第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 黄土色の壁は少年を威圧するように聳えている。父親に連れられて初めて来たこの王宮は、同心円状をしていた。
「お父さん、山みたいだね」
 そう言う少年にややぎこちない微笑みを向けた父の脳裏には、これから少年が会うであろう貴人の顔が浮かんでいた。しかしこの子は何も悪くないのだ。そう自分に言い聞かせて彼は王宮の門をくぐった。
 初めて見る王宮の中を、キョロキョロ見回すのは田舎者と言っているようなものだ。という父親の戒めに、彼は好奇心を極力抑えて静かに歩いた。自分自身の正当性については自信があったけれども、お父さんまで呼びだされるなんて。と彼は腑に落ちぬものを憶えていたが、そのお陰で滅多に来れない王宮の中を見れるのである。王子様に会えれば彼の正しさはすぐ判って貰える筈だ。ひとまずは王宮を楽しく見物しよう。と彼は父親に見咎められぬよう、眼球だけを忙しなく動かしていた。
 謁見の間と呼ばれるその部屋で、暫く待つように。と王子の侍従が父親に告げると、父は少年を庇うように片膝をついた。父の真似をして少年もまた、同じ体勢を取る。程なくして、先触れに導かれた王子アステュアゲスが現れた。
「此度は召し出してすまなかった。恐らくはあやつの息子の言いがかりだろうがな。一応、話を聞かせよ」
 ゆったりと鷹揚に構えた王子の物言いに、父親は恐縮しつつ、口を開いた。
「倅の話によりますと、『王様ごっこ』という遊びをしていたところ、かの少年が決められた仕事を放って昼寝をしていたので、全員で罰を与えたということでございます。確かに一対多数では抵抗出来ませぬでしょうが。捕えることは全員で行いましたが罰の方は処罰役人の子供にこれが命じて藁の束で二十回程打たせたということです。仕事をこなしたら褒美として与える筈だった菓子を与えなかったということであちらのお子様は怒っておいでかも知れませぬが。愚妻がこれのために作った菓子であれば、倅もさぼっていた者にそれを与える気になれなかったものと存じます」
 王子は少年に視線で促した。一瞬父親の方を見、躊躇いながらも口を開く。
「お父さん、いえ父の言う通りです。僕を王様に選んだのは皆です。話し合いをして、決めました。僕の命令には必ず従うと決めたのに、彼だけがそれを守らなかったのです。監視役の報告で僕はそれを確認し、相談して処分を決めました。『ちゃんと仕事をしたらお菓子をあげる』という約束でした。僕は何か間違っているでしょうか。もし、そうなら王子様。僕が何を間違っているのかを教えて下さい」
 十歳の子供とも思えぬ理路整然とした説明に、ふと疑念が萌した。
 この子供、誰かに似ている。体は小柄な方かも知れぬ。しかし何と言おうか。そう、気概が。
「今時の市井の子供は皆こういうものなのか? 一国の後継者たる者を前にして少しも萎縮せぬとは。心強いやら、詰まらぬやら」
 笑いを含んだ王子の呟きに、父親は恐縮して身の置き処に困っていた。少年はといえば対照的につぶらな瞳をまっすぐに王子に向けて、後ろ暗いものは何もないのだ。と言わんばかりに胸を張っていた。その瞳の色が、ふと王子の記憶の中で揺らめいた何かと同じ色をしていた。
「そういえば。久しくお前の妻にも会わぬが、この子はどちらかというと母親似かな?」
 その言葉にびくっと身を震わせた父親を、王子アステュアゲスは試すような目で見つめている。俯いた父親の膝が微かに震えているのに少年は気づいた。
「は。どちらかというと」
「あまり両親のどちらにも似ておらぬように見えるな」
「い、いえ。我らよりもこの子は祖父母に似ているようでございまして」
「ほう」
 探るような目つきに、父親は脂汗を流している。
「息子は好奇心旺盛なようだ。折角王宮に来たのだ。見物させてやろう」
 その言葉に、少年は目を輝かせた。王子の侍従が少年を奥へと誘う。
「今宵は久しぶりゆえ、お前はここに残れ」
 射るような光を秘めた王子の視線に、牛飼ミトラダテスは血も凍る思いがした。

「あの子供は一体どこで手に入れた?」
 直接的な物言いは、それを確信していたからであろう。王子の記憶と符合する年齢、顔つき。そしてその態度は牛飼の子供には些か立派すぎた。
「あの子は我らが子でございます。産んだ母も一緒に…」
 牛飼の抗弁は途中で遮られていた。近くに侍っていた護衛兵が彼を槍で束縛する。
「痛い目を見たいか?」
 肉食獣のような微笑みが、ミトラダテスを見つめていた。その恐怖に怯え、程なく彼は屈した。真実が十年ぶりに明るみに出されたのである。

 夕刻。王子アステュアゲスの急な呼び出しに、ハルパゴスは王宮への道を歩いていた。いつものように、無駄なく。ふと、左の頭部に痛みを憶えて顔を顰める。何やら悪いことが起こりそうな予感がするのだが。そう思いつつも、王子の命令をないがしろにしてはこの国で生きてはいけぬ。彼は痛みを堪えて王子の居室に向かった。
「御前に伺候致しました」
 言葉少なにそう告げると、王子の視線に出会った。いつもながら王子の表情は読めぬ。それは王者としての器を現すものなのか、それとも…と思いかけて、ハルパゴスは思考を止めた。考えても詮ないことである。と思ったからである。
「ハルパゴス、のう。いつだったかお前に処分を任せたあの赤子、一体どのように始末をしたのかもう一度聴かせてくれぬか」
 その王子の後ろから、牛飼ミトラダテスが後ろ手に縛られて連れて来られるのが見えた。嘘は言えぬ。言い逃れもならぬ。彼は腹を括った。
 ハルパゴスの話を聞き終えると、王子はやわらかい微笑みを浮かべた。
「あの子に与えた仕打ちについてはかねてより悩んでおった。娘には恨まれるし、心安らかでは居られぬ日々だったが。幸いにしてめでたい結末を迎えられたようである。あの子は親元に戻すつもりゆえ、お前の子……確か十三ばかりであったな。その子を伺候させよ。それからあの子の命を救って下さった神へもお祭をせねばなるまいな。それに相応しい晩餐を用意しよう。二人揃って来るが良い」
 ハルパゴスは、思ってもみなかった光栄に心踊らんばかりであった。やはりあのお子……クル様を救って正解だったのだ。と彼は確信していた。しかし、それは彼にとっての真の災難の幕開けに過ぎなかった。

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