白虹



 暗闇の中、無言で碧玉は右足を蹴り上げた。それは正確に襲撃者の咽喉元を直撃している。
「ぐっ…!!」
 押し殺し切れない悲鳴が漏れた。その手から細身の短剣がこぼれ、勢いを失って碧玉の手の中に落ちていった。
 左手に確保した短剣を持ち、ごほごほと咳き込む背中を左足で抑えつける。襲撃者を涼しげな瞳で観察しつつ灯をつけると、這い蹲るようにそこに居たのは、令狐家の家宰顔士犀と名乗った男だった。
「士誠殿、深夜の訪問はうら若き美女に限らせて頂いている。髯面の中年男はご遠慮願いたい」
 士誠と呼ばれた男は、憤怒の目で碧玉を睨んでいる。
「あくまでも試合は試合。その借りを返すのもまたその場でなくてはなりますまい。貴殿ともあろう者が深夜に闇討ちなどとは如何なものか?」
「昼間では闇討ちとは呼べぬ故」
「なるほど」
 一旦納得しかけて、問題が違うことに気付いた時、二度目の攻撃が碧玉の右膝を襲った。咄嗟に左足を深く沈め、寝台に向かってトンボを切る。その柔らかさに碧玉がバランスを崩しそうになったところへ三度目の攻撃が襲い掛かった。碧玉の利き目に向かって投げられたそれは、大人の小指に満たぬ程の長さで、橄欖(オリーブ)の葉の形を模った鉄橄欖(てつかんらん)―――暗器(暗殺用の小道具)である。
 ばちん。
 当たったと士誠は思ったが、それは彼の幻想に過ぎなかったようだ。横合いから鉄扇を飛ばして鉄橄欖を叩き落した者が居る。同時に士誠は首の後ろに衝撃を感じて意識が遠のくのを感じていた。
「……」
 気を失って倒れていく刺客が、女性の名前らしきものを呟いたように翠玉には思えたが、口に出して言ったのは別のことだった。
「武挙の第二席ですね?」
「ああ」
 それは気の毒な、という言葉は飲み込んだ。

 真夜中の襲撃のあと。碧玉は士誠と対峙していた。翠玉を隣室に引き上げさせたのは、士誠の心中を配慮したからである。
「武挙で勝利すれば婿に迎える、と?」
 士誠は観念したと見え、意識を取り戻してからは大人しくなった。手足を縛られているせいもあろう。
「私はずっとご令嬢に…。年甲斐もないと思われましょうが、懸想しておりました」
 令狐仲は士誠を好ましく思っていなかったようである。ある程度の年齢差は仕方ないにしても、無位無官の者に可愛い娘はやれぬということかも知れない。そこで士誠に武挙で勝利すれば娘を与えると持ち掛けたのであった。程々にしか武芸を嗜んでいなかった士誠だが、必死に励み、準決勝まで辿り着けたのは天佑によるものとしか言いようがない。しかし当然ながら決勝で碧玉に敗れると、令狐仲は彼を嘲笑い、勝利とは第一席のことだと言って放逐した。そして優勝者の碧玉が前日とある娘を救ったという情報を得て、その娘をさも自分の娘であるかのように装ったのである。
「家宰の顔士犀は私の竹馬の友で…、令狐殿の命令を受けると、私と替わってくれたのです。碧玉殿が諦めてくれれば良し、さもなくば…と思っておりました。が」
「俺を目の前にして悔しさが爆発した、と言いたいところでありましょうが。武人にあるまじき行為と結構な武器ですな」
 唇を噛んで項垂れた様子は、まるで子供のようだった。
「いつ、お気づきになられましたか。私にはまるで無防備にしか見えなかった」
 罠は仕掛けるものである。隙を作っておけば掛り易いものだが、そこまで説明することもない。
「顔士犀殿と名乗られて、この部屋に嘆願に来られた、あの時。武挙の時には正直注意して見ていなかったが、その体の動きと体格とをどこかで見たような気がした。はっきりと気づいたのはこの部屋を去る時だったか。士誠殿は指を堅く握り締めておられたが、その指が震えていた。その指の色と形、それから動きを、どこかで見たと確信したのです。俺は人を顔の造作ではなく、体格や動きで憶える方でしてね。後は記憶を掘り起こすだけでした……が」
 一呼吸置いて、言葉を続ける。
「しかし。令狐殿のご令嬢へのなさりようは、如何なものか? 幾らなんでも妾でもとは」
 士誠は苦しげに息をついた。
「令狐殿には令狐殿の、それなりの思惑があるのでしょう」
 その言葉に影を感じとった碧玉は、首をひねる。
「……もしや、士誠殿。お二人は既に何かお約束でも交わしておいでなのでは?」
 それなら、士誠と別れさせたい父親が碧玉と結びつけようとするのも不思議ではない。何より碧玉は士誠に勝った男である。士誠に諦めるように仕向けるには最適の相手と言えた。武挙の勝者をと士誠に告げた手前もある。士誠は顔を赤らめて否定しようとしたが、巧くいかないようだ。
「は、いや……」
「正直にお答え頂きたい。そうなれば、こちらもやりようがあるというもの」
 碧玉の言葉に、希望が射したような瞳でじっと見つめ返す。
「我が一族直系男子は一族の別姓からその正妻を迎え、生涯その女を愛する。我が一族には二番目以降の妻も側妾も存在せぬ。初代よりずっと」
 一夫多妻が普通のご時世において、これは驚異的なことと言えた。
「……!!」
 驚愕のあまり一瞬言葉を失いかけた士誠だったが、ごくりと唾を飲み込み、慌てて継ぐ。
「しかし、ご長老が……」
「我らの目を節穴とお思いなのかも知れぬが。あれはこの件は己で処理せよとの意味。どうお断りするか、言葉を選べと。よもや目の前にその家の家宰という人がいてはあからさまにも言えぬ故。俺が一族以外の娘を娶らぬことは、この邑の者なら誰でも知っている」
「……」
「お疑いも判らぬでもないが、我ら一族は団結が強く、深い。余所からの介入を嫌うのだ。令狐殿のお申し出は、我らにとっては単なる押し付け以外の何者でもない」
 澄んだ黒い瞳に、たじろぐように目を伏せた士誠は、意を決したように顔を上げる。
「知らぬこととはいえ。そしてまた卑怯極まりない闇討ちに寛大なご処置を賜り。まことに申し訳なく存ずる」
 絞り出すように、それでもしっかりと言い、士誠は深く頭を下げた。
「では、士誠殿。貴殿の方について、話をとりまとめよう」
「は……?」
 先程までの真剣な瞳とは打ってかわって、悪戯好きの子供のような、無邪気な笑顔を向けられて、士誠は戸惑った。
「俺は一族以外の娘を妻に迎えられぬ故、信頼の置ける友人を令嬢の婿として令狐殿に推薦する」
「はあ」
「それは、先日の武挙で第二席になった男だ」
「えっ……」
 小さな目を見開いて、士誠は絶句した。


