銀宵――海虹外伝――


十五


 少々重たい雲がずっしりと立ちこめていた。のどかなはずの風景ではあるが、気が重くなるのは天候のせいだけではない。計画が狂いを見せたのは、苦労して拉致させた岳姫(孔昭)が、痕跡もなく姿を消したときである。監禁していたその車から、跡形もなく消えうせることなど、深窓の令嬢に出来る筈もない。誰かが横から攫ったか、それとも或いは岳家の意を受けた何者かが、取り戻しに来たのかも知れない。彼は乱れた赤髪に指を突っ込んで苛立ちごとかき混ぜながら、企みを阻止し得る幾つかの候補を頭に浮かべてみるが、後の祭でしかない。
「くそっ!」
 荒んだ光を宿した黒瞳は、血走ったような色合いを含んで、殺伐とした空気をまとっているかのようだった。
「攸除」
 不意に呼びかけられた声に、その表情のまま振り向くと、相手が固まった。怯えたわけではなさそうだから、余程こちらが酷い顔をしていたに違いない。
「ええーと、攸除? ご機嫌斜めだね?」
 髪と瞳は攸除と呼ばれた青年と同じ赤髪黒瞳である。きちんと整えられた身なりは、お坊ちゃん然とした雰囲気やおっとりした口調と相まって、育ちの良さを感じさせるが、それだけのものではない。
「攸寧か」
 ふん、と鼻を鳴らす。同じ一族、同じ世代同士ではあるが、だからと言って誰もが仲良く出来るというものでもない。寧ろ、同世代の一族の者は、競争相手なのだ。
「岳姫の一件、聞いたでしょ?」
 窺うように表情を覗きこむ。微かな変化でも見逃さないその視線の鋭さは、おっとりした雰囲気から少し逸脱したような印象がある。もっとも、この鋭さも互いを知る者を相手にしているからこそ見せるものであって、本来の彼はそのような仕草をおくびにも出さない。食えない奴だと判ってはいるが、自身には為し得ない「隠匿」の技術を持つ彼に対して、いくらかの畏敬の念を持ってはいる。
「ああ、洛家へ輿入れした姫君の件か」
 どこまで嗅ぎつけているか判らないものに、わざわざ尻尾を掴ませることはない。適当に相槌を打つだけに止めたのは、藪蛇を怖れたからだが、恐らく彼の場合は無害な青大将の面を付けた猛毒の大蛇に違いない。知らぬ間に背後にしのび寄っていて、獲物が気づくのは体の自由を奪われて毒牙にかけられる瞬間だ。
「伯父上は終生監禁扱いだってさ。怖いよねぇ」
 しみじみとそう呟いて見せるが、思わせぶりに視線を投げかけてくる。まるで、真の主犯が誰かを知っているよ、とでも言わんばかりに。
「主犯を放置しておくわけにもいくまい」
 白々しいと思いつつも、平静を装って切り抜けなければ、いつどこでこの毒蛇に足を掬われるか判らない。計画が頓挫したことは計算外だったが、無能なばかりでぼやき続けるだけの伯父が鬱陶しくもなっていた。精々「隠れ蓑」としての役割は果たして貰わねば、自身の身が危うい。「本番」はもっと周到に、綿密に計画しなければならない。煮えたぎるばかりだった頭の中が少し冷やせたことについては感謝しつつ、会話を終わらせる為に峡攸除はゆっくりと立ち上がり、庭へと向った。

「ようやく着いた」
 そう呟いて邑の入口に立った人影は、人並み外れて良い体格をしていた。厚手の外套を小脇に抱えているのは、道中暑さに耐え切れなくなったからだろう。埃塗れの外套を軽くばたばたと叩けば、砂埃が立った。表敬訪問というには少々表情が硬いが、それも仕方ないのかも知れない。まっすぐにのびた銀色の髪を軽く束ねて後ろに流す。些か垂れ目気味の蒼瞳がいつになく緊張の色を宿していた。邑の入口で門番らしき人影を見つけると、誰何される前に自分から名乗りを挙げる。
「岳家嫡男、岳孔嘉。友人虞炎玉に会いに来た」
 「友人」と呼ばれた人物が「来客」の到着を快く思うかどうかは別にして、当直の門番の幾人かの間にどよめきが起こったのは、その名の故か、それとも訪問理由の故か。恐らくは両者だろうが、凍りついたようなその場の空気から逃れるように、一人が慌てて駆け出した。来客の訪問を邑主に告げるために。

