銀宵――海虹外伝――


十四


 荒地を、誰かが旅をしていた。
 重そうな外套を頭からすっぽり被り、足場の悪い道を危なげなく歩く様子は、小柄なその身からは想像つき難い程、相当に足腰を鍛えているようだった。その頭上を飛び回る影がある。旅人は、それを見上げて顔を綻ばせた。頭部の布を外すと黒い髪があらわになる。線が細く繊細な顔立ちを見る限り、多少上に見積もったとしても、せいぜい十代半ばと思しき少年だが、見事な程の黒髪を後頭部でまとめて布に包んでいる。それは、この荒地が属する国――伽国では、通常成年男子の髪型である。成年とされる年齢は、一般の人々で二十歳とされていた。所謂「七族」に連なるものであれば、二十歳に達しておらずとも、成年として扱われることも多いが、曲がりなりにも「七族」であるなら、このような人気のない場所を一人でふらふら歩くのは考え難いことであった。或いは、「大人に見られたい」と願っての姿なのかも知れない。旅人はそっと手を伸ばした。影はその腕に襲いかかった。かに見えた。
「鷹玉、ありがとう」
 それは、一羽の鷹だった。「鷹玉」というのがその鷹に付けられた名なのだろう。旅人は明るい茶色の目を向けて礼を言うと、その足にくくり付けられているものをそっと外す。通信筒である。嵩張らないように小さくまとめられた中に、小さく丸められた紙片が入っていた。中にはこれまた小さな文字がびっしりと記されている。内容をざっと読んで、彼はその場に座りこみ、矢立を取り出した。所謂携帯用筆記用具である。彼は懐から小さな紙片を取り出して返事を認めると、丁寧に小さく丸めて通信筒にそれを納め、元のように鷹の足にそれを付けた。
「面倒だが、頼むよ」
 そう鷹に向って話しかけると、鷹は一声あげて軽く羽ばたき、彼の腕から飛び立つ。無駄のなく力強い羽ばたきは、生命力を感じさせて快かった。
「さて。俺も行くか」
 顔立ちには似合わぬ「俺」という言葉遣いは、自身の面立ちを意識してのことなのかも知れない。外した布を頭に戻して、彼は歩き出した。

 風邑に滞在したままの海邑からの旅人虞炎玉は、風家嫡子維王の賓客として扱われていた。窮屈さは感じてはいるかも知れないが、適当に理由を付けて――たとえば、剣の稽古として――維王を思う存分叩きのめしたりしているので、それなりに精神的重圧を発散出来ているだろう。とそれを眺める嫡子の妹風維行は見ていた。また、炎玉が一緒にいれば少しの外出も許可されたので、維行自身にとっても有難い面があったことは否めない。しかし、今までになく女性にこき使われ、足蹴にされ、いいようにあしらわれる兄を見て、複雑な気持ちになったことも確かである。今までは群がる女性を鬱陶しそうにしていることが多かった兄に、そのような無体を許す女性が現れるとは正直思っていなかったが、事実目の前に居る姿と、それに使役されまくる兄を見たあとでは、思わず頭を抱えそうになるのも無理はないと言えた。
「維行。お前剣と弓は扱えるか?」
 鮮やかな程に真直ぐな焦茶色の髪の主が、唐突にそう訊ねてきたとき、彼女は心の中で身構えた。
「剣なら何度か触ったことがありますが、弓は…」
「どの程度扱える?」
「弓は一度も」
 少し考えるような風情で「そうか」とこたえる。そこまでは良かったのだが。それから発せられた炎玉の言葉に、灰色の髪の娘は、文字通り目を丸くした。
「お前にやる気があるのなら、剣と弓の腕を鍛えてやるが。どうだ?」
「え……?」
 通常、良家の娘が武術を習い覚えることはない。炎玉の属する海一族は、女子も男子も等しく武芸と楽器を身に付けるよう決められているが、他の六族では良家の娘は淑やかに家事をこなせればそれで良いとされていた。炎玉の親友である岳姫(岳一族の姫)孔昭も同様であった。海一族ではそれが標準として炎玉のような娘が武芸を習い覚え、或いは身を守るためにそれを行使したとしても誰も咎めだてはしないが、他家では「良家の娘が武芸を習うなんて」と眉を顰めることも少なくはなかった。もっとも、他家の方が主流であり、海家が異端であることは炎玉も承知している。海家で女子も武芸を修める理由は、ひとえにある女性の影響が絶大であった。
 それは、海家の初代邑主の妻にして初代巫女であった女性である。彼女は、盲目ながら武芸の達人でもあった。絶代の美貌と、苦難多き初代邑主を支えた聡明さを慕われて、三百年の時を越えた現在も「伝説の巫女」として名高い彼女は、まだ男女の格差が大きかった時代に、一族の者に男女の区別なく平等に学問と武芸を学ぶことを勧めたのである。女傑という言葉が彼女ほど相応しい人も他にいまい。彼女の楚々とした美貌に敵が鼻の下を伸ばしている間に策謀を巡らして相手を失墜させるとまで言われた程頭の回転が早かったが、自身は欺瞞を厭い信義を重んずる人であった。と一族の伝承にはある。事実がどうだったかは既に三百年の時を隔ててしまっては判らないが、一族郎党を率いてこの地に辿り着き、邑を作った一族の祖である初代邑主の嫡妻を務め、一族の基礎を作ったという一事だけでも相当な辣腕の持主であったことは確実だろう。七族では一夫多妻が多いのに対し、海一族では彼女に敬意を表して一夫一妻が標準であるが、初代邑主の言葉を借りれば「二人も持つと面倒だから最良の一人が居れば十分」ということになる。
「でも……」
「なに、護身術だ。習い覚えたことだけ内緒にしておけば良い。普段は淑やかにして、借りてきた猫のように振る舞うのだ。周囲には侮らせておけ。有事に自身を救うためのちょっとした奇策だ。使うことがないのが一番なのだからな」
 そう瓢々と言ってのける炎玉は、まるで悪戯でも考えているかのように楽しげな顔つきをしていた。
「それを岳姫には…お教えにはならなかったのでしょうか?」
 もし岳孔昭が護身術を学んでいたのだとしたら、やすやすとさらわれることはなかったのではないか。言外に鋭さを垣間見せるような問いに、紫がかった瞳が微笑んだ。
「それは企業秘密というやつだ」
 教えてあったかも知れないが、それを維行に教える理由はない。これは他家の問題なのだ。そういう意味で、炎玉という人は、確かに信頼のおける人と言えるのかも知れなかった。岳姫が彼女を信頼した理由が、返された答えの中にあるような気がした。

