白虹



 その年の大晦日。
 舞台は深い夕闇に包まれて、空は深い紫色から濃紺へと衣替えを終えようとしていた。空には参星(オリオン座)と昴宿(すばる)が見え、天狼星(おおいぬ座のシリウス)が今まさに昇ろうとしている。次第に深くなる闇の中で、舞台だけが暖かな篝火に照らされていた。常春の名も高い海邑とて、夜ともなれば急激に気温は下がる。吐く息はまだ白くなってはいないが、巫女達の衣は寒さに適しているとは言いかねた。
 闇の中からほのぼのとした温かい光が生まれた。銀細工の冠と簪を付けた頭を心持ち下に向け、目を伏せて現れたのは紅玉だった。白い巫女見習の衣は麻である。白玉の下で修業を始めて数ヶ月。今年の暮れから舞に参加するようにと長老の指示を受けたのは僅か一ヶ月前だった。
 凛然とした面持ちは微かに化粧をしているようだった。唇に薄く重ねた紅は血のように赤く、幼い横顔には表情が全くない。人外のもののようにさえ見える神秘をいつ身につけたか、近寄り難い空気をまとっている。
 しゃん。しゃん。しゃん。
 紅玉の衣の袖に縫い付けられた鈴が、規則的な音を立てている。静けさの中に風を起こすような深く重い空気の中で、紅玉だけが全てのものから自由であるかのように見えた。
 空気が揺れる。
 両手の中指に結びつけられた帯は紅玉の身の丈よりも長い。左足を一旦蹴り上げ、足を替えて今度は思い切り体を反る。鈴の音は一度も乱れぬまま、紅玉の舞にリズムを刻み続ける。右足をゆったりと押し出し、体重のない者のように軽やかに翔ぶ姿は、仙界の舞姫のようだった。
 風が起る。
 そこへ音もなく現れたのは白玉である。衣裳の形は紅玉とほぼ同じだが、こちらは白絹である。黒髪に挿した簪は月の光を集めたような透明感を持った白色で、軽い鈴のような、控えめで柔らかい音をたてている。
 神楽が始まった。ほっそりした二の腕が楽に合わせて動き、薄い白絹の帯は、巫女の動きに合わせて悩ましげに揺れ、彼女が飛び回転する度に熱い溜息と歓声とが人々の唇から漏れる。白玉は海一族歴代の巫女でも指折りの舞手であろう。軽やかな動きは、幽玄でいて不思議な程の存在感があった。触れたら消えてしまいそうな淡い朧月夜を眺めるのに、少し似ていた。
 しゃらん。しゃらん。
 一度脇に退いた紅玉が小さな鈴を鳴らして白玉の舞を飾る。その鈴の音に引かれるように白玉の形のいい紅唇から妙なる歌声が響く。去る年を惜しみ来る年を言祝ぐ、新年の為の歌である。強く、弱く。高く、低く。鈴のような美声がその場を包み込む。天上の楽のように。

 巫女舞を見守る一群の最後尾。紫玉は碧玉の隣で一緒にそれを見ていた。
「大哥。勿体無いと?」
 からかうような紫玉の声音に、碧玉は些か憮然とする。
「おうよ。佳い女だからな。……お前の次に」
 驚いたように振り返った紫玉に、微笑みかける。
「待たせて、悪かった」
「大哥…」
 言葉を失った紫玉の瞳に映った碧玉は、まっすぐ彼女を見つめていた。
「こんなだらしのない男だが、一緒に生きてくれるか? 卑怯で臆病で弱虫、更にはそれを隠そうともしない厚顔無恥な男だ。お前が愛想を尽かしても仕方ないと思っている。おまけに、他の女に長いこと懸想していて、その過去を忘れることも隠すことも出来そうにない。それでも。お前が許してくれるなら、共に生きていきたい。……虫のいい男だな、俺は」
 微笑もうとしてうまく果たせず、それでも碧玉を見つめる瞳は、静かな炎を秘めていた。
「卑怯でも、臆病でも。大哥が大哥である限り、私が私である限り。お連れ下さい。……その過去も傷も過ちも、強さも弱さも。何もかも全てが今の大哥を作り上げました。言わば御身の一部です。それを愛しく思いこそすれ、憎むことなど出来よう筈がありませぬ。それらに敵うと信じる程、私は思い上がってもおりませぬ。……私は夢の中ではなく、現実を共に歩く女として、あなたのお傍に居たいのです。それを、お許し下さいますか?」
 目を逸らし、深く吐息をつく。
「過ぎた女だ、俺にお前は」
 それから紫玉の方をちらり、と見て穏やかに微笑んだ。その碧玉の顔が少しずつ近づいてきた。神楽も歓声も、もう紫玉には聞こえなかった。
 舞台から少し離れたところで、新年を祝う花火が上がり、子供達の歓声が響いていた。
 新しい年は、多事多端になりそうだった。