 風に揺れる長い焦茶色の髪は、ひたすらに真直ぐで、さらさらと音を立てそうだった。それは後頭部の高い位置で一つに束ねられ、滝のように背中に流れている。それが馬の尻尾のように元気よく跳ねるのを風維王はぼーっと見つめている。いや、見惚れている。というのが、正しいかも知れない。目で追うばかりで話しかけることもままならぬ有様だが、それでも権勢欲や金銭欲豊かな女性に一方的に偏った好意を寄せられるばかりだった兄が、自身で女性に興味を持つ日が来たことは、喜ばしいのかも知れない。と風維行は思う。その相手がよりにもよって海一族の末端に連なる女性であろうとも。
「得意な得物は?」
 意中の女性に話しかけるのに、その質問は到底妥当だとは思えないが、相手を考えればそれほど的外れという訳でもないかも知れない。他の女性であればともかく、相手が、虞炎玉という人であることを考えれば。
「刀」
 という回答に、少し驚いたように眉を顰める。刀はあまりここでは見かけない武器だからだ。刀剣といい、その形状は良く似てはいるが、刃を持つものとはいえ、遣い方は大分異なる。刀は片刃、剣は両刃である。しかし焦茶色の髪の主は得手とは言えぬ剣も、十分以上に良く遣っていると思えたので、不得手であるとは予想だにしていなかった。その道具を熟知してそれに合わせた遣い方が出来るようになれば、得物の違いなどさしたる意味を持たないのかも知れない。不得手を自覚して扱いを習熟したのだろうが、それでも得手である刀よりは格段に落ちるということか。従姉弟と称する少年と刀剣を交えた彼女は、久しぶりに刀を遣った、とにやりと笑った。大半は型を使っての稽古ではあったが、その凄まじさは彼らが知るところの「稽古」とは似ても似つかぬ実戦的なものだった。しかし実戦的なものが粗野なだけであるかと思えば、そうでもない。何よりその動きには無駄がなく、動きは流れるようで、まるで剣舞のように芸術的でさえあった。寧ろ、伽国一流の舞踊家でさえも真似の出来ない動きと言えた。
「ところで」
 ふとこちらを紫がかった瞳がじっと見つめ、思わず視線を外す。いや、そこでまっすぐ見なくては駄目ではないのか。と心の中で妹は思ってみるが、心の声援は耳には届かない。
「……何だ」
 声を掛けた側が微かに首を竦めたように見えたのは、維王の気のせいかも知れない。
「そろそろ帰る。挨拶はしなくても良いのだろうが、まあとりあえず世話になった礼くらいはせねばな」
「そ…んな!」
「そんなもこんなもあるか。大体、他邑のものが一月以上も滞在するということが異常なんだ。お前があれこれと引き止めるから顔を潰さぬようにと多少は我慢もしてきたが。これ以上他姓の注目を集めてみろ、どんな騒ぎになるか。だからそうなる前にだな…」
 そう言い掛けて、炎玉は口を噤んだ。彼女が話している相手が、顔を歪めてこちらをじっと見つめていたからである。放心したかのような目尻から、つつーと透明なものが流れていくのに気づいて、ぎょっとしたのは二人だけではない。少し離れた所からこちらを窺うようにしていた妹もまた、驚いた一人だった。
「な…んで!?」
 同時に声を上げたのは三人だったが、本人がその中に含まれていたのは、末期症状と言えるかも知れない。
「炎玉、こんなところで男を泣かせてどうするんだ?」
 からかい若しくは苛立ちの籠もった口調にふと視線を向けると、ここに居てはならぬ筈の人物の姿が見えて、頭を振った。
「いかんな。どうも暑さか何かにやられたのかも知れん。幻覚ならせめてもっと快いものを見たいものだが。じゃ、私は海邑に帰るからな。世話になった、礼を言う」
 言うべきことは言ったとばかりに、ひらひらと風家兄妹に手を振って、そのまま歩き去ろうとする。
「ちょっと待て、俺が折角お前の顔を見に来たっていうのに、帰る気かよ!」