 旅人が風邑に到着したのは、その午後だった。砂埃を被った外衣を邑外で叩いてはきたが、洗濯したとしてもなかなか取れるものではない。外套の頭布を外すと、黒い髪が見えた。昨今これほど見事な黒髪は珍しい。伽黒と呼ばれるほど有名なその黒を、惚れ惚れと眺めるのは、同じ髪の色の律義者を思い出すせいかも知れない。
「菫ちゃん、よく来たな」
 途端に仏頂面になった従姉弟に微笑みながら近づく。つい先頃、同世代の最年少である少年にまで追い越されたが、それでも炎玉よりは僅かに頭の位置が高くなった。可愛らしい顔つきは、少女と見紛うほどである。だが、それは彼にとって劣等感を刺激する以外の何ものでもない。風維王、維行兄妹の面差しも繊細なほうではあるが、陳菫玉は身長が低いせいもあり、より少女らしさが勝った。
「それはやめて下さい」
 厭そうな顔はしても、流石に目上だという意識があるせいか、言葉は崩さない。家格ということを厳密に考えれば、菫玉は陳家で第二姓に当たるので、本来炎玉が丁寧な言葉遣いをしてもおかしくはないのだが、海家内部では暗黙の了解として、五姓は平等とされていた。――他邑に来てまでそのような事を気にすることはないのかも知れないが。「菫ちゃん」という呼び名を嫌う少年としては、それが定着する前に何とかしたかったようだが、既に一部「従兄姉」たちの間には定着しつつあるようだった。
「ま、そう尖がるな。かわいくなくなるぞ」
「可愛くなりたくなんかありません!」
 傍に居た風姫は思わずその漫才のようなやりとりに、目を白黒させる。
「それより」
「ああ、そうだな。私の客室に行くとしよう」
 焦茶色の髪の主があてがわれた部屋は、離れである。母屋では気を遣うだろうという邑主の配慮であった。もっとも、離れとは言っても数部屋あるそれなりにしっかりした建物であるし、下働きの者などが常時うろうろしているので、招待された方はあまり気が休まるというわけにはいかない。
「あ、じゃあ剣の稽古に付き合ってくれませんか。最近ちょっと鈍っていて」
 何気なさそうに茶色の瞳が微笑む。紫がかった瞳が、陽光にきらめいてにやりと笑った。
「容赦せんぞ?」

 二人の稽古を見るともなく見ていた風姫は、兄に炎玉が剣の相手をと言われて「不要」と答えた訳が判った。維行は剣を持ったことが数度ある程度で、大して遣えるわけではない。それでも、その力量の差が歴然としていることは、彼女にも判った。最初、型を使っての稽古を行ったが、実戦さながらの凄まじい速度と剣の風圧に、それが型であることを忘れて見入った。炎玉は渡りの剣士に教えを乞い学んだと言われているが、基礎になる部分は海家直伝の剣である。剣士の流派は伽国全体に三つと言われているが、海家はその中でも独特を持って知られる剣法であった。海家の剣の始祖は初代邑主の親友であるという。その伝承が事実であれば、少なくとも三百年を数える伝統がある筈だった。先程、その剣を「学ぶか?」とまるで悪戯のように訊かれたことが頭に浮かぶ。本来、剣士の技は門外不出が基本だと聞いている。しかし、炎玉の姿を見る限り、それを出し惜しみするようなそぶりは全く見当たらなかった。
「海家からの客人か」
 不意に湧いた声に、思わず振り向く。灰色の髪と紺碧の瞳、そして自分と良く似た面差し――風家の嫡子であり、次期邑主となるであろう彼女の兄風維王であった。
「大哥(兄弟の一番上のお兄様、という程度の意味)」
 ひと呼吸を置いて、少し跳ねた心臓を静めてから、答える。
「ええ、先程。海家第二姓の陳菫玉様と」
「……陳将軍の甥君か!」
 唸るような声に、いやその言葉の内容に驚く。陳将軍といえば、伽国軍でも指折りの勇猛果敢な人物として知られていた。武挙でも文挙でも首席確実と言われた文武両道の人物である。容姿端麗なこともあって、当時の王太子に側近或いは近衛兵にと懇願されたが、華美を嫌ってそれを蹴ったという話まである。それが事実かどうかは不明だが、質実剛健を好む性質は、彼自身を知らぬものの間にも良く知られていた。陳将軍は様々な事情により武挙を選んだが、文官の高官が地団駄踏んで悔しがったという逸話まである。それから三十年近くが経過し、遥かな過去のこととなってはいるが、その若いころの逸話は知らずとも、陳将軍の活躍を知らぬ子供など、伽国には居ない。まさか、この一見美少女としか思えない可愛らしい少年が、そのように著名な将軍の甥に当たるとは思いもしなかったので、目と口とで三つの丸を作ったまま、風姫は「陳将軍の甥」を見つめた。

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