 


 碧玉の配慮に、感激の涙を雨のように降らせていた士誠がようやく去り、厄介な結婚話が一つ減って半月後。碧玉は久しぶりに、お気に入りの木の下へ昼寝に行った。空の青さは変わらないようであるが、湖を渡る風は少し冷たくなったようである。人の気配にふと目覚めると、体に毛布が掛けられ、両隣にあどけない寝顔が合計四つ、並んでいるのが目に入った。左の方に視線を動かすと、足を斜めに折って座っているのは白玉である。いつものように静かに、縫い物をしていた。ふと、碧玉の視線を感じたように白玉がこちらを振り向く。
「大哥」
 明るく微笑んで、隣に置いた籠からお菓子を取り出した。少し冷めてはいるが、お茶もある。
「……夢を見ていた。お前と、一緒になる夢を。叶わぬ夢だが、暫くの間憶えていてもいいか?」
 答えはなかった。それを必要としていないことを知っていたからだろう。白玉の手からお菓子とお茶とを受取りながら、碧玉は言葉を重ねた。
「お前でないなら誰でも同じだ。抱くことは出来るだろう、俺も男だからな。だが、誰でも良いと言われて喜ぶ女は居ない。俺だってそんな女は厭だ。……俺はこんなにも罪業深い。死後は間違いなく地獄行きだろう。俺を闇討ちしようとした士誠さえ及ばぬ、卑怯で臆病な上に弱くて身勝手な男だ。だが。虫の良いことだと判っているが。……お前を心に置いたまま共に生きることが許されるなら、俺は紫玉と生きてみたい」
 静かに、そして眩しげに。白玉は微笑んだ。