 碧玉と紫玉との婚礼は、春に執り行われることになった。年明けて二十歳、成人と同時に挙式である。その後に武官として赴任することが決まっていた。紫玉の妹黛玉は決定当初、少し拗ねて暫くの間碧玉に近寄らずにいたが、白玉に何事か耳打ちされて以来、碧玉に対して少しずつ甘えるようになった。紫玉と同じ焦茶色の髪と碧みがかった瞳の少女は、次第に碧玉がお気に入りになったようである。挙式前かつ任官前で何かと忙しい碧玉はいつも構ってやれないので、年の近い青玉が遊び相手をつとめる。鮑黒玉は二人の婚礼を我が事のように喜び、藺水玉とともに衣装作りに勤しんでいた。赤と金の派手な頭が並んで何かをやっている姿は、悪戯を企んでいるようにも見えた。白玉と巫女見習の紅玉は、婚礼に伴う儀式の為の準備に奔走する毎日だった。
 そんな慌しい日々の中、久しぶりに海姓兄弟が全員集合した。
「大哥、お嫁さん決まって良かったねぇ」
「本当に。大哥のところに来てくれるなんて、紫玉大姐は良い人だね」
 言いたい放題言っているのは、黄玉と翠玉である。青玉は笑い転げていた。
「おまえらな…」
 碧玉は苦りきってそっぽを向いた。
「あら、碧玉大哥って人気があるのよ」
 そう言ったのは紅玉である。
「へえ?」
「浮気も隠し事もしなさそうだし、何だかんだ言っても優しいもの。紫玉大姐はスゴイねってみんな言ってるわ」
「……それって俺が単細胞で扱い易いのを、上手く紫玉が釣り上げたって意味か?」
「そうとも言うかも知れないわね」
 引き取って言葉を継いだのは白玉だった。お代わりのお茶を注ぐ和やかな微笑みは普段通りである。
「さて、お菓子が焼けたわ。紫玉大姐を呼びに行ってくれる?」
 少年二人が椅子から立ち上がると、最年少の黄玉も椅子から飛び降りた。三人を見送りつつ、言葉を繋ぐ。
「でも、多分紅玉にみんなが言ったのは、違う意味でしょう」
「?」
「碧玉大哥ほどの頑固者を篭絡出来る人というのは、なかなかいないってことよ」
 そう微笑んで片目を閉じて見せた。碧玉は少し照れて頭を掻き、紅玉は瞳を輝かせて手を叩く。
「素敵ね!!」
 やがて紫玉が黄玉達に手を引かれてやってくるのが見え、白玉達三人は笑顔で迎えた。