 ものすごく厭なものに気づきつつ、しかし気づきたくないという顔でちらりとそちらに首を向ける。体ごと向き直らないのは、何かを警戒しているからかも知れない。
「……どうも幻覚が酷いらしいな。あー、維行。あそこに、ここに居てはならん岳家の馬鹿息子が見えるんだが。お前にはあの幻覚が見えるか?」
 それはまるで妖怪か悪霊か或いは怪物か、普通の人間には見えないものが見えるかどうかを確認するかのような物言いだった。
「……わたくしもあまり視力は良い方とは言えないのですが。銀髪蒼瞳の大柄の殿方が」
「黒い油虫の親戚の方がまだましなんだが、そうか、お前にも見えるのか。私の目だけがおかしくなっているわけではないようだが、とりあえず私は帰る。じゃ、後は任せた」
 あくまでもさっさと帰ろうとする炎玉の腕を銀髪の青年が掴もうとするが、届く前に叩き払う手があった。
「あ……」
 思わず声を漏らしたのは、手を伸ばした本人自身、意図していなかったのか。思わず伸びていたのかも知れない。
「じゃあ邑主の嫡男同士、仲良くやってくれ」
 まるで見合いでも仕切るように手際よくそう告げると、とっとと退散だとばかりに踵を返して焦茶色の髪が揺れる。その進む先に居るのは、彼女の一族の少年だった。二頭の馬に鞍を置いて手綱を引き、荷物はもうその背に載せている。どうやら、邑主には既に挨拶を終えていて、あとは彼女自身が馬に乗ればいいだけになっているようだ。
「ま、待てよ、炎玉。お前が海邑に戻るなら、俺も…!」
 追いすがる二人の嫡子の髪は、陽光に眩しく煌くが、追いかけられている方が振り向く様子はない。手綱を受け取り、慣れた様子で馬に足を掛ける。その時、あらぬ方から二人の嫡子を止める声がした。
「海家の邑主が理由もなく他姓の嫡子を二人も容れるわけがなかろう」
 眩しそうにこちらを見るのは、洛家の嫡子だった。陳菫玉がそっと呟きを漏らす。
「嫡子、揃い踏み」
「鬱陶しいな。嫡子率が高すぎる」
 全くもってその通り、と思わないでもない者は他にもいたが、わざわざ口に出していう程のことでもない。しかしその呟きを咎める者もない。
「洛瓊華!」
「何でここに!!」
 その質問に答えたのは、追いかけられていた人物だった。仕方ないな、と小声で呟き、簡潔に告げる。
「私を迎えに来たに決まっているだろう」
 七族同士の長い婚礼の宴は、漸く終わっていた。炎玉は海姓に連なるものであったから、洛家の宴に出席することは出来ない。だが、ささやかで良いからせめて感謝の宴をどうしてもと花嫁から懇願されれば、この輿入れの最大の功労者を招かぬ訳にもいかぬ。そして今回は事情が込み入っているだけに、使者兼案内人として洛瓊華がやってきたのだった。まるで鳶に油揚だ。と風維行は思うが、あっけにとられたように見送るばかりの二人を見ては、気の毒にしか思えない。尤も、両者とも炎玉を引き止めるようなものを何も持ってはいないのだ。
「帰るついでに、洛邑に寄るつもりではあったのだがな。迎えが来たのだから丁度良い」
 躊躇いもなく進む炎玉を引き止めるもの。それを持つのは、あの海家直系の青年だけなのだろう。姿を見かける度に、焦茶色の髪をなびかせて懐の中に飛び込んで行こうとする娘は、明らかに全幅の信頼を彼に寄せているように見えた。彼女の兄維王がかの青年と同等か、それ以上の信頼を紫瞳の主に寄せられる日が来るとしたら、とてつもなく遠い未来のように思える。それが現実のものとなれば、或いは兄の願いも叶うのかも知れないが、その日が来ることは、極めて難しいような気がしていた。
 気づくと、馬上で馬の尻尾のように揺れる焦茶の髪が次第に遠ざかっているのが見えた。
「炎玉姐! ありがとう!」
 振り向きもせずただ軽く振った手は、気にするな。と言っているように、彼女には思えた。

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