 秋の祭礼が始まった。
 巫女舞の前に翠玉の剣舞―――模範演技が披露される。演者は海翠玉、相手方は鮑黒玉と藺水玉である。武器は翠玉が棍、黒玉が方天戟、水玉は錘を遣う。今日に至るまでに数回の稽古を重ねているが、藺天化が審判としてつくことを考えれば、事実上の試合と言えた。武器を三回奪われるか、気絶するか、舞台に足裏以外の体の部分がつくと退場となり、残った者が勝者となる。今回相手方が二人であるので、黒玉か水玉のどちらかが残れば、そちらの勝ちとなる。
 翠玉は白木の棍を握っていた。黒玉はその瞳の色と同じ、蒼い柄を持つ方天戟を掴んでいる。水玉の錘は金と琥珀色の錘で要所に空色と透明の石が象眼されている。水玉の柔らかな金髪と瞳に映えて眩しいばかりであるが、彼女に相応しい選択であると言えた。
 武器を携えた三人が胡服をまとって舞台に現れた。中央に翡翠色の翠玉、右に空色の水玉、左に黒色をまとった黒玉。左右の二人は心持ち前に出、翠玉の方を向いた。
 三人が同時に礼をし、間合いを詰めた。黒玉と水玉はそれぞれ体に緊張を漲らせ、得物を構える。対する翠玉は目を閉じ、まるで無防備に肩を落として静止している。
 最初の一歩を踏み出したのは黒玉である。方天戟をまっすぐに翠玉に向け、突進するさまは彼女らしいと言える。一歩遅れて水玉もまた進んだ。黒玉と異なるところは、錘を横様に持って翠玉に向かったことである。あと三歩程のところまで二人が近づくと、翠玉は目を閉じたまま黒玉の方天戟を棍の片端で絡めとり、もう片端で水玉の錘を突いた。絡め取った黒玉の方天戟を頭上で一回転させると、持主に戻し、こっそりと呟く。
「碧玉大哥に対する意地悪の、仕返しです」
 鮮やかな手並みに観衆から嘆声が漏れた。
 一瞬唖然とした黒玉を庇うように水玉が出、錘を斜めに振りかざす。彼女が錘を選んだのは、黒玉のように絡め取られることを怖れてのことだった。
「はっ!」
 鋭い気合の声とともに突き出される錘を、余裕を以って右に左にと躱す。後退しながら軽くトンボを切って避けると、気を取り直した黒玉の方天戟が着地地点を狙って飛び込んで来る。
 翠玉がやや鋭角にその方天戟を軽く蹴ると、黒玉は反動で尻餅をついた。
「鮑黒玉、退場!!」
 審判藺天化の大音声が響く。黒玉はただの二手で退場を余儀なくされた。翠玉を相手に戦うには、彼女の攻めは単純過ぎたようである。舞台を悔しげに下りていく黒玉が、一瞬だけ水玉を顧みて口の端を微かに上げた。それを見かけた翠玉は、二人が何かを計画していたことに気づいた。何か企みがある以上、彼は剣舞を長引かせたくなかった。翠玉はつつつ、と流れるような動作で間合いを詰め、金髪の少女の錘を思い切り叩いた。
 下へ、だったら当然水玉も用心していたろう。しかし彼が叩いたのは、下から上へであった。
「あっ……」
 予想もしていなかった方向への攻撃に水玉は戸惑い、武器を取り落とした。水玉に怪我をさせたくない翠玉は、手早く片づけてしまおうと思っていた。
 一旦取り落とした武器を手に戻した水玉は、捻るように錘を繰り出した。それを身を捩じらせて避ける翠玉は、彼女の白く小さな手を見つめ、力を出す瞬間をはかる。
 錘を翠玉の膝目掛けて繰り出すのを見澄まし、それを軽く蹴飛ばす。そのままであれば恐らく膝にぶつかる直前に向きを変え、柄の部分で翠玉の顎を狙っていただろう。水玉がバランスを崩した瞬間に錘を再度落とすつもりだったが、目の前で金髪の少女が倒れそうになっていることに気づき、左手でその体を受け止めた。
 錘の落ちる音とともに、少女は翠玉の腕の中に落ちた。
「……!!」
 動転した少女は翠玉を突き飛ばしそうになった。その気配に気づいた少年は、わざと腕の力を緩める。瞬間、水玉の膝が舞台に触れていた。
「藺水玉、退場。勝者、海翠玉!!」
 審判である天化の声が響き渡り、観衆がどよめいた。
 翠玉は、棍を置き、腕の中の少女を立たせた。息を弾ませ、背伸びしても彼の肩にも満たぬ華奢な体を、彼は不思議なものをみるように見つめていたが、ふと思い出したように三歩程離れ、礼をした。慌てて水玉も礼を返す。
「翠玉二哥…、ありがとう」
 彼が怪我をさせずに終らせようと尽力していたことは、当然気付いていた。頬を染めてそれだけ言うと、身を翻して走り去って行く。燕のようだ、と彼は思った。その細い腰を支えた感触が、暫くの間腕に残っていた。