 白は人を送る色。そして赤は喜びの色である。
 婚礼の夜は朧月夜で、花の香があたり一面に満ちていた。篝火に煌々と照らされた真新しい花嫁衣装は、赤である。
 鮑黒玉と藺水玉とが薄い綾絹を丹念に縫い上げた婚礼衣装は、紫玉の焦茶色の髪と温かみのある肌の色に良く映えて、碧玉は微かに目を細めた。結い上げた髪には、紫玉の名と瞳に似合う、紫水晶の簪。しゃらしゃらと柔らかく澄んだ音を立てて紫玉の歩みにリズムを与えている。上気した頬はほんのりと鮮やかな色を秘めて、引き結んだ薄い唇の赤を誘っているかに見えた。
 体の線を強調した服に紫玉は羞恥の念を憶えたが、黒玉と水玉は譲らなかった。紫玉が困ったことは、唯一の味方と思っていた黛玉さえその衣装に賛成したことである。それは長身の紫玉の、細く引き締まった体の線をこの上もなく優美に見せていたが、紫玉は少し気後れしていた。
 ふと、衣装についた不思議な紐に気付いて黒玉に声を掛ける。
「黒玉…。こんなところに紐がついているのだけど…」
「ああ、それは飾り紐よ。そうそう、大哥に衣装は私達からの贈り物ですとお伝えしてね」
「こんなところに? なんか変じゃなくって?」
「そんなことないわよ。とてもいい感じだわ」
 自分の頭がうまく動いていないせいかも知れない、と紫玉はそれ以上考えるのを止めた。
「紫玉大姐、なんて素敵……」
 夢見るような表情でうっとりと見上げているのは、紫玉の妹・黛玉だった。声に出してはいないが、紅玉も少し遠くからじっと見つめている。
 緊張して頭が真っ白になっている紫玉が我に返ったのは、碧玉が隣に来た時である。
「………」
 他の誰にも聴き取れぬよう、小さな声で囁く碧玉の瞳は、少年のようにあどけない光をもって煌いていた。その瞬間、紫玉の目から水晶のような一筋の涙がはらはらと零れた。
「大姐?! どこか痛いの?」
 黛玉が慌てて問い掛けると、染み入るような笑顔になって、首を横に振ってみせた。
 気丈をもって知られた紫玉が人前で涙を見せたのは、その生涯において唯一度。それが最初で最後である。その涙を黛玉は深い感動とともに見つめていた。その涙の意味を小さな妹が正確に理解するのは、それから数年後のことである。
 婚礼の前途を祝すように、夜空に白い虹がかかっていた。
「白い、虹……」
 碧玉はその虹を見て、白玉の方へ向かってニヤリと笑いかけた。そして花嫁の手を取り、祭壇へ向かって歩き出した。一族は既に揃っている。
 婚礼の儀式は滞りなく、終った。

