりと左右に開いた。その先には更に深い絨緞が続き、その先には玉座がある。この国至高の存在である「白の君」の座る玉座が。
 ひとつ大きく呼吸をして、静かに足をすすめる。後ろに続く花嫁は、侍女がその手を取っている。婚礼用の長い衣装は、重量も相応にあって、歩行には向かない。玉座の前の階の下に少し余裕を持って立つと、膝を折る。その隣に花嫁が跪いた。俯き加減でいるのは、直接主上――白の君を見る不敬を避ける為である。二人はそのまま拝礼をし、頭を垂れた。
「洛瓊琚、岳孔昭」
 玉座の真下、階のすぐ隣で名前を読み上げているのは、洛家の次男坊も良く知る文官である。その顔つきはいつもの軽さと性格の悪さを見事に隠していて、赤銅色の髪の持主は些か尻のあたりがむず痒い気分になった。その花婿も今日ばかりは婚礼衣装をまとっている。婚礼の許可を申請に来て、その許可証を受け取る段取りになっているのだから当然といえば当然だ。目に映るのは階の下の方ばかりである。階の上を見上げることは不可能だった。
「洛家、岳家の婚姻を許可する。許可証を」
「はっ!」
 きびきびとした声が響く。この許可証を受け取れば、あとは…。
「岳孔昭、主上の御前である。花嫁の被きを取れ」
 咄嗟に花嫁を庇う位置に立ったのは、花婿として当然の行動である。
「婚礼衣装を取るのは婚儀のあと、でございます。いかな主上といえど、我が花嫁に対してそれはご無体というものでありましょう」
「そなたの申すこと、如何にも道理。しかし銀の花嫁の美髪とその蒼瞳の噂は伽国中に鳴り響いておる」
 階の上から降ってくるような声には、粘るような何かが含まれている。そんな気分を花婿は憶えた。階の上からも見れるようにとは、つまり花嫁が階の上を見上げねばならぬということだ。瞳の色を見られたら、孔昭ではないことが一目で知られてしまう。必死になって庇う花婿に同情するものも少なからず居たが、国主の言葉に逆らえるものなど、居るものではない。そのとき、花婿の袖をそっと押さえた手があった。振り返ると、それは赤い花嫁衣装に包まれた白い手である。
「……孔昭」
 静かに首を左右に振って、その繊手が髪を覆い隠していた布をそっと引いた。それが床に落ちずに済んだのは、傍に控える侍女が受け止めたからである。布がはらり。と取れると、被きに隠されていた銀髪が、まるで満月の光のように綺羅綺羅しくあたりを照らすかと見えた。
「孔…昭?」
 一瞬の間。そして、そのあとに続くどよめき。それは磨きあげた白銀さえも及ばぬ光沢を示していた。銀色に染めた絹のような髪、そして瞳は――震える銀色の睫がそっと陰を落として、容易には見ることが出来ぬ。
「頭をあげよ」
 その声は、階のすぐ下から発せられた。先程の文官である。恐る恐る、と言った風情で花嫁は静かにその頭をあげ、ゆっくりと瞳を開いた。風にも耐えぬ柳のような容姿は、男の庇護欲をそそらずには居られない、可憐さをもっていた。
「これは…!」
「なんという……!」
 そんな声があちこちからひそひそと囁かれる。ゆっくりと眼差しをあげた花嫁の瞳は、澄んだ氷のような涼やかな蒼であった。

「今頃は謁見を済ませていると存じます。根性は捻じ曲がってますが、あれでも一応有能と称される身。そつなく取り計らってくれるでしょう。あとの道中は私の一族の者が護衛致します」
 扉を控えめに叩く音がして、従者が声を掛けた。
「洛瓊華様、ご到着でございます」
 洛家の衣装を身につけた青年がゆっくりと入ってきた。
「瓊華殿。よう来られた」
 着座していた峡家の当主が席を立ち、椅子をすすめる。虞炎玉は来客の身分なので座ったままであるが、それにはお構いなしに当主に向かって挨拶を述べる。
「お久しぶりでございます」
 久闊を叙する作法をそつなくこなす様は、流石に次期当主として認められただけの格を感じさせた。次男が正妻の子であるゆえに、兄である彼は遠慮もしてきたが、その選択に同意するものは少なくなかったのである。洛邑の中でこそ、正妻の子をという声もあったが、対外的には長男の方が評価が高かった。何より、その謙虚で控えめな姿勢を峡家当主も気に入り、押してきたのである。
「さて、先程虞炎玉殿とも協議していたのだが」
 てきぱきと事務的にすすめようとしているのは、それがそれぞれの一族にとって、厄介かつ面倒な事柄だからだ。
「処分について、まず岳姫をかどわかした拙家の者ですが。終生の峡邑軟禁とし、邑外に出る場合には海家、洛家、岳家何れかの監視を伴うものとする」
「結構です。どうしようもない場合にはなんらかの処置を考えることに致しましょう」
「洛家側の同調者ですが。これは、自宅謹慎に止めます。私から言い聞かせることにしますが、今後ご両家に迷惑をお掛けするような真似は一切させません。私が責任をもって監督致します」
「宜しいでしょう。では、そういうことで」
 一同は協議を終え、解散した。

 謁見を済ませて洛邑に戻った花婿と花嫁は漸く婚儀を執り行うことが出来た。儀式につぐ儀式で疲労困憊したけれども、新床で花嫁の膝に頭を載せた花婿は、いつになく安堵した表情を見せている。本来なら新床を賑やかに盛り上げる役を担う人々も、その微笑ましい様子を眺めて戸口のあたりでそっと騒ぐだけに止めた。
「なあ、孔昭」
「はい」
「本当は、いつから戻ってたんだ?」
 その言葉には応えず、そっと微笑みを深くした。
「あ」
 唐突に花婿が身を起こした。勢いがありすぎたせいか、花嫁の首筋に接吻を落とし、そのまま花嫁を新床に押し倒す。花びらが撒かれたそこは、少々官能的な匂いがあって、思わず二人は顔を赤くして互いに目を逸らした。
「すすす。すまん」
「いえ」
 焦りつつも、床の傍にあった卓子の抽斗をそっと引く。中には銀鈴が二つ、置かれていた。懐から金鈴を取り出して見せる。
「洛家で子が生まれると、皆この金鈴をもつ。これは一族の印の鈴だ。そしてこちらは別に作らせた銀鈴。二人で共に持つために」
 岳家の者である孔昭が洛家の鈴を身に付けることは出来ない。その為に、洛家の次男坊が誂えたものだった。花嫁の髪の色と同じ銀色の鈴をその手に落とし、部屋の中央に二人で向かい合い、鈴を振る。
からん。
 高く明るい鈴の音が響き、更にその上にもう一つの音が響く。驚く花嫁をそっと抱きしめて、花婿が説明した。
「これは一族の識別の印にもなっていて、一緒に鳴らすと更に上の音が反響して聞こえる仕組みになっているんだ…」
 優しく語り掛ける言葉は、次第に甘いものになっていく。外では銀色の星が空一面に輝いて、新たに夫婦となった二人を祝福しているかのように見えた。

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