 神楽を奏でる族人の中に碧玉の姿もあった。昼日中の舞台は太陽が眩しいが、風が心地よい。舞台中央に白玉が降り立つと、白い光が天上から降り注ぐようだった。秋の祭礼の衣装は五穀豊穣を祝う、薄い茶色と濃い茶色を組み合わせたものである。
 明るい空の下で見る舞は、神聖でいながらも親しみを感じさせる喜びの祭であった。
 碧玉の笛が空高く力強く響き、白玉がそれに合わせてゆたかに舞う。呼吸のぴたりと合った舞楽に酔う観衆を、一汗かいたばかりの翠玉は、戻ってきて青玉と並んで見ていた。
「碧玉大哥と白玉大姐の舞はいつもながら格別だな。ところで紅玉は?」
「今回はまだ未熟故ご辞退申し上げたと。勝気ですから」
「違いない」
 二人は明るく笑った。今回紅玉はいわば裏方で、碧玉のような独奏ではない楽器を担当することになっている。
 一旦静かになった舞台の沈黙を破ったのは涼しげでしっかりした揚琴の音だった。そちらを振り向いてみると、二本の棒を滑らかに操って軽やかに揚琴を叩いている紫玉の姿が見えた。そこに碧玉の力強く低く響く笛が乗り、たおやかな白玉の舞が乗る。紫玉と碧玉の視線が一瞬絡む。何者もそこに乱入し得ない、濃密な交流の名残があった。演奏が終る直前、碧玉の目が軽く細められ、揚琴に向けて微かに笑んだように見えた。
 碧玉の出番は、そこで終った。
「大哥」
 舞台から降りてきた碧玉を出迎えたのは、例によって弟達である。汗を拭うための布を差し出したのは黄玉だが、準備をしておいたのは白玉だろう。紅玉は熱い茶を差し出す。
「おつかれさまでした」
「全くだ。もう二度とやらんぞ」
「や! 大哥のお笛大好きっ!!」
 碧玉の手の笛を奪い取ろうとする小さな手が必死に伸びる。
「お前もいつか笛をやってみるか?」
「ううん。大哥と一緒にやりたいから、違うのがいい」
「……お役御免という訳にはいかんか」
 笑みを含んで空を仰ぐ。舞台では、既に新たな神楽の演奏が始まっていた。
「もう、昼寝は出来んな」
 残念そうだった。

 秋の祭礼が終ると、森の木の実を中心にした保存食作りである。もっとも、年間通してあまり気温の変化が少ない海邑は、一年じゅう食糧に不足したことはないが、これは海の邑を作った、はるか遠い先祖が持ち込んだ習慣だったようである。卵の塩漬けに果実酒。果物や野菜を乾燥させたものを作ったりもする。一月ほどじっくりと漬け込んだ野菜を、焼菓子に入れるのは白玉の考案だったが、子供達には人気だった。野菜嫌いの子供がこれだと良く食べることに気付いた親にも人気になったのは勿論である。
 邑から少し離れた森へ、碧玉が弟達を伴って出掛けようとしたが、前日の疲れが残っていたせいか目覚めると既に昼近くなっていた。気を利かせて、誰も碧玉を起こさなかったらしい。
「……」
 寝ぼけた頭を抱えて居間へ行くと、紫玉が昼食の用意をしているところだった。
「大哥、お目覚めですか。朝食を温めますので少しお待ちを」
 明るく凛とした声でそう告げると、てきぱきと働く。
「はい、お召し上がり下さい」
 待つほどもなく出された膳を見て、微笑んだ。碧玉の好物が揃えてあったからである。ちら、と紫玉を見遣ると表情も視線もそのまま、右手の人差し指をこっそりと唇に当てた。
 弟達が帰って来る前に、そそくさと食事を終える。
「紫玉。大晦日の祭礼なんだが…」
 そう言ってほんの少し、言い淀んだ。

 白玉が弟妹達を連れて森から戻って来た時、居間には紫玉だけだった。弟妹達に手を洗わせうがいをさせて、紫玉が用意してくれていた昼食を食べる。
「紫玉大姐、何かお顔が赤くない?」
 目聡い妹黛玉の指摘にどきりとしながら、紫玉は微笑んだ。
「白玉大姐は色白だから、隣に行くと顔が赤く見えるのよ」
「そうかしら?」
 疑いを向ける妹の目を何とか切り抜ける。
「たくさんとれた?」
「とっても、たくさん!!」
 無邪気に応えたのは、黄玉だった。
「ねえ、白玉大姐。またお菓子たくさん作って下さる?」
「ええ、勿論。黄玉もお手伝いしてくれる?」
「うん、お手伝い、するー!!」
 小さな子供の「お手伝い」が手伝いにならないことは、無論言うまでもない。

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