 その夜、婚儀の後ろに横たわる酒樽を幾つも蹴倒して、碧玉は紫玉のもとへ帰ってきた。果敢に碧玉に挑んだ愚か者は十数人を越えていただろう。自分が一杯飲む間に碧玉には三杯ずつ注いでいた者もいる。それを全て正面撃破しつつも、碧玉の足取りは軽く、確かだった。
 新婚らしく飾りつけられた寝台の上に、紫玉は所在なげに座っていたが、碧玉の姿に気づくと、緊張しつつも艶やかな笑顔で出迎えた。多分先程までこちらには花嫁の友人達がいたのだろう。華やかな香が満ちていた。
「碧玉大哥……」
「もう、俺は大哥じゃない」
 腕を組んで壁に寄り掛り、新妻を見つめる碧玉を前に。一瞬言い淀み、消え入りそうな声が薄い口唇から吐息のように零れた。
「…主(主人を呼ぶ言葉。ここではあなた、くらいの意味)」
「そうだ。お前の夫だ。生涯かけて、お前を愛する男だ」
「はい……」
 屈んで、潤んだ目を伏せている妻の目蓋に優しく口付ける。
「怖いか?」
「…はい、少し」
「正直だ。同感だな。…俺とて怖い。共に怖がるとしよう」
 瞬間、軽く目を見張った紫玉の頬に不意打ちの口付けを与え、その耳朶に囁きかける。
 碧玉は初めて触れた。幻ではなく、生身で己に向かってくる女を。結い上げた髪から簪と歩揺(耳飾り)を取り、首につけた飾りを静かに外す。焦茶色の髪を解き放つと、結い上げていたせいで軽く波を描くそれはたゆたうように散った。
 その時、碧玉は衣装の細い紐に気づいた。「黒玉大姐がね、紐を見たら引っ張ってみてねって大哥に伝えてって」と黄玉が言っていたことを思い出す。
「紫玉、紐が……」
「はい?」
 碧玉が軽く紐を引いた。その瞬間、婚礼衣装が破れたと紫玉は錯覚した。碧玉は息を呑む。一瞬にして一糸まとわぬ身となった紫玉はうろたえて視線を外し、慌てて細い腕で体を隠そうとする。
 その腕を紫玉に不安を抱かせぬように掴み、手のひらに口付ける。
「……衣装を作っていたのは黒玉と水玉だったな。なるほど、黒玉の仕業か。些か悪戯が過ぎるが、いいものを見せて貰ったことだし、今宵は俺達の祝いということで許してやろうよ。それとも俺が花嫁の衣装も上手く脱がせられない甲斐性なしだと思って、労ってくれたか?」
 碧玉はニヤリと笑い、気にする風もなかったが、紫玉は羞恥のあまり動けなくなっていた。
 細腰のあたりに蟠るように落ちた赤い衣はそのままに、碧玉はまるで体の芯に火が点ったかのように鮮やかな朱を浮かべた肌に見入る。内から滲み出てくるような赤さだ…と、寝台との間に手を差し入れて静かに抱き上げ、そっと寝台に横たえる。
「あ……」
 力を失った細い足の先から、赤い衣装が秘めやかな衣擦れの音を立てて寝台から床に滑り落ちた。碧玉が頬に手を添えて顔を覗き込むと、羞恥の海に漂ったままに紫玉は、その手に自分の両手を重ね、少し緊張した様子を見せながら豊かに微笑む。
 初めて唇を合わせた瞬間、そこに些かの違和感もない事に、碧玉は驚異の念を憶えていた。軽く啄むような口付けが次第に深くなると、紫玉の呼吸も少しずつあらくなり、熱い吐息が漏れた。
 滑らかなその腕がいつのまにか碧玉の力強い肩に掛かる。哀願するような切ない眼差しが碧玉の心を捉えた。密やかな感動を憶えながら、紫玉の唇を割り、舌を差し入れ絡ませる。
「ん……」
 夢の中にいるような紫玉の表情を確認しつつ、更に深く更に静かにその肌に与えられる柔らかな愛撫は、武骨な指からは到底信じられぬ程の優しさがあった。少し冷えた白く粟立つ肌に、そっと指を這わせ口付ける。その耳に、項に。肩に、胸に新しい朱を散らせると、しなやかな腰に逞しい腕が触れた。怖がらせぬよう注意して、する、と膝を割ると。新妻は、ぎこちないながらも穏やかに彼を迎えいれた。
 紫玉はこの夜、海碧玉の妻となった。

 赴任先は、海邑から馬で二十日あまりの郷に決まっていた。家財一式とはいうものの、ものをあまり持たない碧玉にはそもそも持参すべきものは殆どない。紫玉がまとめた荷物は多くは自分のものだったが、それとて多い方とは到底言えなかった。
 旅立ちの朝、まだ暗いうちに碧玉は寝台に新妻を残して神殿へ向かった。微かな寝息を立てる妻の、寝乱れ髪をそっと撫でて口付ける。
 神殿には、白玉が紅玉と共に居た。訪問を予期していたかのようにこちらを見つめ、艶やかに微笑んでいる。
「道中のご無事を、お祈りしております。三年の後、お目にかかりましょう」
「三年……か。何が起こる?」
「それはお答え致しかねます」
 軽く溜息をついて諦めたように微笑んだ碧玉を、深い愛情を込めた眼差しで見つめる白玉に、旭日の最初の一閃がかかる。
「判った。…ありがとう」
 踵を返す碧玉の後姿に、深々と頭を下げた白玉の瞳は、微かに潤んでいるようだった。
「大姐?」
「さあ、大哥と紫玉大姐が道中ご無事なよう、お祈りしましょう」
「……? はい」
 不審を憶えつつも紅玉は白玉に従った。ふと振り返ると、朝日の中館に戻って行く碧玉の影が長く伸びているのが見えた。

 その朝、碧玉は新妻・紫玉を伴って任地に赴いた。

前へ